第9話 疑惑の不倫旅行写真
神保町の地下にある『デジタル・アーカイブス社』。
この場所は、死者のデータを整理する静謐な空間――であるはずなのだが、今日の空気は少し違っていた。
「絶対に、絶対にクロです! 証拠を出してください!」
革張りのソファでヒステリックに叫ぶのは、本日の依頼人・栗原美佐子さん。
派手な巻き髪に、ブランド物のバッグ。香水の匂いがきつい。
彼女の目の前には、先日交通事故で亡くなった夫のスマートフォンが置かれている。
「夫は出張だと言ってましたけど、女と旅行に行ってたに決まってます! だって、遺品のスーツのポケットから、高級旅館の領収書が出てきたんですよ!? しかも2名様!」
「……それで、ご依頼は?」
所長の阿部邦彦は、耳の穴を小指でほじりながら、面倒くさそうに応対している。
「スマホのロックを解除して、その『旅行の写真』を見つけ出してください。不倫相手の顔が写っているはずです。それを証拠に、あの女から慰謝料をふんだくってやります! 夫の退職金も渡しません!」
美佐子さんの目は血走っていた。
愛する夫を亡くした悲しみよりも、裏切られた怒りと、金銭的な執着が勝っているようだ。
私はお茶を出しながら、少し胃が痛くなるのを感じた。こういうドロドロした案件は気が滅入る。
「……分かりました。パスワード解除と、画像データの抽出ですね」
阿部さんは淡々とスマホをケーブルに繋いだ。
解析ツールが走り出す。
数分後、あっけなくロックは解除された。
「フォルダを確認する」
阿部さんが操作すると、モニターにサムネイル画像が羅列された。
その中に、明らかに日付の新しい、旅先で撮ったと思われる写真群があった。
「これだわ! やっぱり!」
美佐子さんが身を乗り出す。
阿部さんが画像を拡大する。
そこには、風情ある温泉街の風景や、豪華な懐石料理の写真が写っていた。
しかし、肝心の「人物」が写っていない。
ツーショットはおろか、夫のピン写真すらない。ただの風景写真ばかりだ。
「なによこれ……女は? 女はどこよ!」
「隠しているな」
阿部さんが眼鏡の位置を直した。
「この写真のExif情報を見る限り、撮影場所は箱根だ。だが、巧妙に人物が写り込まないアングルで撮られている。……意図的にな」
「やっぱりやましいことがあるんだわ! もっと探して! 隠しフォルダとかないの!?」
「今探している。……だが、これだけ用心深いと、データ上には残していない可能性が高い」
阿部さんは一度キーボードから手を離し、私の方を向いた。
「おい石川」
「はい?」
「出かけるぞ」
「えっ、どこへ?」
「箱根だ」
――はい?
私は耳を疑った。
今から? 箱根? 勤務中に?
「データにないなら、現場のログを拾うしかない。このスマホのGPSログをトレースして、夫が立ち寄った場所を完全に再現する。そこで何があったのか、現地で検証するぞ」
「ええっ!? でも、お店は……」
「今日は休業だ。行くぞ」
阿部さんはジャケットを羽織り、強引に私を立たせた。
「あ、あの! 私はどうすれば!?」
置き去りにされそうになった美佐子さんが叫ぶ。
「あんたはここで待ってろ。……おい中島、あとは頼んだぞ」
阿部さんが誰もいない空間に向かって声をかけた。
すると、入り口のドアが開き、トレンチコート姿の美女・中島鞠さんが入ってきた。
「人使いが荒いわね、坊や」
「情報屋だろ。この夫のクレカ履歴と、相手の女の身元調査。裏取っとけ」
「はいはい。追加料金、高いわよ」
鞠さんはウインクすると、慣れた手つきで美佐子さんの相手を引き継いだ。
阿部さんは私を連れて、地下室を飛び出した。
数時間後。
私たちは、箱根湯本の商店街にいた。
平日だというのに、観光客で賑わっている。
「……あの、所長」
「なんだ」
「これって、もしかして……デート、ですか?」
私が恐る恐る尋ねると、阿部さんは心底嫌そうな顔をした。
「は? ふざけるな。これは『現場検証』だ」
「でも、周りから見たら完全にカップルですよ……」
阿部さんはパーカーではなく、珍しく襟付きのシャツにジャケットを着ている。私もオフィスカジュアルだ。
並んで歩いていると、確かに年の差カップルの温泉旅行に見えなくもない。
阿部さんはスマホのGPSログを見ながら、早足で進んでいく。
「夫の足取りを追う。まず駅前で饅頭を買い、その後、この『カップル専用』と銘打たれたカフェに入っている」
「カップル専用……」
