第8話 呪いの古書と不機嫌な大家
神保町の地下、電子機器の排熱と古書の匂いが混ざり合う『デジタル・アーカイブス社』。
この日、持ち込まれた依頼品は、これまでで最も「デジタル」から遠い物体だった。
「……汚ねえな」
所長の阿部邦彦は、デスクの上に置かれた物体を、ピンセットで摘まみ上げながら顔をしかめた。
それは、ボロボロの和綴じ本だった。
表紙は虫食いだらけで、カビと防虫剤の混じった強烈な古臭い匂いを放っている。さらに、表紙ごと何重にも太い紐で縛られ、封印のように墨で何かが書かれた札が貼られていた。
「父は生前、この本を『開かずの書』と呼んで、金庫の奥に隠していました」
依頼人の男性・高柳さんは、ハンカチで額の汗を拭いながら言った。
先日亡くなった高柳さんの父親は、在野の歴史学者として知られていた人物だ。
「父は死ぬ間際、『あの中に、私の生涯をかけた研究の全てがある』と言い残しました。ある埋蔵金の伝説……いや、失われた古代遺跡の場所を示す地図が隠されているらしいのです」
「埋蔵金ねぇ……」
阿部さんは興味なさそうに鼻を鳴らす。
「俺たちはデータの整理屋だ。古物商でもトレジャーハンターでもない。博物館に行け」
「い、いえ! 博物館にも相談しましたが、『状態が悪すぎて開けば崩壊する』と断られたのです! それに、父は『暗号はデジタルでしか解けない』とも言っていました」
「デジタルで?」
その言葉に、阿部さんの眉がピクリと動いた。
難攻不落のセキュリティと聞けば、燃えるのがハッカーの性分だ。
「……いいだろう。中身を見ずにスキャンしてやる」
阿部さんは奥の機材棚から、大型のフラットベッドスキャナのような装置を取り出した。
業務用X線CTスキャナだ。本来は精密機器の非破壊検査に使うものだが、阿部さんはこれを遺品の解析に使っている。
「紐を解かずに、X線でページごとのインクの成分を読み取る。紙と墨の密度差を検出すれば、開かなくても文字データ化は可能だ」
阿部さんは自信満々に古書をセットし、キーボードを叩いた。
ウィーン、という駆動音と共に、モニターにモノクロの画像が次々と映し出される。
見事だ。重なったページの一枚一枚が、透視するように表示されていく。
「よし、画像抽出完了。これをOCRソフトにかければ、一瞬でテキストデータになる」
阿部さんはエンターキーを強く叩いた。
画面上のプログレスバーが伸びる。
しかし――。
『エラー:文字認識できません』
『エラー:言語設定を確認してください』
「あ?」
阿部さんが不機嫌な声を上げる。
何度試しても、結果は同じだった。
「なんだこの字は……。ミミズがのたうち回ったような……」
「くずし字ですね。いわゆる変体仮名です」
「知ってるわ! だが、俺の自作AIは江戸時代の古文書データも学習済みだ。それが認識しないということは……」
阿部さんは画像を拡大した。
そこには、確かに文字のようなものが書かれているが、既存のどのくずし字とも微妙に形が違っていた。しかも、ところどころに奇妙な記号や、アルファベットのような図形が混ざっている。
「クソッ、アナログめ……! 規則性がまるで掴めん! フォントを変えろ! 統一しろ!」
阿部さんがデスクをバンと叩く。
天才解析士も、手書きの「癖」と「経年劣化」というアナログの壁には無力だった。
デジタルデータなら0か1しかないが、インクの滲みには無限のグラデーションがあるからだ。
「……無理ですか?」
「無理じゃない! 俺に解けないコードはない!」
阿部さんは血走った目でモニターを睨みつけるが、解決の糸口は見えない。
私はオロオロしながらお茶を淹れ直すことしかできない。
その時。
阿部さんが深いため息をつき、引き出しから「長い棒」を取り出した。
「……所長? 何をするんですか?」
「最終手段だ」
阿部さんはその棒で、天井をドンドン、と3回つついた。
え? 天井?
