第38話 デジタル・ゲリラ戦(中編)
神保町から脱出した漆黒の霊柩車は、首都高速を降り、都心へと向かう一般道を走っていた。
目的地は、大家の後藤かほりが暗号から解き明かした「ファントム」の真の拠点――旧防空壕跡を利用した巨大地下データセンターだ。
しかし、車内の空気は重く、息苦しいほどの緊張感に包まれていた。
「……クソッ。また右折ルートが塞がれてるわ」
遺族用シートでカナダ人ハッカーのエミリーが、キーボードを叩きながら忌々しげに舌打ちをした。
彼女の膝の上にあるモニターには、都心の道路マップが表示されているが、そこには無数の「赤いバツ印」が点滅していた。
「警察の検問よ。それも尋常じゃない数。主要な幹線道路は完全に封鎖されてる。……まるでテロリストでも探すみたいな厳戒態勢だわ」
「……テロリストを探してるんだよ。私たちっていうね」
弁護士の藤田涼子が、腕を組みながら冷たく言った。
「パノプティコン計画のデータを世界中にばら撒いたんだもの。国家権力からすれば、私たちは国家転覆を企む凶悪犯よ。……霊柩車だからって、この網の目をすり抜けられるかしら」
「弱気なこと言うなよ、魔女先生。私がなんとかするべ」
運転席の岡田アキがハンドルを握り直す。しかし、その額にはじっとりと汗が滲んでいた。
「……とはいえ、裏道もパトカーがウロウロしてる。……阿部ちゃん、どうする? このままじゃジリ貧だぞ」
「……」
後部の棺桶安置スペースには、白い布を被せられた所長・阿部邦彦が横たわっている。彼は目を閉じ、棺桶の中で沈黙していた。左肩の傷が痛むのか、時折布の下から苦しげな息遣いが漏れてくる。
そんなギリギリの状況の中。
私の膝の上では、まったく空気を読まない小さな命が、自由を謳歌していた。
「ミャァ……ンニャァ……」
子猫のチビだ。
狭い段ボールハウスから出たチビは、私の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らしていた。
私は、緊迫する車内の空気を少しでも和らげようと、バッグから取り出した小さなペット用スリッカーブラシで、チビの毛並みを梳かしてあげていた。
「よしよし。チビ、いい子だね」
首の後ろから背中にかけて、優しくブラシを滑らせる。
最初は警戒していたチビだが、すぐにその心地よさに気づいたらしい。
「そこそこ!」と言わんばかりに自分から頭を押し付けてくる。
そして、顔の横をブラシで梳かした瞬間だった。
「……んぶぶっ」
隣に座っていた小川みずほが、突然吹き出した。
「ちょ、彩さん……チビの顔……!」
言われてチビの顔を見ると、ブラシで毛が後ろに引っ張られ、目が細く吊り上がっていた。さらに、気持ちよすぎて口が半開きになり、小さな牙がチラリと見えている。
まるで、般若のような、宇宙人のような……なんとも言えない「ブサ可愛い変顔」になっていたのだ。
「フニャァ〜……(極楽〜……)」
本人は至って気持ちよさそうに目を細めているのが、さらにシュールだ。
「なによそれ……ふふっ、ブッサイクねぇ」
助手席の中島鞠が、振り返って肩を震わせて笑いを堪えている。
涼子も、かほりさんも、チビの変顔を見て思わず口元を綻ばせた。エミリーに至ってはスマホでこっそり写真を撮っている。
こんな絶体絶命のピンチだというのに、車内はほんの一瞬だけ、温かい笑いに包まれた。
動物の持つ癒やしの力は偉大だ。
だが、その平和な時間は、長くは続かなかった。
「……アキちゃん、前!」
助手席の鞠が、鋭い声で言った。
