第36話 彩の覚悟
夜明け前の国道を、黒塗りの霊柩車が滑るように走っていた。
車内は重苦しい沈黙に包まれている。
後部の棺桶安置スペースには、白い布を被せられた所長・阿部邦彦が横たわっていた。その布には、左肩のあたりに赤い血が滲んでいる。私を庇って受けた、特殊警棒による深い一撃の痕だ。
「……アキちゃん、追手は?」
助手席の中島鞠が、サイドミラーを睨みながら尋ねた。
「今のところいない。パトカーともすれ違ってないよ。……この車、やっぱり目立たなくて最高だべ」
運転席の岡田アキが、疲労の滲む声で答える。
私たちは今、世界中を巻き込む大事件の「震源地」となっていた。巨大IT企業グラム社と政府による国民監視システム『パノプティコン計画』の証拠データを、全世界に向けて暴露した直後なのだ。
ネット上は阿鼻叫喚の嵐。ニュース番組は臨時特番を組み、SNSでは怒りと恐怖のコメントが秒間数万件のペースで投稿されているという。
私たちが行ったのは、正義の告発だ。しかし、権力側からすれば、私たちは国家の最高機密を盗み出してテロを起こした「凶悪なサイバー犯罪者」に他ならない。
「……着いたよ。ここなら安全だ」
アキがハンドルを切り、霊柩車はある建物の裏手へと滑り込んだ。
そこは、都心から車で一時間ほど離れた郊外にある、古い平屋の建物だった。
「ここは?」
「うちの会社が昔使ってた、閉鎖された斎場だよ。老朽化で使ってないけど、電気と水道は生きてる。身内以外は誰も知らない場所だ」
アキの案内に従い、私たちは車を降りた。
エミリー・ローレンスが、段ボールハウスに立て篭もる子猫を抱えて降りてくる。
そして、アキとエミリーの二人で、阿部を担ぎ上げて斎場の中へと運び込んだ。その後ろから、小川みずほが「これ、重いんだけど……」と文句を言いながら、真っ赤な大型のクーラーバッグを引きずって入ってきた。
元は親族の控室だったと思われる和室に、阿部を寝かせる。
アキは救急箱を開き、本格的な手当てを始めた。
「……骨は折れてない。でも、筋肉の断裂と打撲がひどい。縫うほどじゃないけど、絶対に安静にしてなきゃダメだ」
アキは消毒液で傷口を拭い、太いテーピングで阿部の左肩をガチガチに固定した。
阿部は顔をしかめ、脂汗を流しながらも、一言も痛みを口にしなかった。
「……すまないな、葬儀屋」
「あんたに礼を言われると気持ち悪いよ。……彩ちゃんを庇ったんだろ? ちょっとは見直したよ」
「……」
阿部は目を伏せた。
私は、阿部の傍らに膝をつき、深く頭を下げた。
「所長。……本当に、ごめんなさい。私のせいで、こんな大怪我を……」
「謝るな、石川」
阿部は低い声で遮った。
「あれは俺の判断だ。お前が配電盤を庇わなければ、送信は失敗し、全員殺されていた。……お前は自分の役割を果たした。それだけだ」
「でも……」
「それに、まだ終わっていない。……おい、カナダ。ネットの状況はどうだ」
阿部が視線を向けると、畳の上に車座になっていたエミリーが、PCのモニターから顔を上げた。
「大炎上中よ。グラム社の株価は時間外取引でストップ安。政府のスポークスマンが『現在事実関係を確認中』って苦しい会見を開いたところ。……パノプティコンの機能は、完全に停止したと見ていいわ」
「法的防衛線は?」
「私が張っておいたわ」
弁護士の藤田涼子が、壁にもたれかかりながら言った。
「各メディアに、『匿名の内部告発者』からのデータ提供という形でリークしたわ。情報の出所であるデジタル・アーカイブス社の名前は伏せてある。警察はもうあの事務所に入って調べてるでしょうけど、私たちがデータをリークした確たる証拠を見つけるには、どんなに早くても数日はかかるはずよ。残った機材は物理的に破壊してきたしね」
大家の後藤かほりが、静かにため息をついた。
「私の本たち、無事だといいけど。……まあ、店子がこんな大立ち回りを演じたんだから、大家として腹は括ってるわよ」
