第6話 情報屋の土産と消えたレシピ
神保町の地下、スパイスの香りが漂う『デジタル・アーカイブス社』。
今日の所長・阿部邦彦は、いつにも増して不機嫌だった。
「……おい石川。なんだこのコーヒーは」
「えっ? い、いつものマンデリンですけど」
「抽出温度が高い。苦味が出すぎだ。88度で淹れろと言ったはずだ」
「そんな細かい温度設定、給湯ポットじゃ無理ですよ!」
私が反論すると、阿部さんはフンと鼻を鳴らし、マグカップをデスクの端に追いやった。
ここ数日、依頼が途絶えている。
阿部さんは「暇」が嫌いだ。正確には、暇を持て余してロクでもないことを考え始めるのが常だ。
その時。
カツ、カツ、カツ。
地下への階段を降りてくる、小気味良いヒールの音が響いた。
普段の、迷いながら降りてくる依頼人の足音とは違う。
迷いのない、自信に満ちたリズム。
「客か?」
阿部さんが眉をひそめた瞬間。
重たいスチールドアが、ノックもなしに勢いよく開かれた。
「元気してる? 引きこもりの坊や」
部屋に入ってきたのは、この薄暗い地下室には似つかわしくない、洗練された大人の女性だった。
艶やかなダークブラウンのボブカット。身体のラインに美しくフィットしたベージュのトレンチコート。
その手には、高級そうな赤ワインのボトルが一本、無造作に握られている。
まるで映画のスクリーンから抜け出してきたような、知的な美貌の持ち主だった。
「……ゲッ。アンタか」
阿部さんが露骨に嫌そうな顔をする。
私は驚いて二人を見比べた。あの阿部さんが、たじろいでいる?
「い、いらっしゃいませ……?」
「あら、新しい子? 可愛いわね」
女性は私を見ると、ふわりと花が咲くような笑顔を見せた。
そして、勝手知ったる様子でソファに座り、ワインボトルをテーブルに置いた。
「初めまして。私は中島鞠。一応、ここの『共同出資者』ってことになってるわ」
「えっ、出資者!?」
「ただの腐れ縁だ。……おい中島、今日は何の用だ。また厄介ごとか?」
阿部さんが警戒心丸出しで尋ねる。
鞠と呼ばれた女性は、コートのポケットから一枚のメモを取り出した。
「今日は仕事の話じゃないわ。……個人的な依頼よ」
「珍しいな。アンタが俺に頭を下げるなんて」
「下げてないわよ。対価はこれでしょ?」
鞠さんはワインボトルを指先でコンと叩いた。
『シャトー・マルゴー』。私でも名前を知っている、超高級ワインだ。
阿部さんの目が一瞬、欲望に揺らいだのを私は見逃さなかった。
「……話を聞こうか」
「素直でよろしい」
鞠さんは悪戯っぽく微笑むと、表情を引き締めた。
「先週、私の祖母が亡くなったのは知ってるわよね?」
「ああ。有名な料理研究家だったな。ニュースで見た」
「えっ、鞠さんのお祖母様って、あの『中島トヨ』先生ですか!?」
私が驚きの声を上げると、鞠さんは静かに頷いた。
中島トヨといえば、家庭料理の神様と呼ばれた伝説的な料理研究家だ。テレビや雑誌で引っ張りだこだったが、数年前に引退していたはずだ。
「祖母はね、引退してからもずっと、新しいレシピを考え続けていたの。特に、亡くなる直前まで『最高の肉じゃが』の研究をしていたわ」
「肉じゃが、ですか?」
「ええ。ありふれた料理だけど、祖母にとっては原点だったみたい。……でもね、遺品を整理しても、そのレシピノートが見つからないの」
鞠さんはため息をついた。
「祖母は晩年、手書きじゃなくてタブレットを使っていたわ。クラウドに保存していると言っていたけれど、そのアカウントのパスワードが分からない。……私が何度試してもダメだった」
彼女はバッグから一台のタブレット端末を取り出した。
手垢のついた、使い込まれたiPadだ。
「私が欲しいのは遺産じゃない。祖母が最期に残そうとした『味』よ。それを世に出さずに消してしまうのは、料理研究家としての祖母への冒涜だと思うの」
