第39話 デジタル・ゲリラ戦(後編)
港区の海沿いにある、使われなくなった古い倉庫。
潮の香りと埃が混ざる薄暗い空間に、ポータブル電源に繋がれた数台のモニターだけが煌々と光を放っていた。
私たちは今、最強の反撃プランを構築しようとしている。
「……大家の解読した座標データと、堂島の持ってきた地下水道の図面。これを3Dマッピングで重ね合わせる」
所長の阿部邦彦がキーボードを叩くと、モニターに東京の地下構造が立体的に浮かび上がった。
アリの巣のように入り組んだ地下鉄の路線、下水道、そして電力ケーブルの地下洞道。
そのさらに奥深く、赤いピンが立てられた場所があった。
「……千代田区、某官庁街の地下40メートル。かつて大戦末期に極秘裏に建設され、そのまま放棄されたとされる巨大防空壕の跡地だ」
「そこに、グラム社……いや『ファントム』のメインフレームがあるのね」
カナダ人ハッカーのエミリーが、目を輝かせて画面を覗き込む。
「地上からのルートは完全に偽装されているはずだ。だが、この堂島の図面にある『旧地下水脈』を使えば、防空壕の真下、冷却水の取水口に辿り着ける」
阿部の指先が、地図上の細い青い線をなぞる。
「だが、問題がある。敵はすでに、俺たちが『黒い鳥』のアクセスキーを使ったことに気づいている。物理サーバー周辺の警戒は最大レベルに引き上げられているはずだ。……無傷で潜入するには、強烈な『陽動』が必要だ」
「陽動なら、私に任せなさい」
弁護士の藤田涼子が、自信に満ちた声で立ち上がった。
「グラム社とその関連ダミー企業に対して、ありとあらゆる法的措置を乱れ撃ちしてあげるわ。株主代表訴訟、業務停止の仮処分申請、さらに役員の背任行為に対する刑事告発。……敵の法務部と経営陣をパニックに陥れて、警備の指揮系統をズタズタにしてやるわ」
「法廷の魔女の面目躍如ね。……こっちのサイバー攻撃も任せて!」
エミリーがウインクをする。
「世界中のダークウェブからかき集めたボットネットを使って、ファントムのダミーサーバー群に同時多発的なDDoS攻撃を仕掛けるわ。防性AIの処理能力を限界まで飽和させて、地下のメインフレームへの注意を逸らしてあげる」
法の暴力と、デジタル空間からの絨毯爆撃。
心強すぎる味方だ。
「……みずほ、お前はエミリーのサポートに回れ。奴らの無線通信を傍受し、警備の配置転換の動きを拾え」
「りょーかい。耳ん中、研ぎ澄ましとく」
「アキは物理的な潜入装備の準備だ。暗視ゴーグル、ワイヤーカッター、それに……必要なら『アレ』もな」
「おう! 任せとけ! 葬儀屋の裏ルートで最高級のブツを揃えといたべ!」
全員の役割が決まっていく。
私は、自分が何をすべきか分からず、少し不安になっていた。
その時。
「……じゃあ、私は警察の足を止めるわ」
情報屋の中島鞠が、優雅に立ち上がった。
彼女は、いつの間にかラフな服装から、体のラインを美しく見せる真紅のタイトドレスに着替えていた。上からカシミヤの黒いコートを羽織っている。
「……中島。お前、いつの間にそんな服を?」
阿部が訝しげに尋ねると、鞠はクスッと笑った。
「さっき、アキちゃんに頼んで私のセーフハウスから取ってきてもらったのよ。こんなこともあろうかと、勝負服と偽造身分証は分散して隠してあるの」
鞠はそう言って、阿部にハンガーに掛かった黒いスーツ一式を投げ渡した。
「今、私たちを一番追い詰めているのは『警察』の検問よ。ファントムの息がかかった上層部が、私たちをテロリスト扱いしてシラミ潰しに探してる。……これを止めるには、世論を味方につけるしかないわ」
「どうする気だ?」