全員が、それぞれに覚悟を決めた顔をしていた。
誰一人として、阿部を責める者も、逃げ出す者もいない。
「……腹が、減ったな」
不意に、阿部が身を起こそうとした。
「バカ! 動くなって言っただろ!」
アキが慌てて制止するが、阿部は右腕の力だけで強引に立ち上がった。
その顔は蒼白だが、目にはギラギラとした光が宿っている。
「血を流し、極度の緊張状態を維持したんだ。カロリーが枯渇している。……葬儀屋、この施設に『精進落とし』を作るための厨房はあるか?」
「厨房はあるけど……まさか、あんた料理する気!?」
「当たり前だ。……飯を食わなきゃ、明日は戦えん。小川、俺が指定したクーラーバッグは無事か」
「うん、ここにあるよ。……逃げる時に絶対持ってこいって言われたから、死守したけどさ」
みずほが赤いクーラーバッグをドスンと置く。
阿部は痛む左肩を庇いながら、よろよろと厨房へ向かった。
誰も彼を止められなかった。この男にとって、料理とは生命維持活動であり、同時に戦うための儀式なのだ。
古い厨房のステンレス台の上で、阿部は包丁を握っていた。
彼がクーラーバッグから取り出したのは、巨大な牛肩ロースのブロック肉と、白い牛脂の塊だった。サーバーのHDDと一緒に、こんなものまで持ち出していたとは。
「……石川、手伝え。俺の左腕の代わりになれ」
「はいっ!」
私は急いで手を洗い、阿部の隣に立った。
「肉を粗みじんに叩け。ミンチ機は使わない。包丁で不揃いに叩き切ることで、肉の食感と肉汁を限界まで残すんだ」
私は阿部の指示に従い、重い包丁で牛肉を叩き始めた。
トントントンッ! という音が厨房に響く。
阿部は片手で塩と荒挽きの黒胡椒を大量に振りかけ、牛脂を細かく刻んで混ぜ合わせた。
つなぎの卵やパン粉は一切入れない。純度100%の牛肉の塊だ。
「よし。それを150グラムずつの球状に丸めろ」
私が肉のボールを作っている間、阿部は大きな鉄板をコンロに乗せ、強火で熱し始めた。
鉄板からうっすらと煙が上がる。
「ハンバーガーを作る」
「ハンバーガーですか? こんな時に?」
「こんな時だからだ。ジャンクな食べ物は、理性を飛ばし、闘争本能を呼び覚ます。……行くぞ」
阿部は、私が作った肉の球を、熱々の鉄板の上に等間隔で置いた。
ジュウウウッ! と激しい音が鳴る。
そして彼は、金属製の重いフライ返しを右手に持ち、肉の球を上から思い切り力任せに押し潰した。
「……スマッシュバーガーだ!」
ジュワァァァァァッ!!
肉が鉄板に押し付けられ、薄く平らなパティに変形する。
同時に、猛烈な煙と、焦げた牛肉の暴力的なまでの香ばしさが厨房に爆発した。
「肉を押し付けることで、鉄板との接触面積を最大化する。メイラード反応を意図的に引き起こし、表面をカリカリのクリスピー状態に焼き上げるんだ」
煙の中で、阿部の目がハッカーのように鋭く光る。
彼は素早くパティをひっくり返した。
表面は見事なダークブラウンに焦げ、肉汁がグツグツと湧き立っている。
その上に、チェダーチーズのスライスを2枚ずつ乗せ、蓋をして蒸し焼きにする。
「バンズは多めのバターを塗って、鉄板の空いたスペースで焼く。カリッとさせろ」
私は急いでバンズを焼き、特製のオーロラソースをたっぷりと塗った。
焼き上がったパティを2枚重ね、バンズで挟む。
「……完成だ。配れ」
紙の包みに入れられた、巨大で暴力的なハンバーガーが、和室のテーブルに運ばれた。
とろけたチェダーチーズが、肉の層から滝のように流れ出ている。
部屋中にジャンクで強烈な匂いが充満した。
「飲み物は、これだ」
阿部がピッチャーからグラスに注いだのは、コーラでもビールでもなく、琥珀色をした少しとろみのある液体だった。
「……お茶?」
「『竜眼水』だ。台湾や中国の伝統的な飲み物だ」
阿部はグラスを配りながら説明する。
「乾燥させた竜眼の果肉と、ナツメ、クコの実を、氷砂糖と一緒にじっくりと煮出したものだ。……温かいまま飲む」
