第4話 アイドルの裏アカウント(後編)
地下室の重苦しい空気が、サーバーの駆動音と共に振動しているようだった。
モニターに映し出された、罵詈雑言のタイムライン。
その発信元が、星野ミクル本人のスマホではなく、所属事務所のIPアドレスだったという事実。
それは、この悲劇の質が「自殺」から「事件」へと変わった瞬間だった。
「事務所が……あの子のフリをして、こんな汚い言葉を書いていたというんですか?」
母・星野良子さんの声が震える。
「十中八九な。炎上商法か、あるいは『病んでいるキャラ』を演出するためのマーケティングか。もしくは、他のメンバーによるイジメの道具として共有されていたか。……いずれにせよ、このアカウントはあんたの娘さんの『本心』じゃない。他人が作り上げたゴミ捨て場だ」
阿部邦彦は吐き捨てるように言うと、不愉快そうにエンターキーを叩いた。
画面上の『アカウント削除』ボタンが押される。
確認ダイアログが表示されるが、彼は迷わず『YES』をクリックした。
――削除が完了しました。
その冷淡なシステムメッセージと共に、娘を苦しめ、母親を絶望させていたデジタルの毒は、電子の海へと消え去った。
「……消えましたよ」
私が告げると、良子さんは力が抜けたようにソファに崩れ落ちた。
「ありがとうございます……。でも、結局あの子は、こんな汚い世界で、独りぼっちで……」
「独りじゃない」
阿部さんが突然、立ち上がった。
彼はモニターから視線を外すと、部屋の隅に置かれた段ボール箱の方へと歩き出した。
「阿部さん?」
彼が戻ってきたその手には、毛布にくるまれた「小さな生き物」が抱えられていた。
「ミャー……」
か細い、けれど必死な鳴き声が地下室に響く。
毛布の隙間から顔を出したのは、まだ掌に乗るほどの大きさの子猫だった。
茶色と白のぶち模様。キトンブルーと呼ばれる青い瞳が、不安げにキョロキョロと動いている。
「ね、猫……!?」
「今朝、ビルの裏手にあるゴミ捨て場で拾った。カラスに突かれそうになっていたんでな」
阿部さんは無愛想に言いながら、子猫を愛おしそうに撫でるわけでもなく、しかし絶対に落とさないよう慎重に抱いている。その大きな手と、小さな命の対比があまりに強烈だった。
「生後70日くらいか。まだ親離れもしてないガキだ。……腹が減ってるらしい」
阿部さんは片手で器用に哺乳瓶を取り出し、人肌に温めたミルクを与え始めた。
子猫は夢中で吸い付く。小さな耳がピクピクと動き、喉をゴロゴロと鳴らす音が聞こえてくる。
その生命力あふれる姿に、良子さんの目が釘付けになった。
「……かわいい」
「こいつは捨てられた。親もいない。環境は最悪だ。……だが、見てみろ。生きようとしてる」
阿部さんはミルクを飲み終えた子猫の背中を、トントンと優しく叩いてゲップをさせた。
そして、その温かい毛玉を、そっと良子さんの膝の上に乗せた。
「えっ……」
「抱いてやれ。体温が高いから、カイロ代わりにはなる」
良子さんは戸惑いながらも、恐る恐る子猫の背中に触れた。
ふわふわとした頼りない感触。けれど、その小さな体からは、ドクンドクンという力強い鼓動が伝わってくる。
子猫は安心したのか、良子さんの膝の上で丸くなり、すぐにスースーと寝息を立て始めた。
「あったかい……」
良子さんの目から、涙が一筋こぼれ落ちた。
「あんたの娘さんも同じだ」
阿部さんが再びパソコンの前に座る。
「汚い言葉を浴びせられ、ゴミ捨て場のような場所に追いやられても……彼女は最後まで生きようとしていた。自分の足で立って、自分の言葉を探していたんだ」
「……どういうことですか?」
「さっきのアカウントは『ゴミ』だと言ったな。だが、ゴミの中にこそ真実は埋もれる」
阿部さんはキーボードを叩く。
「裏垢の投稿時間の隙間に、ポツリポツリと投稿されていた『日常ツイート』があっただろ。あれだけは、文章の癖が違った。あれこそが、ミクルさん本人の書き込みだ」
阿部さんは画面を切り替えた。
新しいウィンドウが開く。
それは、SNSではなく、クラウド上に保存された『非公開のメモ帳アプリ』のデータだった。
「あの日常ツイートには、位置情報のメタデータが埋め込まれていた。事務所じゃない。自宅でもない。……都内の、ある公園のベンチだ。彼女は、事務所で罵詈雑言を書かされた後、その公園に行って、自分を取り戻すために『本当の言葉』を紡いでいたんだ」
「パスワードは、その公園の名前と、ベンチの番号だ。……見てみろ」
画面に、短い文章が並んだ。
先ほどの汚い言葉とは対極にある、繊細で、透明な言葉たち。
『空が青い。生きたい』
