第35話 脱出の霊柩車(後編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
私を庇って重傷を負った所長・阿部邦彦。彼を見下ろし、敵のリーダーは血濡れた特殊警棒を軽く振って残酷に笑った。
「遊びは終わりだ。全員、ここで処理しろ」
その絶望的な宣告に呼応し、黒スーツの男たちが一斉に殺意を漲らせて動こうとする。
私は、崩れ落ちそうになる阿部さんの巨体を必死で支えていた。手を通して伝わってくる、生温かい液体の感触。グレーのパーカーが、左肩から背中にかけてドス黒く染まっている。
「所長っ……! 所長!」
「……騒ぐな、石川。耳元で大声を出すな……」
阿部さんは顔を苦痛に歪め、荒い息を吐きながらも、決して倒れ込もうとはしなかった。彼の視線は、迫り来る敵ではなく、執念深くメインモニターの画面へと向けられている。
画面中央のデータ送信プログレスバー。
98%、99%……。
「リーダー! これ以上時間をかけるとマズい!」
入り口付近で弁護士の藤田涼子や大家の後藤かほりと対峙していた男の一人が、焦ったように叫んだ。
リーダーの男が配電盤ごと全てを物理的に破壊しようと、再び警棒を振り上げて大きく踏み込んだ。
まさにその瞬間だった。
「――100%!! 送信完了!!」
カナダ人ハッカーのエミリー・ローレンスが、キーボードが割れんばかりの勢いでエンターキーを叩き、両腕を天に向かって突き上げた。
モニターに表示されていたプログレスバーが光の粒子となって弾け、『Data Sent(データ送信完了)』の緑色の文字が画面いっぱいに表示される。
直後。
静寂に包まれた地下室で、奇妙な現象が起きた。
私のポケットの中のスマホが、ブルッと震えたのだ。
それだけではない。アキさんのスマホも、かほりさんのスマホも、さらには襲撃してきた男たちのポケットの中からも、一斉に様々な通知音が鳴り響いた。
「なんだ……?」
リーダーの男が怪訝な顔で自分の端末を取り出す。
みずほが、自分のスマホの画面を見て息を呑んだ。
「……トレンド1位。『#パノプティコン計画』『#グラム社告発』。……一気に拡散されてる。主要なニュースサイト、海外の告発プラットフォーム、大手掲示板……全部のトップニュースに載ってるよ!」
「……終わったわね。あんたたちの雇い主の命運も」
涼子が、乱れた前髪をかき上げながら、男たちに向かって冷たく言い放った。
「国家規模の思想統制システムの全貌、政府高官の癒着、そして邪魔者の暗殺指令リスト。全てが全世界のオープンネットワークにばら撒かれたわ。もう、誰にも揉み消すことはできない」
リーダーの男は、スマホの画面に表示された生々しい内部資料の画像を見て、顔面を蒼白にさせた。
彼ら「掃除屋」の仕事は、秘密を守ることだ。証拠を隠滅し、口を封じること。
しかし、秘密が全世界に知れ渡ってしまった今、その任務には何の意味もなくなった。ここで私たちを殺したところで、パンドラの箱の底から飛び出した災厄を箱に戻すことは不可能なのだ。
「……チッ!」
男の耳に付けられたインカムから、切羽詰まった声が漏れ聞こえた。おそらく、パニックに陥った上層部からの撤退命令だろう。
「……ずらかるぞ。トカゲの尻尾切りが始まる前にな!」
リーダーの男は一瞬だけ阿部さんを憎々しげに睨みつけると、部下たちに合図を送り、踵を返した。
彼らは倒れた本棚のバリケードを乗り越え、嵐のように階段を駆け上がって逃げていった。
足音が完全に遠ざかり、ビルの前に停まっていたバンが急発進するタイヤの摩擦音が聞こえた瞬間。
張り詰めていた緊張の糸が切れ、地下室に重い安堵の空気が落ちた。
「……行ったわね」
鞠さんが催涙スプレーを下ろし、壁にもたれかかる。
「阿部さんっ! 大丈夫ですか!?」
私は阿部さんの体を床に横たえさせた。
アキさんがすぐに駆け寄り、手際よくパーカーの背中部分をハサミで切り裂く。
露わになった背中には、斜めに走る赤黒いミミズ腫れと、裂けた皮膚から血が滲み出ている痛々しい傷跡があった。
「……幸い、背骨は外れてる。でも肋骨か肩甲骨にヒビが入ってるかもしれねえ。とりあえず止血するべ!」
エンバーマー見習いとして遺体の解剖学的構造を学んでいるアキさんの応急処置は、的確で素早かった。清潔なガーゼを傷口に当て、テーピングで強めに圧迫固定する。
「痛っ……! 手荒いぞ、葬儀屋……」
「文句言わない! 死ななかっただけマシだと思いな!」
「……石川」
阿部さんが、虚ろな目で私を見た。さっき食べた生ハムとヤクルトの糖分効果も切れかけているのか、顔色はひどく青白い。
「はい……!」
「お前の姉さんが残したデータは……無事に世界に届いた。これで、少しは気が済んだか……?」
「……はい。はいっ……! 本当に、ありがとうございました……っ」
涙がボロボロとこぼれ落ちて、止まらなかった。
私のために。姉の真実を守るために、この人は体を張ってくれたのだ。
「……感動のフィナーレのところ悪いんだけど、早く逃げる準備をした方がいいわよ」
涼子が、スマホの画面から目を離さずに言った。