「……なるほどな」
阿部さんはタブレットを受け取り、電源を入れた。
ロック画面が表示される。4桁のパスコードだ。
「4桁か。単純だが、組み合わせは1万通りある」
「誕生日は試したわ。祖父の命日も、私の誕生日もダメ」
「だろうな。プロの料理人が、プライベートな数字を仕事道具の鍵にするとは思えん」
阿部さんはキーボードに向かい、解析ツールを接続した。
カチャカチャという音が響く中、私は鞠さんのためにグラスを用意した。
「どうぞ、お水ですが……」
「ありがとう。……ねえ、貴女。阿部ちゃんの料理、もう食べた?」
「え? あ、はい。毎日まかないを頂いてますけど……」
「ふふ、胃袋掴まれちゃった? あいつ、性格は破綻してるけど、舌だけは確かなのよね」
鞠さんは愛おしそうに、キッチンに立つ阿部さんの背中を見た。
二人の間には、私には入り込めないような、長い時間の積み重ねがあるように見えた。
「……開かん」
数分後、阿部さんが舌打ちをした。
「なんだと?」
「ブルートフォースを仕掛けてるが、セキュリティロックがかかる寸前だ。これ以上試行するとデータが初期化される設定になってる」
「そんな……。阿部ちゃんでも無理なの?」
「ヒントが足りない。……おい中島、アンタ『足』は使ったのか?」
「足?」
「デジタルでこじ開けられないなら、アナログな手掛かりを探すしかない。祖母の行動履歴だ。最近、どこに行ってた?」
阿部さんの問いに、鞠さんはハッとしたように顔を上げた。
「そういえば……亡くなる三日前、祖母がいつもの八百屋に行っていたって、近所の人が言ってたわ」
「八百屋?」
「ええ。築地にある老舗の『八百松』。祖母が50年通い続けた店よ」
「そこだ。……行ってこい」
「はあ? 私が?」
「俺はこっちでクラウドのサーバーログを洗う。アンタは現場で『生の証言』を拾ってこい。それが情報屋の仕事だろ」
阿部さんは冷たく言い放つと、再び画面に向き直った。
鞠さんは一瞬ムッとした表情を見せたが、すぐにニヤリと笑った。
「……言ってくれるじゃない。いいわよ、見せてあげるわ。私の取材力」
鞠さんはコートを翻し、風のように事務所を出て行った。
残された私は、呆然とその背中を見送った。
「……すごい人ですね」
「口だけはな。……おい石川、鍋を用意しろ」
「えっ? 鍋?」
「中島が戻ってくるまでに下準備をする。あのマルゴーに合うつまみが必要だ」
阿部さんは解析プログラムを自動実行させると、キッチンに立ち、ジャガイモと牛肉を取り出した。
また料理だ。でも、今回の目は本気だった。
一時間後。
再びドアが勢いよく開かれた。
鞠さんが息を切らせて戻ってきた。その手には、泥のついたメモ用紙が握られている。
「取ってきたわよ、証言!」
「早かったな。で、何が出た?」
「八百屋の店主の話だと、祖母はあの日、やけに上機嫌で『1129』って呟いてたらしいわ」
「1129? いい肉か? 語呂合わせにしては単純すぎるな」
「違うのよ。店主が言うには、その日、祖母が買ったのはジャガイモと玉ねぎだけ。肉は買っていない。でも、『今日は特別な日だから』って、一番高いメークインを選んだんですって」
鞠さんはカウンターに身を乗り出した。
「特別な日……。カレンダーを確認したけど、その日は誰の誕生日でもないわ。でも、祖母にとっては……」
「……料理人にとっての『特別な日』か」
阿部さんは腕組みをして考え込んだ。
そして、ふと私の顔を見た。
「おい石川。お前、中島トヨのデビュー作を知ってるか?」
「えっ? えっと……確か、昭和の料理番組で紹介した『肉じゃが』がきっかけでブレイクしたって、母から聞いたことがあります」
「それだ」
阿部さんは猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