『歌うのは好き。誰かのためじゃなく、私のために歌いたい』
『ママの作った唐揚げが食べたいな』
それは、詩のような、日記のような、彼女の心の叫びだった。
ドロドロとした感情ではなく、ただ純粋に「生きたい」と願う、19歳の少女の素顔。
「これ……あの子の……」
良子さんが子猫を抱いたまま、画面に身を乗り出す。
スクロールしていくと、一つの長い詩が目に止まった。
『ママへ』
タイトルを見て、良子さんの息が止まる。
『ごめんね、最近忙しくて帰れなくて。
テレビの中の私は、いつも笑ってるけど、本当はすごく怖い。
大人の人たちは怖いし、ネットの言葉も刃物みたい。
でもね、ママ。
ママが昔、「ミクルの笑顔はひまわりみたいだね」って言ってくれたこと、今でも私のお守りだよ。
私は負けない。
どんなに泥を塗られても、私は私だもん。
いつか、本当の私の歌を届けるから。
その時は、一番前の席で聴いてね。
産んでくれてありがとう。
大好きだよ』
読み終えた瞬間、良子さんの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
大粒の涙が、膝の上で眠る子猫の毛並みに落ちる。
子猫は驚いて目を覚まし、「ミャッ」と短く鳴くと、心配そうに良子さんの指先をザラザラした舌で舐めた。
「あの子は……汚れてなんかいなかった……」
「ああ。環境は最悪だったが、魂までは売ってなかったようだ」
阿部さんは静かに言った。
その視線は、涙を流す母親と、それを慰めるように寄り添う小さな命に向けられている。
「……娘さんは、最後までアイドルでしたよ。誰よりも気高く、強い」
私が言うと、良子さんは子猫を抱きしめるようにして、深く頷いた。
その温もりが、冷え切っていた彼女の心を少しずつ溶かしていくようだった。
「ありがとうございます。本当に」
しばらくして、涙が枯れた良子さんは、詩のデータを保存したUSBメモリを胸に抱いた。
その顔には、来た時のような悲壮感はない。
娘の尊厳を取り戻した母の、静かな強さが宿っていた。
「あの、事務所のことは……」
「放っておけ。この裏垢のログと、事務所のIPアドレスの関連性を示す証拠データは、あんたに渡す。これを警察に出すか、週刊誌に売るかはあんたの自由だ。だが、娘さんの名誉を守りたいなら、公にせずとも『切り札』として持っておくだけでいい」
「はい。……そうします。あの子が遺してくれたこの言葉たちと一緒に、強く生きていきます」
良子さんが立ち上がると、膝の上から下ろされた子猫が、寂しそうに「ミャーオ」と鳴いた。
良子さんは優しく微笑み、子猫の頭を撫でた。
「あなたも、強く生きるのよ。……ありがとうね」
良子さんが帰った後。
地下室には、子猫のミルクの甘い香りが残された。
子猫は満腹になったのか、段ボールの中ですやすやと寝息を立てている。
「……おい石川」
「はい」
「猫砂とトイレシートを買ってこい。あと、キャットフードもだ。離乳食用のやつな」
「えっ? 飼うんですか?」
「拾っちまったもんは仕方ねえだろ。元の場所に捨ててこいって言うのか?」
「いいえ! 大賛成です!」
私は嬉しくなって声を弾ませた。
この無機質で薄暗い地下室に、こんなに可愛い家族が増えるなんて。
「名前、どうします?」
「知らん。『猫』でいいだろ」
「えー、そんなのないですよ。……『ルーク』とかどうですか? 光って意味で」
「却下だ。キラキラネームをつけるな」
阿部さんはぶっきらぼうに言いながらも、寝ている子猫の毛布をそっと掛け直している。
その指先は、キーボードを叩く時よりもずっと繊細で、優しかった。
依頼人の心の闇を暴き、時には残酷な真実を突きつけるこの男。
けれど、弱きもの、小さきものへ向ける眼差しは、誰よりも温かい。
この不器用な優しさが、きっと多くの「迷える魂」を救ってきたのだろう。
(今回の件、ミクルさんは救われましたけど……)
私はふと、自分のポケットの中のスマホを意識した。
亡き姉のスマホ。
そこにも、私の知らない姉の「生きた証」が残されているのだろうか。
いつか、私もそれを知る勇気が持てるだろうか。
「おい、ボーッとしてる暇があったらドラッグストアに行ってこい。閉店しちまうぞ」
「あ、はい! 行ってきます!」
私はジャケットを羽織り、地下室を飛び出した。
背後で「ミャー」という鳴き声と、阿部さんの「よしよし、うるさいぞ」という低い声が聞こえた気がした。
神保町の夜風は冷たかったが、私の心は不思議と温かかった。
この場所なら、きっと大丈夫。
そう信じられる夜だった。




