第40話 地下要塞の攻防
都心の地下深く。冷たく淀んだ水が流れる音が、コンクリートの壁に不気味な反響を繰り返している。
戦後直後に作られ、放棄されたという旧地下水道の暗闇。
私たちは今、ヘッドライトの細い光だけを頼りに、膝まである汚水の中を慎重に進んでいた。
先頭を歩くのは所長の阿部邦彦。その後ろに葬儀屋の岡田アキさん。そして最後尾が私、石川彩だ。
「……足元に気をつけろ。長年の苔とヘドロで滑るぞ」
阿部さんが振り返らずに低い声で言う。その左肩はテーピングでガチガチに固定されており、左腕はジャケットの内側に隠すように固定されている。無理をして歩いているのが、その後ろ姿からも痛いほど分かった。
「分かってるべ。それにしても、強烈な臭いだな、ここ」
アキさんが顔をしかめて鼻をつまむ。
目的地は、この水脈の先にある「ファントム」のメインサーバーが隠された旧防空壕跡だ。国家の監視網の心臓部へ、私たちは文字通り、泥水にまみれながら近づいていた。
10分ほど歩いた頃、私たちは水路の脇にある、一段高くなった乾いた管理スペースのような場所に辿り着いた。
「……ここで5分間、小休止だ。敵の巡回シフトが変わるタイミングを待つ」
阿部さんが壁にもたれかかり、荒い息を吐いた。
私は緊張で強張る胃の辺りをさすった。恐怖と疲労で、手足の感覚が麻痺しそうだ。
「極度の緊張と肉体疲労で、お前たちの脳のブドウ糖は枯渇し始めている。これから本丸へ突入するためには良質なタンパク質と糖分が必要だが……ここで火を使っている時間も、煙を出すわけにもいかない」
阿部さんはそう言うと、背負っていたリュックから、真っ赤なクーラーバッグを取り出した。
「石川。俺は左腕がうまく動かん。……お前が俺の腕の代わりになれ」
「は、はい!」
阿部さんが片手で取り出したのは、鮮やかな赤身のマグロの柵と、細長い柳刃包丁だった。
「ハワイのローカルフード、アヒ・ポキを作る。俺の指示通りにマグロを切れ。刃渡りの長い包丁を引き切りにして、均等なサイコロ状にするんだ。細胞を潰さないように気をつけろ」
私は緊張しながら包丁を握り、阿部さんの指示通りにマグロを引いた。不器用ながらも、なんとか綺麗なサイコロ状に切り分ける。
阿部さんは右手だけで大きめのボウルを抱え込み、そこに私が切ったマグロを入れた。そして、醤油、ごま油、赤みがかった粗塩を振りかける。
「ただの塩じゃない。ハワイアン・アラエアソルトだ。この赤い塩には火山灰のミネラルが豊富に含まれていて、マグロの強い旨味をさらに引き出す。そして、食感のアクセントとして砕いたマカダミアナッツ。さらに、水で戻したオゴと、スライスした玉ねぎを混ぜ合わせる。これで磯の香りと辛味を加えるんだ」
阿部さんが右手一本で手早く和えたマグロは、ごま油の香ばしい匂いと醤油の塩気が混ざり合い、それだけで食欲を暴力的に刺激した。
「……タッパーに詰めてきた温かいご飯の上に乗せろ。完成だ」
出されたポキ丼は、マグロの赤、海藻の緑、玉ねぎの白が混ざり合い、視覚的にも美しかった。
「飲み物は、これだ」
阿部さんがドンと横に置いたのは、真っ赤なスポーツドリンクが入ったペットボトルだった。
「……ゲータレード? フルーツパンチ味?」
アキさんが目を丸くする。以前、エッグタルトの時にも出されたスポーツドリンクの別フレーバーだ。
「生のマグロの濃厚な脂とごま油の重さを、この強烈な甘酸っぱさと人工的なフルーツフレーバーで洗い流す。さらに、これから地下の悪路を歩く上で失われる電解質を事前にチャージする。ポキの塩分とゲータレードの糖分が、極限状態の脳と筋肉を駆動させる最適なガソリンになるんだ。……食え!」
阿部さんの無茶苦茶な、しかし妙に説得力のある理論に押し切られ、私たちはポキ丼をかき込んだ。
マグロのねっとりとした旨味、マカダミアナッツのカリッとした食感、そして海藻の風味。それらがごま油で完璧にまとまり、ご飯と最高の相性を見せる。火を使わない生魚の料理が、淀んだ地下道でこれほど美味しく感じられるとは。