「ハンバーガーに、漢方みたいな甘いお湯?」
涼子が怪訝な顔をした。
「騙されたと思って飲んでみろ。……食え!」
阿部の号令で、私たちは一斉にハンバーガーにかぶりついた。
「……っ!!」
全員の目が、見開かれた。
カリッ! という表面の香ばしい食感を突き破ると、中から粗挽き肉の強烈な旨味と熱い肉汁が溢れ出してきた。
つなぎを一切使っていないため、肉そのものの野性味がダイレクトに脳を殴りつける。
濃厚なチェダーチーズの塩気と、オーロラソースの酸味が、肉の脂と完璧に融合している。
美味い。あまりにも美味くて、理性が吹き飛びそうだ。
「すっげえ! 何これ、チェーン店のバーガーと全然違う!」
「肉を食ってるって感じがするわね……!」
アキと鞠が、口の周りを汚すのも構わずに無我夢中でかぶりつく。
そして、喉が渇いたところで、竜眼水を口に含む。
「……あ」
私は、その不思議な感覚にため息を漏らした。
竜眼水の、深く、優しく、体に染み渡るような甘さ。
ハンバーガーの暴力的な脂と塩気を、この温かい琥珀色の液体が、スッと包み込んで中和してくれる。
「竜眼とナツメには、疲労回復と『安神作用』……つまり、極度のストレスで高ぶった神経を鎮め、心を落ち着かせる効果がある」
阿部がハンバーガーを咀嚼しながら言った。
「ジャンクフードで闘争本能を満たし、竜眼水で精神のバランスを整える。……逃亡生活の初日の朝食としては、悪くないだろ」
「……おじさん、本当に食の変態だね」
みずほが呆れたように笑いながら、それでも美味しそうに竜眼水を飲んだ。
熱いハンバーガーと、温かく甘い竜眼水。
張り詰めていた心が、ゆっくりと解れていくのが分かった。
恐怖も、不安も、今はただのスパイスに過ぎない。
私は、ハンバーガーの包み紙を握りしめたまま、顔を上げた。
そして、全員の顔を見渡した。
阿部さん、アキさん、鞠さん、涼子さん、かほりさん、みずほちゃん、エミリー。
ここにいる全員が、ただの「遺品整理屋」と「その仲間たち」ではない。
国家の闇に喧嘩を売り、そして生き残った、最強の共犯者たちだ。
「……私」
私が口を開くと、全員の視線が集まった。
「私は、姉の死の真相を知りたくて、ここに残りました。……でも、今日分かりました。姉が命を懸けて暴こうとしたものは、私の想像を絶する巨大な悪だったんだって」
私は、自分のポケットにある姉のスマホを、服の上から強く握りしめた。
「姉は、一人で戦って、殺されました。……でも、私は一人じゃありません」
涙が込み上げてきたが、私はそれをグッと堪え、笑顔を作った。
「阿部さんが庇ってくれたこの命、無駄にはしません。……私、どこまでもついて行きます。姉が見ようとした景色を、このチーム全員で見るまで、絶対に逃げません!」
私の決意表明に、和室は静まり返った。
やがて。
「……ふん。足手まといにならないようにな、新人」
阿部が、不敵な笑みを浮かべて言った。
その言葉は冷たいが、声のトーンはどこまでも温かかった。
「何言ってんの、彩ちゃんはもう立派な主力メンバーよ!」
エミリーが私の肩を抱き寄せる。
アキが空になった紙コップを掲げた。
「そういうことだ! 私たちはもう、運命共同体だべ! 地獄の果てまで付き合ってやるよ!」
「そうね。法廷でも逃避行でも、私が守ってあげるわ」
「情報戦なら任せなさい」
「家賃は滞納させないわよ」
「音の監視はバッチリだから」
涼子、鞠、かほり、みずほが次々と声を上げる。
段ボールハウスの中で、子猫も「ミャー」と賛同するように鳴いた。
窓の外が、白み始めている。
朝だ。
私たちの、新しい戦いの日が始まる。
失うものはもうない。最強の8人のスペシャリストによる、見えない敵への反撃が、ここからスタートするのだ。
私は、残りの竜眼水を一気に飲み干した。
その甘さは、明日への希望の味がした。