「入るぞ」
「えっ」
阿部さんは躊躇なく、ピンク色の看板が掲げられたファンシーなカフェに入店した。
店内はハートの装飾だらけ。客層はラブラブなカップルばかり。
その中で、無精髭の巨漢と、困り顔の私の組み合わせは、明らかに浮いていた。
「いらっしゃいませ~! カップルシートへどうぞ~♡」
「……ああ」
通されたのは、二人が密着して座るような狭いソファ席。
近い。阿部さんの腕の筋肉が当たる。
スパイスと、微かな整髪料の匂いがした。
「注文は、この『ラブラブ・ハート・パフェ』だ」
「えええ!? 阿部さんがそれ食べるんですか!?」
「夫のレシート履歴にある。同じものを頼んで、当時の状況を再現するんだ」
運ばれてきたのは、巨大なハート型の器に盛られた、毒々しいほどピンク色のパフェだった。スプーンが二つ刺さっている。
阿部さんは真顔でスプーンを握り、パフェを掬った。
「……甘い。糖度が高すぎる。イチゴソースの酸味が死んでいる」
「食レポしてる場合ですか!」
「石川、食え。一人で食うと不自然だ」
「もう不自然ですよ!」
私はヤケクソでパフェを口に運んだ。甘すぎて頭が痛くなる。
阿部さんはパフェを食べながら、鋭い視線で店内を観察している。
「……この席だ。GPSの誤差を修正すると、夫が座っていたのはここだ」
「何か分かるんですか?」
「壁を見ろ」
阿部さんが指差した壁には、来店したカップルたちが書いたメッセージカードが無数に貼られていた。
『ずっと一緒♡』『結婚記念日!』
阿部さんはその中から、一枚のカードを見つけ出した。
「あったぞ。日付と筆跡が一致する」
阿部さんが剥がしたカードには、こう書かれていた。
『これからの人生、君ともう一度やり直したい。 タカシ』
「……やり直したい?」
「不倫相手にか? それとも……」
阿部さんはカードをスマホで撮影すると、次の場所へ向かった。
ガラス工房、遊覧船、そして最後は、縁結びで有名な神社。
行く先々で、夫は何かを残していた。
工房では「M」というイニシャル入りのペアグラス。
神社では「妻の笑顔が戻りますように」という絵馬。
「……Mって、美佐子さんのMですよね?」
「ああ」
「じゃあ、不倫じゃなくて……奥さんとの仲直りのための下見だったんじゃ?」
私は胸が温かくなるのを感じた。
夫は、冷え切った夫婦仲を修復するために、一人でこのデートコースを考え、下見に来ていたのだ。
あの不倫疑惑の写真は、妻を驚かせるためのサプライズ計画の記録だったのだ。
「いい話じゃないですか! 早く帰って、美佐子さんに教えてあげましょう!」
「……待て」
阿部さんが足を止めた。
神社の境内。彼はスマホの画面を睨みつけている。
「GPSログが、ここだけおかしい」
「え?」
「神社の裏手で、ログが30分間途切れている。電波が入らない場所じゃない。……電源を切ったか、機内モードにしたかだ」
阿部さんは神社の裏へと歩き出した。
そこには、ひと気のない林道が続いていた。
少し歩くと、古びたベンチがあった。
「……ここで、誰かと会っていたのか?」
その時、阿部さんのスマホが鳴った。鞠さんからだ。
『もしもし、坊や? ビンゴよ。真っ黒ね』
「……どういうことだ」
『夫のクレカ履歴、裏が取れたわ。定期的に大金が引き落とされている口座がある。名義は……』
電話を切った阿部さんの表情が、冷たく凍りついた。
「帰るぞ、石川」
「え? 何が分かったんですか?」
「……知りたくない真実だ」
事務所に戻ると、美佐子さんはまだイライラと貧乏ゆすりをしていた。
その横には、なぜか喪服姿の岡田アキさんがいて、なだめるように肩を揉んでいる。
「まあまあ奥さん、お茶でも飲んで落ち着いて」
「触らないでよ! 葬儀屋なんて縁起でもない!」
「ひどいなー。私、今日はたまたま通りかかっただけなのに」
アキさんは私を見ると、「お帰り! 修羅場だよ!」と口パクで伝えてきた。
「おい、報告しろ! 不倫の証拠は!?」
美佐子さんが阿部さんに詰め寄る。
阿部さんは無言で、一枚の紙をテーブルに置いた。
それは、鞠さんが調べた調査報告書だった。
「……結論から言う。夫は、不倫をしていた」
「ほら見たことか! やっぱりね!」
美佐子さんは勝ち誇ったように叫んだ。
「でも、相手は女じゃない」
「は?」
「……ギャンブルだ」
阿部さんがモニターに画像を表示した。
それは、箱根の神社の裏手で行われていた、違法賭博の現場写真だった。