そして、赤いゲータレードを流し込む。
不思議なことに、口の中の油っぽさがスッと消え、次のひと口が新鮮に味わえるのだ。
生魚とスポーツドリンク。あり得ない組み合わせのようでいて、それは過酷なミッション前の私たちの身体に、完璧に馴染んでいった。
胃の中で燃えるポキとゲータレードのエネルギーを感じながら、私たちは再び冷たい地下道を歩き始めた。
姉の遺したスマホが入ったポケットを、服の上から何度も確認する。防水パックに二重に入れているが、絶対に濡らすわけにはいかない。
『……聞こえる? 阿部おじさん、アキさん、彩さん』
耳に付けたインカムから、小川みずほの声が響いた。
廃倉庫で後方支援を行っている彼女は、施設の環境音や敵の無線を傍受しているのだ。
「ああ、感度良好だ。状況は?」
『図面通りなら、あと50メートルで旧防空壕の冷却水取水口に出る。……でも、気をつけて。足音が2つ、そっちに向かってる。重たい軍用ブーツの音。歩幅からして大柄な男が2人。自動小銃が擦れる金属音もするわ』
「……武装警備員か」
『監視カメラの映像も確保したわよ』
今度はエミリー・ローレンスの明るい声だ。
『取水口の前の通路に、2人立ってるわ。今、カメラの映像を「異常なし」のループ映像に差し替えた。……でも、物理的にその2人をどうにかしないと中には入れないわよ』
「了解した。……アキ、やれるか?」
「愚問だべ。喪服を着てない時の私を舐めないでよね」
アキさんが、暗闇の中でニヤリと笑って首の骨を鳴らした。
彼女は音もなく水路の階段を上がり、取水口の鉄格子をそっと押し開けた。
インカムからみずほのカウントダウンが飛ぶ。
『……足音が止まった。2人が向き合ってタバコに火をつけたわ。……3、2、1……今! 2人とも完全に背中を向けた!』
アキさんが暗闇から音もなく飛び出した。
まるで獲物を狩る黒豹のような、しなやかで圧倒的なスピード。
「……ッ!?」
気配に気づいて振り返ろうとした警備員の一人の顎に、アキさんの掌底が的確にクリーンヒットする。脳が大きく揺れ、大男が悲鳴を上げる間もなくその場に崩れ落ちる。
もう一人が驚いて自動小銃を構えようとした瞬間、アキさんはその腕を素早く掴んで関節を極め、同時に膝の裏を強烈に蹴り抜いて地面に這わせた。そして、背後から頸動脈を絞め落とす。
わずか数秒。息を呑むような制圧劇だった。
「……クリアだ。彩ちゃん、手伝って! 阿部ちゃんは怪我に響くからそこで見張ってて!」
「はい!」
私は急いで駆け寄り、アキさんと二人で気絶した大柄な警備員たちを引っ張り、物陰へと隠した。アキさんが持参したタイラップで、素早く彼らの手足を拘束する。
「さすがだな、元ヤン」
阿部さんが通路の奥を警戒しながら、短く褒めた。
「元じゃないし、ヤンキーでもない。エンバーマーの解剖学的な知識を応用して、人体の急所を突いただけだべ」
アキさんが誇らしげに鼻をこする。
私たちは取水口を抜け、ついにファントムの地下要塞へと侵入を果たした。
そこは、戦時中のコンクリートの壁が剥き出しになった通路と、最新の電子設備や配管が混在する、異様で無機質な空間だった。
『……クニ、正面の扉、見えた?』
エミリーの声がインカムから響く。
「ああ。分厚い防爆扉だ。電子ロックは……虹彩認証と静脈認証のデュアルか。厄介だな」
『遠隔からはバイパスできないわ。そっちで端末を直結して!』
阿部さんがリュックからノートPCとケーブルを取り出し、電子ロックの制御パネルのカバーをこじ開けて基板に直接接続した。
「繋いだぞ」
『OK! こっちから総当たりと認証プロトコルの偽装をかける。……クニ、そっちでパケットのパリティチェックのタイミングを合わせて!』
「分かってる。……今だ!」
阿部さんは動かない左腕を庇いながら、右手一本で驚異的な速度のタイピングを行った。エミリーとの、離れた場所にいる二人の天才による同時ハッキング。
画面に緑色のコードが滝のように流れ、赤いエラーメッセージが次々と解除されていく。
ガコンッ!