何の儀式だろうかと思っていると、頭上からドスドスという足音が聞こえ、やがて入り口のドアが開いた。
「うるさいわね。……何の用?」
入ってきたのは、眼鏡をかけた長身の女性だった。
年齢は阿部さんと同じくらいだろうか。色素の薄い髪を無造作に束ね、古着屋で買ったようなツイードのジャケットに、ロングスカートを合わせている。
その手には分厚い洋書が握られており、今まさに読書の最中だったと全身で主張していた。
「で? 天井をつついたってことは、家賃払う気になったの? 阿部くん」
家賃!?
私は驚いて阿部さんを見た。
「……違う。後藤、ちょっとこれを見ろ」
「はあ? 私、今いいところなのよ。ドストエフスキーの『悪霊』のクライマックスなの」
「いいから見ろ」
阿部さんは強引に女性をモニターの前へ引っ張っていった。
彼女は迷惑そうに眉を寄せながらも、眼鏡の位置を直し、画面を覗き込んだ。
「……何これ。汚い字ね」
「読めるか?」
「読めるかって……私を誰だと思ってるの?」
彼女は鼻で笑うと、モニターに顔を近づけた。
「……変体仮名の『あ』ね。こっちは『い』。でも、筆跡が独特だわ。これは安政年間の儒学者がよく使う、わざと崩した書き方……。待って、この間の記号は……オランダ語?」
「オランダ語だと?」
「ええ。蘭学の知識がある人間が書いたものね。仮名の間に、アルファベットを崩した暗号を混ぜてる。……『Z・U・I・D』……南ね」
彼女はスラスラと読み解いていく。阿部さんのAIが匙を投げた難解な文字を、まるで絵本でも読むかのように。
「……この人、誰なんですか?」
私が小声で阿部さんに尋ねると、彼は忌々しそうに答えた。
「後藤かほり。このビルのオーナーであり、1階にある『後藤書房』の店主だ。……俺の天敵だ」
「天敵?」
「大家権限で、サーバーの排熱が本を傷めるだの、夜中にキーボードの音がうるさいだのと文句を言ってくる。……あと、俺が家賃を3ヶ月滞納している弱みを握っている」
「払ってくださいよ!」
私がツッコミを入れている間に、かほりさんは興味深そうに目を輝かせ始めた。
「へえ……面白いわね。これ、ただの日記じゃないわ。2重暗号になってる。表向きは漢詩に見せかけて、実はオランダ語の文法で読み解くと、ある座標が浮かび上がる仕組みよ」
「解けるのか?」
「解けるわよ。でも……」
かほりさんはパタンと洋書を閉じ、阿部さんを冷ややかに見下ろした。
「なんで私がタダで協力しなきゃいけないの? 私は忙しいの。この世界のすべての活字を読む義務があるのよ」
「……くっ」
「それに、滞納してるお家賃、どうなってるの? 今月で4ヶ月目よ」
阿部さんが苦虫を噛み潰したような顔をする。
プライドの高い彼が、ここまで追い詰められるとは。
しばらくの沈黙の後、阿部さんは絞り出すように言った。
「……分かった。滞納分は耳を揃えて全額払う。……その上で、半年分先払いしてやる!」
「あら、景気がいいじゃない。でも、それだけ?」
「……なんだと?」
「私の店の稀覯本リスト、データベース化してくれるって約束、まだ守ってないわよね?」
「チッ……分かったよ! やるよ! 今夜中にやる!」
阿部さんが降参した。
かほりさんは満足げに口角を上げると、「商談成立ね」と言ってソファに座り込んだ。
「……ところで、貴女」
かほりさんが、不意に私の方を向いた。
鋭い眼差しに見透かされた気がして、私は背筋を伸ばした。
「は、はい!」
「見ない顔ね。名前は?」
「あ、申し遅れました。今月からこちらで働いている、石川彩です」
「そう、石川さんね。……この店子の世話、大変でしょうけどよろしく頼むわ」
かほりさんはふっと表情を緩めると、優雅に足を組んだ。
「石川さん、紅茶をいただける? アールグレイじゃなくて、ラプサンスーチョンがあればいいんだけど」
「あ、あります! 少々お待ちを!」
私は急いでキッチンへ走った。この大家さん、只者じゃない。
そこからの作業は、奇妙な「共闘」だった。
かほりさんが画面上の崩し字を目で追い、口頭で翻訳する。
『北の星を見上げ、3寸下がる。其処に古き石あり……』
阿部さんがそれを猛烈な速度でタイピングし、デジタル地図と照合していく。
