第41話 パンドラの鍵
シューゥゥゥ……。
無機質な音が、密室となった地下要塞の通路に響き渡る。
ファントムの防性AIによって最終ゲートが封鎖され、天井の通気口から消火用のハロンガスが容赦なく注入され始めていた。
酸素濃度が急激に低下していく。
息を吸っても、肺が満たされない。金魚鉢の外に放り出された魚のように、苦しさが全身を締め付ける。
「……ゲホッ、ゴホッ……!」
私は膝をつき、激しく咳き込んだ。
酸素がない空間で喘ぐ私を、葬儀屋の岡田アキさんが背中をさすって支えてくれた。
「彩ちゃん、無駄に動くな! 酸素の消費を抑えるんだ、呼吸は浅くしろ!」
アキさん自身も息を殺し、苦しそうに顔を歪めている。濡れタオルなどで口を覆うのは火災の煙には有効だが、酸素そのものが排出されている空間では呼吸抵抗を上げて窒息を早めるだけだ。ただ静かに耐えるしかない。
所長の阿部邦彦は、動かない左腕を庇いながら、右手一本で壁のシャッター制御盤のカバーをこじ開けていた。内部の基板に直接ケーブルを繋ぎ、自分のPCに接続する。
「……クソッ。物理的に電源は切られているが、内部のローカルバッテリーでロック回路だけが生きている。……解除には、マスターパスワードが必要だ」
阿部のPC画面には、真っ赤な背景に『INPUT PASSWORD』の文字と、10個のアンダーバーが点滅していた。
「……総当たりは?」
「時間が足りん。あと1分で、この区画の酸素濃度は致死レベルを下回る。……一発で当てるしかない」
阿部は額から滝のような汗を流し、血走った目でモニターを睨んだ。
通信はジャミングされ、後方支援班のエミリーやみずほの声はインカムから聞こえない。完全に孤立無援だった。
終わるのか。
姉さんが遺した真実を届ける前に、こんな冷たいコンクリートの箱の中で。
その数分前。
地上、港区の廃倉庫。
エミリー・ローレンスの三面モニターは、赤いノイズに埋め尽くされていた。
「Shit! 通信が完全に遮断されたわ! 奴ら、強力な広帯域ジャマーを使ってる!」
エミリーがキーボードを叩き壊さんばかりの勢いでタイピングする。
「ミズホ! 妨害電波の周波数の隙間を見つけて! 一瞬でもいい、バイパスを通すわ!」
「やってる! ……でも、向こうのホッピングの速度が早すぎる!」
みずほはヘッドホンを両手で強く押さえ、目を閉じて無数のノイズの中から「音の法則」を探し出そうと必死になっていた。
緊迫した作戦司令室。
しかし、その部屋の片隅で、別の意味で奮闘している人物がいた。
「……痛っ。ちょっと、やめなさい」
大家の後藤かほりだ。
彼女は床に座り込み、阿部の元上司でありファントム計画のシステム設計者である男の、過去の論文やプロファイル資料の山に埋もれていた。
その彼女のロングスカートの裾に、茶白の子猫「チビ」がしがみついている。
チビは最近、爪研ぎを覚えたらしく、かほりの足を木登り用の丸太か何かと勘違いしているのだ。
「ミャァッ!(遊んで!)」
鋭い爪が、タイツ越しに肌に食い込む。
阿部たちが命の危機に瀕しているこの極限状態だが、かほりの集中力を削ぐこの小さな猛獣を放置するわけにはいかなかった。
「……仕方ないわね。こんな状況だけど、集中できないから切るわよ」
かほりは極めて冷静に、アキが買っておいてくれたペット用品の袋から、小さな猫用の爪切りバサミを取り出した。
そして、スカートにしがみつくチビの首根っこをひょいと掴み、自分の膝の上にコロンと仰向けに乗せた。
「ミャウッ!?」
突然ひっくり返されたチビは、何が起きたか分からず目を丸くした。
かほりは迷いのない手つきで、チビのピンク色の肉球を「ぷにっ」と優しく押した。すると、隠れていた半透明の鋭い爪が、シャキッと姿を現す。
「ニャーッ!(やめろー!)」
チビが短い手足をバタバタさせて抵抗するが、かほりのホールドは完璧だった。
血管を切らないように見極め、先端の尖った部分だけを……パチン。
「ミャッ!?」
チビが驚愕の表情で、自分の手を見た。
パチン。パチン。
小気味良い音が響き、次々と武器が奪われていく。