重たい金属音がして、扉のロックランプが赤から緑に変わった。
「……開いた。行くぞ」
私たちは慎重に扉を押し開け、奥へと進んだ。
通路には煌々と白いLEDライトが点いている。
みずほの「耳」による足音の探知と、エミリーの「目」によるカメラの掌握。二人の完璧なナビゲートにより、私たちは巡回する警備員の死角を縫うようにして、迷路のような地下要塞を最深部へと進んでいった。
ついに、「メインサーバー室」と書かれた巨大な二重扉の前に到着する。
この奥に、パノプティコン計画のすべてを司るシステムがあるのだ。
『……ストップ! そこで止まって!』
突然、みずほの切羽詰まった声がインカムに響いた。
「どうした、小川?」
『……おかしい。セキュリティルームの警備員たちの会話を傍受してるんだけど……「ネズミが罠に入った」「ゲートを封鎖しろ」って言ってる!』
「なんだと?」
その瞬間。
私たちが立っていた通路の前後で、けたたましい非常警報音が鳴り響いた。
ウゥゥゥゥッ!!
壁面の赤いパトランプが激しく回転し、前方と後方の天井から、分厚い鋼鉄のシャッターが凄まじいスピードで落下してきた。
「アキ、石川! 下がれ!」
ガシャァァァン!!
阿部さんの怒声と同時に、シャッターが床に激突した。
私たちは、メインサーバー室の直前にある、四方を鋼鉄の壁に囲まれた狭い通路に完全に閉じ込められてしまったのだ。
「……な、何!? 罠だったの!?」
アキさんがシャッターを渾身の力で蹴り飛ばすが、ピクリともしない。
『クニ! 聞こえる!? クソッ、通信が……ジャミングされて……!』
インカムから聞こえるエミリーの声が、激しいノイズにまみれていく。
「エミリー! みずほ! 聞こえるか!?」
阿部さんが呼びかけるが、返ってくるのはザザザーという冷たい砂嵐の音だけだった。
完全に孤立してしまった。
そして、天井のスピーカーから、無機質な合成音声が流れた。
『侵入者を検知。最終ゲートを封鎖しました。これより、区画内の酸素を排出し、消火用ハロンガスを注入します』
「は……? 酸素を排出って……」
「窒息させる気だ。……奴ら、最初から生け捕りにする気もないらしい」
阿部さんがギリッと奥歯を噛み締めた。
壁の通気口から、プシューという不気味な音と共に、白いガスが噴き出し始める。
「所長! どうしよう……息が……!」
「慌てるな。呼吸を浅くしろ。無駄に動いて酸素の消費を早めるな」
阿部さんは素早くPCを開き、右手だけでシャッターの制御盤にケーブルを繋ごうとする。
しかし、制御盤の電源自体が物理的にカットされており、ハッキングのしようがなかった。
「……クソッ。デジタルではなく、アナログの罠か」
打つ手がない。
ガスが室内に充満していく。
息が苦しい。肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。
姉さんが最期に見た闇は、こんなにも深く、冷たいものだったのだろうか。
薄れゆく意識の中で、私はポケットの防水パックに入ったスマホを強く握りしめた。
まだ終われない。
こんなところで、倒れるわけにはいかないのだ。