アキが急ブレーキを踏む。
キィィィッ! という音と共に、霊柩車が停止した。
「……マジかよ」
アキが呻く。
フロントガラスの向こう。
片側二車線の道路が、赤色灯の海で埋め尽くされていた。
複数のパトカーが斜めに停められ、完全なバリケードを形成している。防弾チョッキを着た武装警官たちが、一台一台の車を停め、ライトで車内を照らして厳しいチェックを行っていた。
「……ネズミ捕りなんてレベルじゃない。完全な封鎖だわ」
鞠が舌打ちをする。
エミリーのPC画面でも、このルートの検問は捕捉できていなかったようだ。ゲリラ的に設置された臨時検問だろう。
「……Uターンするべか!?」
「無理よ。後ろからもパトカーが来てるわ」
鞠がサイドミラーを見て言った。
後方から、赤色灯を回したパトカーが二台、ゆっくりと近づいてくる。
前門の虎、後門の狼。
完全に逃げ場を失った。
「……万事休す、ね」
涼子が、諦めたように目を閉じる。
「霊柩車とはいえ、あの厳戒態勢じゃ絶対に止められる。そして、棺桶の中に寝ている阿部と、私たちが一緒にいるのを見られれば……一発でアウトよ」
警察の誘導棒が、私たちの霊柩車を指し示した。
『止まれ』の合図。
アキは歯を食いしばり、じりじりと車を前進させ、検問の警官の前に車を停めた。
コンコン。
窓ガラスが叩かれる。
「……ご苦労様です。お仕事中に申し訳ありませんが、車内の確認を……」
若い警官が、鋭い目で車内を覗き込んできた。
アキが窓を少しだけ開け、プロの葬儀屋の顔を作る。
「お疲れ様です。……これから、ご遺体を斎場へお運びするところでして」
「承知しています。しかし、現在凶悪犯の逃走による特別警戒中でして。申し訳ありませんが、後部の棺桶も確認させていただけますか」
警官の言葉に、車内の空気が凍りついた。
棺桶を開けられれば、そこには阿部がいる。
終わった。
私がチビを強く抱きしめた、その時だった。
「――おい! その車は俺の管轄だ! 手出しするな!」
怒号が響いた。
検問のバリケードの奥から、一台の覆面パトカーが猛スピードで走ってきて、私たちの霊柩車のすぐ横に急停車したのだ。
キキィッ! という派手なスキール音。
覆面パトカーのドアが乱暴に開き、一人の男が降りてきた。
ヨレヨレのトレンチコート。寝癖のついた髪。無精髭。
咥えタバコをふかした、昭和の刑事ドラマから抜け出してきたような、くたびれた中年の男だった。
「な、なんだあんたは! ここは我々第二機動隊が……」
「警視庁捜査一課、堂島だ。……いや、今はしがない所轄のヒラだったな」
男は警察手帳を警官の鼻先に突きつけた。
「この霊柩車は、俺が追ってる『別件』の重要参考車両だ。俺が直々に署までエスコートする。お前ら下っ端はすっこんでろ」
「別件!? しかし、上の指示では全車両を例外なく……」
「上がなんだ。俺の責任で通すと言ってるんだ。それとも何か? 俺とやり合う気か、ひよっこ」
堂島と呼ばれた男が、鋭い眼光で警官を睨みつける。
その迫力は、本物の修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、圧倒的な凄みだった。
若い警官はたじろぎ、無線で上官に確認を取ろうとした。
「……チッ。モタモタすんな。行くぞ!」
堂島は私たちの霊柩車の運転席側の窓をバンバンと叩いた。
「前の車についてこい! 止まったら置いてくぞ!」
男は覆面パトカーに飛び乗ると、赤色灯を屋根に乗せ、サイレンを鳴らし始めた。
ウゥゥゥゥッ!!