抵抗しても無駄だと悟ったのか、チビは次第に暴れるのをやめ、最後には魂が抜けたような「虚無の変顔」になって、口を半開きにしたまま天井を見つめ始めた。
「……ふにゃぁ……(おわりだ……)」
その絶望しきったブサ可愛い顔に、かほりは思わずクスッと笑みをこぼした。
「よし、いい子ね。おとなしくしてなさい。……さて」
かほりはチビを膝に乗せたまま、再び資料に目を落とした。
設計者の書いた『ビッグデータによる完全社会の構築』という論文。
阿部は「人間はパスワードに心理的なバイアスをかける」と言っていた。
「……エミリー、この設計者の男、自分のシステムを何て呼んでいたかしら?」
「えっ? ええと、『神の目』よ。犯罪のない理想郷を作るための神の目だって」
エミリーが画面を見ながら答える。
「そう。彼の文章には、異常なほどの『自己神格化』と『完璧主義』が表れている。国民を愚かな羊と見下し、自分を導き手だと信じて疑わない……肥大化したエゴの塊ね」
かほりの眼鏡の奥で、知的な光が閃いた。
「ハッキングで解けないなら、プロファイリングで解けばいいのよ」
「……見つけた!」
その時、みずほが叫んだ。
「妨害電波のホッピング周期、0.5秒のラグがある! 次、3、2、1……今っ!」
「Got it!(もらったわ!)」
エミリーがエンターキーを叩き込んだ。
一瞬だけ、通信のトンネルが開通した。
地下要塞の通路。
意識が朦朧とし始めた私の耳に、ノイズ混じりのインカムの声が飛び込んできた。
『……クニ! 聞こえる!?』
「エミリーか!」
阿部が血を吐くような声で応えた。
『ジャミングを突破したわ! 状況は!?』
「最悪だ! ロックのマスターパスワードが必要だ。アルファベット10文字だ!」
インカムの向こうで、かほりさんの落ち着いた声が響いた。
『阿部くん。設計者の男は、自分を神だと思っているわ。愚かな人類を監視し、裁きを下す全知全能の存在……』
パスワード入力画面のタイムリミットが、容赦なく『00:05』……『00:04』と減っていく。
『マスターコードは……『OMNISCIENT(全知全能)』よ!』
「OMNISCIENT……!」
残り『00:02』。
阿部は震える右手で、その10文字を神速で叩き込んだ。
最後の一文字『T』を打ち込み、エンターキーを弾いた瞬間。
タイムリミットはギリギリ『00:01』で停止した。
ピーーーッ。
画面が緑色に変わり、『ACCESS GRANTED(アクセス承認)』の文字が表示された。
直後、ガコンッ! という重たい音がして、私たちを閉じ込めていた鋼鉄のシャッターがゆっくりと上昇を始めた。
ハロンガスの注入が止まり、外から冷たくて新鮮な空気が流れ込んでくる。
「……ぷはぁっ!! ゲホッ、ゴホッ……!」
「開いた……! 助かったべ……!」
アキさんがへたり込み、私も床に倒れ込んで貪るように空気を吸った。
阿部は壁にもたれかかり、荒い息を吐きながらニヤリと笑った。
「……さすがだな、大家。また一つ、でかい借りが増えちまったな」
『ええ。家賃の滞納分に、命の恩まで追加ね。あんた、一生私のビルから逃げられないわよ』
インカム越しのかほりさんの得意げな声を聞きながら、私たちは立ち上がった。そして、ついに開かれた最終ゲートの先――「メインサーバー室」へと足を踏み入れた。
そこは、まるでSF映画のセットのような、異様で冷酷な空間だった。
巨大な体育館ほどの広さを持つ部屋に、黒いサーバーラックが何百台も整然と並んでいる。無数の青いLEDランプが、星空のように瞬いていた。
これが、日本の国民全員のデータを吸い上げ、監視し、選別している悪魔の心臓部。
部屋の中央には、ひときわ大きなメインコンソールが鎮座していた。
「……ここが、ファントムのコアだ」
阿部がコンソールに近づき、キーボードに触れた。
しかし、画面には『システムロックダウン中。外部からのコマンドを受け付けません』と表示されている。
「ダメだ。俺たちが侵入したことで、システムが自己防衛モードに入っている。キーボードからの入力は完全に遮断されている」