「おい後藤、ここの『石』は、墓石か? それとも道祖神か?」
「文脈からすると、特定の形状をした自然石ね。おそらく『蛙』の形をした石よ。オランダ語の『Kikker』をもじった記述があるわ」
「蛙石か……。検索かける。……ヒットした。群馬県の榛名山麓にある廃神社の近くだ」
阿部さんがモニターに衛星写真を表示する。
そこには、森の中に埋もれた鳥居と、苔むした蛙のような岩が映っていた。
「すごい……! 父が探していた場所は、本当にあったんですね!」
依頼人の高柳さんが身を乗り出す。
「まだだ。ここからが本番だ。暗号は続く。『石の背に彫られたる歌を読め』とある」
「現地の写真はあるか?」
「ストリートビューはないエリアだ。だが、過去の登山者のブログに写真があるかもしれん」
阿部さんが画像検索を駆使し、10年前に撮影されたという個人のブログ写真を見つけ出した。
不鮮明だが、蛙石の背面に文字が刻まれているのが見える。
「……読めん。解像度が低すぎる」
「貸して」
かほりさんが眼鏡の位置を直し、モニターに顔を近づける。
彼女は目を細め、じっとその荒い画像を見つめた。
「……『月落ち烏啼いて霜天に満つ』……張継の『楓橋夜泊』ね。でも、2文字目が違う。『月』じゃなくて『日』になってる」
「誤字か?」
「いいえ、意図的な改変よ。これは……カエサル暗号の一種ね。文字をずらしてるんだわ。……阿部くん、キーボード貸して」
かほりさんは阿部さんを押しのけ、自らキーボードを叩き始めた。
その手つきは、阿部さんのような高速タッチタイピングではないが、迷いがなかった。
「漢詩の文字コードを数値化して、3つずらすと……出たわ。座標よ」
エンターキーが押される。
画面上の地図に、赤いピンが立った。
それは、神社の地下深くを示すポイントだった。
「ここが……父の研究の答え……」
高柳さんが感極まったように声を震わせる。
「はい、これ」
阿部さんがUSBメモリを差し出した。
中には、解読された全テキストデータと、遺跡の正確な座標データが入っている。
「これを持って大学か教育委員会に行くといい。正真正銘の、世紀の発見だ」
「ありがとうございます……! 本当に、どうお礼を言えばいいか……」
「礼なら、そこの大家に言ってくれ。俺一人じゃ、ただの汚い落書きにしか見えなかった」
阿部さんが珍しく他人を立てた。
かほりさんは、紅茶を優雅に啜りながら、「あら、褒めても何も出ないわよ」と涼しい顔をしている。
依頼人が千円札の束を置いて帰った後。
地下室には、静寂と紅茶の香りが残った。
「……やるな、大家」
「あなたこそ。あの粗い画像から文字を見つける検索能力、少しは見直したわ」
かほりさんが立ち上がる。
阿部さんは不機嫌そうにそっぽを向いているが、その耳は少し赤い気がする。
なんだかんだ言って、この二人は似た者同士なのかもしれない。
知識への執着と、プロとしてのプライドにおいて。
「じゃあ、約束通りデータベース化、お願いね。貴方の言葉通り、『今夜中に』頼むわよ」
「……クソッ、余計なこと言った」
「ふふ、できるわよ、あなたなら。……じゃあね、石川さん。紅茶、美味しかったわ」
かほりさんは私に微笑むと、再びドスドスと足音を立てて階段を上がっていった。
嵐が去ったような静けさの中、阿部さんが深いため息をつく。
「……クソッ。今夜は徹夜だ」
「手伝いましょうか?」
「いらん。お前は帰れ。……ああ、その前に」
阿部さんは、依頼人が置いていったチップの封筒を私に投げた。
「これで美味い肉を買ってこい。脳を使うと腹が減る」
「肉って……また料理ですか?」
「当たり前だ。今夜はローストビーフだ。低温調理で3時間かける」
私は苦笑いしながら封筒を受け取った。
デジタル遺品整理士と、アナログ古書店主。
水と油のような二人だが、ローストビーフの味付けのように、案外いいバランスなのかもしれない。
私は買い出しリストを作りながら、ふと上を見上げた。
天井の向こうには、数万冊の本に囲まれた魔女が住んでいる。
この事務所のセキュリティは、ファイアウォールよりも、あの大家さんの方が強力かもしれない。
そう思うと、少しだけ頼もしく思えた。