覆面パトカーが、バリケードの隙間を強引にこじ開けるようにして前進する。
「アキ! ついて行け!」
棺桶の中から、阿部がくぐもった声で叫んだ。
アキはアクセルを踏み込み、覆面パトカーのすぐ後ろにピタリと張り付いて検問を突破した。
警官たちが何か叫んでいたが、サイレンの音にかき消された。
「……抜けた……!」
みずほが安堵の声を上げる。
私は、荒い息を吐きながら棺桶の方を見た。
「所長……今の人は?」
「……腐れ縁だ」
棺桶の中から、阿部がぽつりと呟くのが聞こえた。
「5年前、俺の無実を証明しようとして……左遷された、バカな相棒だ」
30分後。
堂島の覆面パトカーに先導され、私たちは港区の海沿いにある、使われなくなった古い倉庫へとやってきた。
シャッターを下ろし、完全に外からの視線を遮断する。
アキとエミリーに手伝われて棺桶から這い出した阿部は、怪我をした左肩を庇いながら、トレンチコートの男――堂島刑事の前に立った。
薄暗い倉庫の中、二人の男が対峙する。
「……生きてたか、ゼロ」
堂島が、電子タバコの煙を吐き出しながら言った。
ゼロ。それは阿部の警察時代のエースとしてのコードネーム。
「お前こそ。……ド田舎の駐在所で、腐って死んだかと思ってたぜ、堂島」
阿部が皮肉で返す。
二人の間には、5年という空白の時間があった。
正義を信じ、共に戦い、そして共に組織に裏切られた二人。
「腐るわけねえだろ。……俺はこの5年間、ずっと待ってたんだ。お前が再び表舞台に出てきて、あのクソったれな『ファントム計画』の尻尾を掴む日をな」
堂島は懐から、分厚いファイルを取り出して阿部の胸に押し付けた。
「……なんだ、これは」
「俺の5年間の執念だ」
堂島は不敵に笑った。
「左遷された後も、俺は俺のやり方でファントムを追っていた。交通課、生安、マル暴……あらゆる部署の古いコネを使って、警察内部の不審な金の流れと、データの動きを洗ってたんだ」
「お前……一人でそんな危険な真似を……」
「お前がネットの海で戦うなら、俺は泥臭い現実で戦う。それが相棒の役目だろ?」
堂島の言葉に、阿部の目が僅かに見開かれた。
いつも感情を見せない阿部が、言葉を詰まらせている。
「お前たちが昨夜、全世界にばら撒いた権田原の裏帳簿と、パノプティコンのシステム設計図。……あれを見た時、俺の5年分の点と点が、完全に線で繋がったんだ。……よくやったな、邦彦」
「……」
「それで? これからあの暗号を解いて見つけた『本丸』……旧防空壕のデータセンターに乗り込む気だろ?」
堂島は阿部たちの行動を完全に読んでいた。
「あそこは警察の管轄外だ。ファントムの私兵部隊が、軍隊並みの装備で警備している。正面から行けばハチの巣だ」
「分かっている。……だが、行くしかない」
「安心しろ。……ハチの巣にはさせねえよ」
堂島はファイルの中から、一枚の古い青焼きの図面を取り出し、車のボンネットに広げた。
「これは、戦後直後に作られた、都心の地下水道と廃地下鉄の非公開ルートの図面だ。……ファントムの拠点である旧防空壕跡の、真下を通っている」
「……!」
「警備システムは全て地上と出入り口に向けられているはずだ。この地下水脈からなら、奴らの監視網をくぐり抜けて、物理サーバーの直下まで辿り着ける」
堂島が図面の一点を指差した。
「ここから入れ。道案内はできないが、外の警察の目は俺が引き付ける。……やれるか、ハッカー先生」
阿部は図面をじっと見つめた。
その瞳に、かつての鋭い光――「コードネーム・ゼロ」の光が完全に戻っていた。
「……誰に物を言っている。俺たちを誰だと思ってるんだ」
阿部は振り返り、私たちチームの面々を見た。
腕を鳴らすアキ。パソコンを開くエミリーとみずほ。不敵に笑う涼子と鞠、かほり。
そして、チビを抱いた私。
全員が、覚悟を決めた顔で頷いた。
「俺たちは、デジタル・アーカイブス社だ。……死者の遺した無念を、この手で完璧に整理してやる」
阿部の宣言に、堂島は満足そうに笑い、電子タバコをポケットにしまった。
「頼んだぞ。……終わったら、美味いラーメンでも奢れ」
「インスタントでよければな」
5年ぶりの、男たちの和解。
それは、最大の敵「ファントム」を打ち倒すための、最後のピースだった。
私たちは堂島から図面を受け取り、再び霊柩車に乗り込んだ。
向かう先は、光の届かない地下の奥底。
真実を隠し続ける悪の心臓部へ、デジタル・ゲリラたちの最後の反撃が始まる。