「大手新聞社の社会部デスクと、今夜密会するの。権田原の裏帳簿データという『特大の餌』をチラつかせて、『警察が不当な捜査をしている』というスクープ記事を書かせるわ」
鞠の顔が、阿部の顔に近づく。
「……エスコートしなさい、坊や。高級ホテルのラウンジよ。一人じゃ様にならないわ。あんたのスーツも用意してあるんだから」
「……俺は潜入の準備がある」
「この陽動が成功しなきゃ、潜入もクソもないわよ。それに、あんたのそのやさぐれた顔、ちょうどいい『追われる悲劇の告発者』の演出になるわ」
阿部は舌打ちをしたが、鞠の要求を無下にすることはできなかった。
彼は渋々、鞠が用意したスーツに着替え始めた。
「石川、留守を頼む。……装備のチェックをしておけ」
「はい。いってらっしゃいませ」
私は、まるで本物の恋人同士のようなオーラを纏って出て行く二人を、少しだけ胸の奥がチクリとするのを感じながら見送った。
★★★★★★★★★★★
夜の六本木。
高級ホテルの最上階にあるバー・ラウンジは、仄暗い間接照明と、静かに流れるジャズピアノの生演奏に包まれていた。
窓の外には、東京タワーを中心に煌めく夜景が広がっている。
逃亡中の身でありながら、中島鞠と阿部邦彦は、そのラウンジの奥のVIP席で、見事に風景に溶け込んでいた。
「……マティーニを。ジンはタンカレーで、ドライにな」
阿部が低い声でボーイに注文する。
鞠はシャンパンのグラスを傾けながら、阿部の横顔を見た。
「……似合うじゃない。たまにはそういうちゃんとした服、着るべきよ」
「息が詰まる。早く済ませろ」
「焦らないの。獲物はもうすぐ来るわ」
鞠が視線を向けた先、ラウンジの入り口に、白髪交じりの初老の男が現れた。
大手新聞社の社会部デスク・木崎だ。彼は鞠の姿を認めると、足早に近づいてきた。
「……遅いじゃない、木崎さん。待ちくたびれたわ」
「すまん、中島くん。……で、そちらが例の?」
「ええ。権田原のタブレットを解析し、裏帳簿を引っこ抜いた『デジタル・アーカイブス社』の所長よ。……警察が血眼になって探してる、ね」
阿部は無言で、氷のように冷たい視線を木崎に向けた。
木崎はゴクリと唾を飲み込んだ。
「……単刀直入に言おう。我々は、君たちが昨日バラ撒いた裏帳簿の『完全版データ』が欲しい。各メディアに送られてきたデータは、肝心の隠し口座の番号と暗証番号がマスキングされていたからな。あれでは決定的な証拠として記事を打てない」
「タダでマスクを外すパスワードを渡すわけにはいかないわ。対価は?」
鞠が冷酷な交渉人の顔になる。
「明日の一面よ。……『警察上層部、権田原事件の隠蔽工作か。告発者を不当に弾圧』。この見出しで、大々的なキャンペーンを打ちなさい」
「それは……証拠がない。警察を敵に回すのはリスクが……」
「証拠ならあるわ」
鞠はバッグから、一枚のUSBメモリを取り出し、テーブルの上で滑らせた。
「警察内部の通信記録よ。現場の捜査員に『テロリストとして射殺も辞さない』という異常な命令が下っている音声データが入ってる。……私たちが持っている裏帳簿のパスワードキーと引き換えなら、安い取引でしょ?」
木崎の目が、欲望にギラリと光った。
ジャーナリストとしての本能が、このスクープに飛びつけと叫んでいるのだろう。
「……分かった。明日、朝刊で打つ。各局のワイドショーにも一斉にタレ込む。……警察はしばらく、マスコミの対応で身動きが取れなくなるはずだ」
「商談成立ね。さすが木崎さん」
鞠は妖艶に微笑み、USBメモリを渡した。
木崎はそれを逃げるようにポケットにしまい、足早にラウンジを去っていった。
「……上手くいくか?」
運ばれてきたマティーニを口に含みながら、阿部が呟く。