「夫は深刻なギャンブル依存症だった。箱根に行ったのはデートの下見なんかじゃない。この違法カジノに参加するためだ。……神社の絵馬も、ガラス工房のペアグラスも、全ては『妻へのサプライズ』というアリバイを作るためのカモフラージュだ」
阿部さんの言葉に、私は息を呑んだ。
あの「やり直したい」というメッセージも、夫婦関係のことではなく、ギャンブルで借金をチャラにして人生をやり直したい、という意味だったのか。
「そ、そんな……」
「さらに、この領収書の『2名様』。もう一人は女じゃない。……闇金業者だ。借金のカタに、夫を監視するために同行していた男だ」
阿部さんは冷酷な事実を突きつけた。
美佐子さんの顔から、血の気が引いていく。
「嘘よ……。じゃあ、退職金は?」
「ない。すでに前借りして、全額溶かしている。それどころか、あんた名義の借金まで残っている可能性がある」
沈黙。
永遠にも感じる沈黙の後、美佐子さんの口から絶叫が迸った。
「ふざけんなああああああああ!!」
彼女は近くにあった花瓶を掴み、床に叩きつけた。
ガシャン! という派手な破砕音。
「あのバカ男! 死んでまで私に迷惑かける気!? 許さない! 骨まで砕いてやる!」
美佐子さんは狂乱状態で暴れ始めた。
私は恐怖で動けなかったが、アキさんが素早く動いた。
「奥さん! 落ち着け!」
アキさんは美佐子さんの背後に回り込み、プロレス技のようなホールドで動きを封じた。
元ヤンの腕力、さすがだ。
「離して! 殺してやる!」
「もう死んでるべ! 暴れても金は戻らねえぞ!」
地下室は阿鼻叫喚の地獄絵図となった。
その時。
ドンドンドンドン!!
天井が激しく揺れた。
そして、入り口のドアが乱暴に開かれた。
「うるっさいわねえええ!!」
仁王立ちしていたのは、眼鏡をかけた大家・後藤かほりさんだった。
手には分厚いハードカバーの本を持っている。
「痴話喧嘩で店を揺らすな! 本が棚から落ちるでしょうが!」
「ひっ……」
かほりさんの剣幕に、美佐子さんが一瞬静まり返った。
かほりさんは荒れた室内を見回し、呆れたようにため息をついた。
「……まったく。阿部くん、あんたまた女泣かせたの?」
「俺じゃない。夫の自業自得だ」
「ふん。……これ、あげるわ」
かほりさんは、持っていた本を美佐子さんに差し出した。
それは『モンテ・クリスト伯』だった。
「復讐の物語よ。これを読んで頭を冷やしなさい。……物を壊すより、知的に復讐する方法を考えた方が建設的よ」
「復讐……」
「そう。相続放棄の手続きとか、闇金への対抗策とかね。……ここには優秀な情報屋と、あと使える弁護士のコネもあるわよ」
かほりさんの言葉に、美佐子さんは少しだけ正気を取り戻したようだった。
彼女は本を受け取り、力なく座り込んだ。
「……そうね。泣いてる場合じゃないわね。……徹底的に戦ってやるわ」
美佐子さんの目に、再び力が宿った。
それは最初にここへ来た時の「被害者」の目ではなく、理不尽な運命と戦う「サバイバー」の目だった。
騒動が収束した後。
アキさんが片付けを手伝ってくれたおかげで、地下室は元の静けさを取り戻した。
「あーあ、疲れた。……阿部ちゃん、ビール」
「勝手に冷蔵庫から出せ」
アキさんがビールを取り出し、鞠さんがワインを開け、かほりさんが本を読みながらお茶を飲む。
いつの間にか、この地下室は女たちの溜まり場になっていた。
「……今日は災難でしたね」
私が言うと、阿部さんはキッチンで中華鍋を振りながら答えた。
「真実ってのは、大抵ロクなもんじゃない。……だが、知らないままでいるよりはマシだろ」
出てきたのは、真っ赤なエビチリだった。
辛そうだが、匂いだけで食欲をそそる。
「食え。カプサイシンでストレスを発散しろ」
「いただきます!」
みんなでエビチリを囲む。
辛い。でも美味い。
美佐子さんの夫の「不倫疑惑」は、最悪の形で裏切られたけれど、彼女は新たな戦いへと歩き出した。
そして、あの「デート」で見せた阿部さんの不器用な一面。
パフェを食べる横顔を思い出し、私は少しだけ笑ってしまった。
「なにニヤニヤしてるんだ、石川」
「いえ……阿部さんとデートするなら、甘いものより激辛中華の方がいいなって思いました」
「……デートじゃないと言っただろうが」
阿部さんは耳を赤くして、エビチリをかき込んだ。
これが、私の知る限りもっとも騒がしく、そして少しだけ甘酸っぱい一日の終わりだった。