「サイレンの音が近づいてきてる。近所の人が騒ぎを聞いて警察を呼んだんでしょうね。……それに、グラム社や政府の連中が、データの出所であるここをこのまま放置するとは思えない。腹いせに、私ごと物理的に『排除』しに来る可能性が高いわ」
その言葉に、全員の顔が引き締まった。
そう、ここはもう安全な城ではないのだ。
「私の店も、当分は休業ね。……まあ、読書に専念できると思えば悪くない休暇だわ」
大家のかほりさんが、散乱した本を拾い上げながら寂しそうに笑った。
「逃げる足はあるのか?」
阿部さんが痛みを堪えながら身を起こす。
「任せな。私が手配してある。もう裏口の路地に停まってるはずだべ」
アキさんが得意げに親指を立てた。
「車か? だが、この周辺の道路にはすぐに検問が敷かれるはずだぞ」
「だからだよ。……絶対に警察が止めたがらない、最高に目立たない車だ」
「なんだそれは」
「霊柩車だよ」
アキさんの言葉に、私たちは顔を見合わせた。
なるほど、確かに。遺体を乗せて走る黒塗りの霊柩車を、わざわざ停めて中を検問しようとする警察官はいないだろう。心理的なブラインドスポットを突いた、完璧な逃走車両だ。
「エミリー、みずほ! サーバーのHDDを物理的に抜け! 機材は最小限だ。石川は重要な書類と……あいつを連れてこい」
阿部さんの指示で、私たちは一斉に動き出した。
エミリーとみずほがサーバーラックの前に立ち、重要なデータが入ったストレージだけを次々と引っこ抜いて特殊なアタッシュケースに放り込んでいく。残りの機材には、かほりさんが用意した薬品をかけて復元不可能な状態に破壊する。
私は金庫から現金と重要書類をバッグに詰め込み、部屋の隅へ向かった。
そこには、段ボール箱が置かれている。
先日、阿部さんがスーパーでもらってきたアマゾンの空き箱を、几帳面にガムテープで補強し、カッターで丁寧にアーチ型の出入り口と小さな窓までくり抜いて作った「お手製段ボールハウス」だ。
「おいで、チビ。時間がないの」
私は入り口から手を入れ、中にいる茶白の子猫を引っ張り出そうとした。
しかし。
「ミャーッ!!(絶対出ない!)」
子猫は、段ボールハウスの入り口の枠に両方の前足をガッチリと突っ張り、全力で抵抗した。
丸いお尻をふりふりし、短い尻尾をパタパタと振って、「ここは私の城だ!」とばかりに踏ん張っている。
無理に引っ張れば爪が折れてしまうかもしれない。
その必死すぎる抵抗の姿が、あまりにも可愛らしくて、私は極限状態の中だというのに、思わずフッと頬を緩めてしまった。
「もう、こんな時に我が儘言わないの……っ」
「貸しなさい、アヤ! そんなの箱ごと持って行けばいいじゃない!」
エミリーが駆け寄ってくると、子猫が立て篭もっている段ボールハウスごと、ヒョイッと軽々と抱え上げた。
突然家ごと持ち上げられた子猫は、「ミャウ?」と不思議そうに目を丸くして、窓から外をキョロキョロと見回している。その間の抜けた顔に、緊迫していた地下室の空気がほんの一瞬だけ和んだ。
「……よし、撤収だ!」
阿部さんの号令で、私たちは裏口の階段を駆け上がった。
外に出ると、冷たい雨の匂いがした。
路地の暗がりに、黒光りする巨大な車体が静かにアイドリングしていた。カトレアセレモニーのロゴが入った、リンカーンベースの洋型霊柩車だ。宮型のような派手な金色の装飾はないが、その重厚な存在感は圧倒的だ。
「阿部ちゃん、ちょっと我慢してね」
アキさんが霊柩車の後部ハッチを開けた。
そこには、美しい布が敷き詰められたレールの上に、豪華な白い木製の棺桶が鎮座していた。
「……おい。まさか、俺にここに入れと?」
「当たり前だべ。一番安全で、絶対に調べられないVIP席だぞ。……ほら、よっこいしょ!」
アキさんとエミリーが両脇から阿部さんを抱え上げ、無理やり棺桶の中に寝かせた。
「……クソッ。俺を生き仏にする気か……。せめて蓋は閉めるなよ、息が詰まる」
「閉めないよ。でも顔には白い布かけとくから、絶対動かないでよ!」
阿部さんは棺桶の中で苦鳴を漏らしながらも、観念したように目を閉じた。
私たちは、運転席にアキさん、助手席に鞠さん、そして後部の遺族用シートに私、涼子さん、かほりさん、みずほ、エミリーがギュウギュウ詰めになって乗り込んだ。
「みんな、シートベルト締めたね? ……行くよ!」
アキさんがアクセルを踏み込む。
重厚なV8エンジンが唸りを上げ、霊柩車が路地裏から表通りへと滑り出た。
遠くから、パトカーのサイレンの音が近づいてくるのが聞こえる。
すれ違うパトカーは、深夜に走る霊柩車を一瞥しただけで、怪しむことなく走り去っていった。アキさんの作戦は完璧だった。
私は窓ガラスに額を押し当て、遠ざかっていく三島ビルを振り返った。
看板のない、地下の事務所。
無愛想な所長がいて、いつもスパイシーな料理の香りが漂っていて、たくさんの涙と笑顔が交差した場所。
私の、大切な居場所。
「……さよなら、デジタル・アーカイブス社」
小さく呟いた私の言葉は、エンジンの音にかき消された。
膝の上に乗せた段ボールハウスの中で、子猫が「ミャオ」と、まるで返事をするように短く鳴いた。
空が、白み始めている。
開かれたパンドラの箱の底には、希望が残っているのだろうか。
破壊された日常を背に、最強で最狂の8人による、見知らぬ逃避行が始まった。