「いくわよ。マスコミはハイエナだもの。血の匂いがすれば必ず群がる。……これで、地上での検問は劇的に減るはずよ」
鞠はシャンパンを飲み干し、ふう、と息をついた。
仕事の顔から、一人の女性の顔に戻る瞬間。
彼女は、隣に座る阿部を、少しだけ寂しそうな目で見つめた。
「……ねえ、阿部ちゃん」
「なんだ」
「これから、あの地下に潜るんでしょ? ……死なないでよ」
「……」
「5年前、あんたが大家さんに拾われて、あの薄暗い地下室で事務所を立ち上げたばかりの頃……あんた、ずっと死んだような目をしてた。私、もう二度とあんな顔は見たくないって思ったの。……あんたには、美味しいご飯を作って、憎まれ口を叩いてるのが一番似合ってるのよ」
鞠の言葉には、長い時間を共に過ごしてきた者だけが持つ、深い愛情と心配が込められていた。
阿部はマティーニのグラスを置き、静かに言った。
「……俺は死なん。やり残したことがあるからな」
「そう。……ならいいわ」
鞠は再び微笑み、阿部の腕にそっと触れた。
「帰ろうか。私たちの『家族』が待ってるわ」
二人は夜景を背に、ラウンジを後にした。
偽装デートは終わりだ。ここからは、本物の戦場が待っている。
★★★★★★★★★★★
深夜。
倉庫の地下室では、最終調整が完了していた。
「……所長、お帰りなさい」
私が迎えると、阿部はネクタイを緩めながら頷いた。
「状況は?」
「エミリーさんの攻撃で、ファントムのサーバーの処理能力は現在90%まで逼迫しています。涼子さんの法的措置のニュースも、ネットで炎上を始めました」
「警察の動きも止まったわ。テレビで大騒ぎになってる。……今がチャンスよ」
鞠さんがコートを脱ぎながら宣言する。
阿部は自分のメインマシンに向かい、堂島から貰った図面と、かほりさんが解読した座標を最終確認した。
「……よし。ルートは確定した。これより、ファントムのメインフレームへの物理的潜入を開始する」
阿部が振り返り、私たちを見た。
「潜入メンバーは、俺とアキ。そして……石川、お前だ」
「えっ、私もですか!?」
私は驚いて声を上げた。
足手まといになるのではないかと思ったからだ。
「メインフレームに直結した後、最後のプロテクトを解除するには、由紀子さんのスマホのデータが不可欠だ。だが、遠隔通信はジャミングされる可能性が高い。……物理的にスマホを繋ぐ必要がある」
阿部の目は、私を「守るべき対象」としてではなく、「共に戦う相棒」として見ていた。
「お前の姉さんが遺した『鍵』だ。……お前自身の手で、そのパンドラの箱を開けろ」
「……はい!」
私は力強く頷いた。
アキさんが「任せとけ、私が彩ちゃんを守ってやるべ!」と私の背中をバンと叩く。
「エミリー、みずほ。後方支援を頼む。通信の確保と、セキュリティの無効化だ」
「Copy that!(任せて!)」
「了解。ノイズ一つ聞き逃さないよ」
「涼子、大家、中島。万が一の時の脱出ルートの確保と、外部へのデータ拡散準備だ」
「ええ。派手にやってきなさい」
「家賃の滞納分、あの世からでも回収するからね」
「気をつけてね、坊やたち」
全員の心が、一つに束ねられた瞬間だった。
8人のスペシャリストたちの総力戦。
それは、5年前の雪辱であり、姉の無念を晴らす戦いであり、そして名もなき死者たちの尊厳を守るための戦いだ。
「……行くぞ」
阿部の号令で、私たちは立ち上がった。
手には、懐中電灯とアタッシュケース。そして、姉のスマホ。
外の雨は、いつの間にか雪へと変わっていた。
氷点下の寒さの中、私たちは地下水道の入り口――マンホールの蓋を開け、暗黒の地下世界へと足を踏み入れた。
最終決戦の地へ続くルートが、今、切り開かれた。