「そんな……じゃあ、どうやってデータを……」
私が絶望しかけた時、阿部は私を振り返り、言った。
「だからお前を連れてきたんだ、石川。……お前の姉さんのスマホを出せ」
私はハッとして、ポケットの防水パックから、ひび割れた古いiPhoneを取り出した。
「システムは外部コマンドを拒絶しているが、物理的なデバイスの『同期』までは防げない。由紀子さんは、ファントムの内部システムに直接食い込むための『ウイルス』を、このスマホ自体に仕込んでいたんだ」
阿部はコンソールのパネルを開け、隠されていたメンテナンス用の接続ポートを引き出した。
「お前の手で繋げ。……そして、終わらせろ」
私は震える手でスマホを握りしめた。
この小さな機械の中に、姉の命が、想いが詰まっている。
私は一歩前に出て、スマホにケーブルを差し込んだ。
ピピッ。
スマホの画面が明るくなり、そしてメインコンソールの巨大なモニターに、あの『黒い鳥』のアイコンが出現した。
黒い鳥は翼を広げ、モニターの中で無数のコードを食い破りながら、白く光り輝く鳥へと姿を変えていく。
システムの防壁が、内側からボロボロと崩れ去っていくのが分かった。
姉さんの遺したプログラムが、ファントムの心臓を掌握していく。
やがて、画面に一つの入力フォームが表示された。
『最終プロテクト解除。承認パスワードを入力してください』
「……最後の鍵だ。由紀子さんが設定した、このウイルスを起動させるためのパスワード」
阿部が静かに言った。
「石川、お前なら分かるはずだ」
私はスマホの画面を見つめた。
姉が最期に、私に伝えたかったこと。
国民を監視し、自由を奪うこんなシステムを壊して、姉が守りたかったもの。
それは、権力やお金なんかじゃない。
大好きな人と、ただ当たり前の明日を生きるという、ささやかな希望だ。
私はコンソールのキーボードに手を置いた。
涙が込み上げてきたけれど、指先は迷わなかった。
祈りを込めるように、一文字ずつ、ゆっくりとキーを押し込んでいく。
『A s h i t a _ m o _ I s s h o』
明日も一緒。
姉と私が、幼い頃から交わしてきた約束の言葉。
私は、ありったけの想いを込めて、エンターキーを強く叩いた。
ターンッ!
その瞬間。
メインコンソールの画面が、真っ白な閃光に包まれた。
インカムから、エミリーの歓喜の声が響き渡る。
『BINGO!! 全データの掌握、および管理者権限の奪取に成功したわ! 今からファントムの全サーバーに対して、ストレージの完全消去コマンドを送信する!』
『これで奴らの監視網は完全に沈黙するわね。……ついでに、関連するダミー企業群の隠し口座も全部すっからかんにしてやったわよ!』
鞠さんの声も続く。
サーバーラックの青いランプが、次々と赤いエラーランプへと変わり、そして一つ、また一つと消灯していく。
ブツン、ブツン、という音と共に、巨大な監視システムが機能を停止し、ただの鉄の箱へと変わっていく。
パノプティコン計画は、完全に崩壊したのだ。
「……終わったな」
阿部が、暗くなっていくサーバー群を見つめながら呟いた。
その横顔から、5年間ずっと取り憑いていた「亡霊」の影が、ふっと消え去ったように見えた。
彼は深く息を吐き、左肩を押さえてその場に座り込んだ。
「阿部ちゃん! 大丈夫か!」
アキさんが駆け寄る。
私もスマホを胸に抱きしめ、阿部さんの元へ走った。
「所長……! ありがとうございました。本当に……」
涙が止まらなかった。
姉の無念が晴らされた。阿部さんの復讐が終わった。
私たちは、勝ったのだ。
「……泣くのは地上に出てからにしろ。まだ脱出が残ってるぞ」
阿部は痛みを堪えながらも、不敵な笑みを浮かべた。
インカムの向こうでは、後方支援班の面々が歓声を上げ、チビが「ミャー」と呑気に鳴いている音が聞こえた。
開かれたパンドラの箱。
その底に残っていたのは、絶望ではなく、私たちが共に掴み取った「希望」だった。
私たちは互いに肩を貸し合い、崩壊した地下要塞から、光の差す地上へと歩き出した。