「中島トヨの初出演番組の放送日……1975年11月29日。……『いい肉』の日だ」
「えっ……まさか、それが?」
「料理人にとって、自分の料理が初めて世に認められた日は、第二の誕生日だ」
阿部さんはタブレットの画面に『1129』と入力した。
カチッ。
ロックが解除される音が、地下室に響き渡った。
「開いた……!」
鞠さんが歓声を上げる。
ホーム画面には、たった一つのメモアプリだけがあった。
タイトルは『人生最後の肉じゃが』。
鞠さんが震える指でタップする。
そこに書かれていたのは、驚くほどシンプルなレシピだった。
高級な牛肉も、特別な調味料も使わない。
ただ、ジャガイモの切り方と、火を入れるタイミングだけが、秒単位で細かく指定されていた。
『料理は、愛情じゃない。工夫だ。
高い材料を使えば美味しくなるのは当たり前。
安い材料で、家族を笑顔にするのが、家庭料理の魔法だ』
レシピの末尾には、そんな言葉が添えられていた。
「……おばあちゃん……」
「工夫、か。……あの人らしいな」
阿部さんは静かに呟くと、キッチンに戻った。
コンロには、すでに鍋がかかっている。
彼はタブレットのレシピを見ながら、正確な手つきでジャガイモを投入し、火加減を調整した。
「待ってな。今、再現してやる」
煮込むこと20分。
地下室に、甘辛い醤油の香りと、芳醇な出汁の香りが充満した。
阿部さんが皿に盛り付けたのは、見た目はごく普通の肉じゃがだ。
けれど、ジャガイモの角は煮崩れず、それでいて中まで味が染みているのが色で分かる。
「食ってみろ」
阿部さんが箸を渡す。
鞠さんは一口、口に運んだ。
咀嚼する。
その目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……これよ。子供の頃、おばあちゃんが作ってくれた味……」
私も一口頂いた。
衝撃だった。
どこにでもある肉じゃがなのに、ジャガイモの甘みが極限まで引き出されている。ホクホクとした食感と、豚肉の脂の旨味が、口の中で溶け合う。
これは、プロの料理ではない。「最高のお母さんの味」だ。
「……パスワードが『1129』だったのは、単なる記念日だからじゃない」
阿部さんがワイングラスにマルゴーを注ぎながら言った。
「初心を忘れないためだ。自分が料理研究家として成功した後も、一番最初に作った、安い肉とジャガイモだけの料理を愛し続けた。……それが、中島トヨという人間のプライドだったんだろ」
鞠さんは涙を拭い、ワイングラスを受け取った。
「ありがとう、阿部ちゃん。……あんた、やっぱりいい腕してるわ」
「素材が良かっただけだ。俺はただのコンパイラだよ」
阿部さんもグラスを掲げる。
カチン、と乾杯の音が響いた。
肉じゃがと、シャトー・マルゴー。
一見ミスマッチな組み合わせだが、二人が笑い合っている姿を見ると、それも悪くないと思えた。
「ねえ、石川ちゃんも飲みなさいよ」
「えっ、い、いいんですか? 勤務中……」
「いいのよ。所長命令でしょ?」
「……一杯だけな」
阿部さんが渋々といった様子で、三つ目のグラスを出してくれた。
私は恐縮しながら、その輪に加わった。
芳醇なワインの香りと、家庭的な肉じゃがの香り。
そして、阿部さんと鞠さんの、古い友人同士の気安い会話。
「そういえば阿部ちゃん、例の件はどうなってるの?」
「……まだ尻尾は掴めない。だが、焦げ臭くはなってきた」
「気をつけなさいよ。火傷じゃ済まないわよ」
二人が小声で交わした会話の意味は、私には分からなかった。
けれど、この地下室には、私の知らない過去と秘密が、まだまだたくさん埋まっているのだと実感した。
情報屋・中島鞠。
彼女が運んできたのは、美味しいワインと、少し苦い「大人の世界」の味だった。




