第34話 地下室の攻防(前編)
ガンッ!! ドォォン!!
地下室の重厚なスチールドアが、外側からの凄まじい衝撃を受けて悲鳴を上げた。
1階の防犯システムを突破した「掃除屋」たちが、ついにこの最後の防衛ラインに到達したのだ。蝶番が軋み、隙間からコンクリートの粉塵がパラパラと落ちてくる。
この扉が破られるのは、もはや時間の問題だった。
すでに阿部邦彦は消火器を引き抜き、岡田アキはバールを構え、藤田涼子と中島鞠は臨戦態勢に入っている。
緊迫した空気。心臓が早鐘のように打ち、喉がカラカラに乾く。
しかし、その極限状態の中で、阿部は信じられない行動に出た。
「エミリー、送信完了まであと何分だ」
「相手の妨害パケットを弾きながらだから、ペースが落ちてる! あと3分はかかるわ!」
「3分か。……よし、最後の儀式だ」
阿部は手にした消火器を床にドンと置くと、キッチンの奥から、布に包まれた巨大な物体を抱えてきた。
それは、木製の専用固定台にセットされた、骨付きの豚もも肉の塊だった。
「ちょっ、阿部ちゃん!? あんた頭おかしくなったの!? すぐそこまで殺し屋が来てんだよ!」
アキがバールを振り回しながら叫ぶ。
「これから始まるのは、一瞬の判断と筋肉の反射速度が命を分ける肉弾戦だ。恐怖で硬直した筋肉を極限まで駆動させるには、上質なアミノ酸と強烈な塩分が必要だ」
阿部は全く動じることなく、プロ仕様の細長いスライサーナイフを抜き放った。
「これはただの豚肉じゃない。イタリア産プロシュート・ディ・パルマ。塩と豚肉だけで24ヶ月間熟成された、旨味の結晶だ」
ドアの向こうから「開けろ!」という怒号と、ドアを蹴り破ろうとする衝撃音がさらに激しさを増す。
ズガンッ! ガンッ!
その轟音をBGMに、阿部はナイフを滑らせた。
表面の酸化した黄色い脂と皮を削り落とし、現れた鮮やかなルビー色の赤身と、雪のように白い脂の層。そこに刃を当て、透き通るほど薄く、紙のようにスライスしていく。
室温と、阿部の手の温度だけで、生ハムの脂がとろりと溶け出し、表面が艶やかに光る。芳醇な熟成香が、火薬とスパイスの匂いが混ざる地下室にフワリと広がった。
「石川、これだ。配れ」
阿部がスライスした生ハムと共に差し出したのは、見慣れた小さなプラスチック容器だった。
赤いアルミホイルの蓋がついた、国民的な乳酸菌飲料。『ヤクルト』だ。
「……えっ? 生ハムにヤクルト、ですか?」
「早くしろ。ドアの蝶番がもつのはあと10秒だ」
私は震える手でヤクルトを受け取り、全員に配った。
「パルマハムの強烈な塩気と凝縮された旨味。これを口に入れた直後に、ヤクルトを一気に流し込む。乳酸菌飲料の暴力的なまでの甘みと酸味が、生ハムの塩味とぶつかり合い、口の中で『塩キャラメル』のような究極の甘じょっぱいコントラストを生み出す。……脳に直接ブドウ糖を送り込む、最強のロケットブースターだ」
阿部の号令に、私たちは狂気じみたこの状況を受け入れるしかなかった。
極薄の生ハムを口に放り込む。
舌の上で瞬時に脂が溶け、むせ返るような肉の旨味と塩気が広がる。
そして、ヤクルトのアルミ蓋に穴を開け、一気に飲み干す。
冷たくて甘酸っぱい液体が喉を駆け下りる。塩気と甘みが脳内でスパークし、恐怖で麻痺していた神経が、バチバチと音を立てて覚醒していくのが分かった。
「……くぅっ! なんだこれ、目がバキバキに冴えてきたべ!」
アキがヤクルトの空容器を握り潰し、バールを構え直した。
「最高ね。カフェインなんか目じゃないわ」
鞠も口元を拭い、バッグから催涙スプレーを取り出してスイッチを入れた。
その直後。
凄まじい破砕音と共に、分厚いスチールドアが吹き飛び、蝶番から外れて床に倒れ込んだ。
粉塵が舞う中、黒いスーツに身を包んだ大柄な男たちが、雪崩を打って地下室へと踏み込んでくる。
先頭に立つのは、鼻に横一文字の傷がある男。以前、権田原代議士の裏帳簿の件で事務所を襲撃してきた、掃除屋のリーダーだ。
「……ネズミどもが。袋の鼠だ」
「ようこそ、デジタル・アーカイブス社へ」
阿部が不敵に笑い、床に置いていた消火器のレバーを力一杯握りしめた。
ブシュゥゥゥゥッ!!
真っ白な粉末消火剤が、猛烈な勢いで入り口に向かって噴射される。
「ぐあっ!?」
「目が……! 前が見えん!」
狭い入り口に密集していた男たちは、突如として視界を奪われ、粉末を吸い込んで激しく咳き込んだ。
その隙を、元ヤンのアキが見逃すはずがない。
「おらぁっ! 土足で上がり込んでんじゃねえええ!」
アキが白い煙を突き抜け、先頭の男の膝の裏をバールで容赦なく薙ぎ払う。
鈍い音と共に男が崩れ落ちる。さらに追撃しようとしたアキだったが、後続の男たちが特殊警棒を抜いて反撃に出た。
「チッ、数が多いな!」
「下がって、アキちゃん!」
鞠が催涙スプレーを噴射し、男たちを牽制する。
しかし、敵はプロの集団だ。一時的に混乱はしたものの、すぐにフォーメーションを立て直し、じりじりと距離を詰めてくる。
阿部も空になった消火器を放り投げ、護身用の特殊警棒を構えて乱戦に飛び込んだ。
大男同士のぶつかり合い。骨と肉が軋む鈍い音が地下室に響き渡る。阿部のフィジカルは並の警察官を凌駕しているが、多勢に無勢だ。
「……大家さん! 援護を!」
阿部が叫んだ。
後藤かほりは、自分の店の入り口から続く階段を見上げ、手に持ったリモコンのスイッチを押した。
「私の本に、触れないでよね」
ガコンッ! という重い金属音がした。
1階から地下へ続く階段の途中に、あらかじめ仕掛けられていたストッパーが外れたのだ。
直後、階段の上から凄まじい地響きが迫ってきた。
ドゴゴゴゴゴッ!!
「な、なんだ!?」
階段にいた敵の男たちが見上げた先には、絶望的な光景があった。
『大英百科事典』全巻セット、『大漢和辞典』、そして無数の分厚いハードカバーの学術書。
一冊数キロはあろうかという鈍器のような本たちが、数百冊単位で雪崩となって階段を滑り落ちてきたのだ。
まさに、活字の暴力。
「うわあああっ!」
逃げ場のない階段で、男たちは次々と本の濁流に飲み込まれ、下敷きになって悲鳴を上げた。
かほりは、埃を払いながら冷たく言い放つ。
「知識の重み、思い知りなさい」
強力な足止めだ。
しかし、すでに地下室の中に入り込んでいた数人の男たちは、怯むことなく奥へと向かってきた。
彼らの狙いは一つ。
今まさに、ファントムの致命的な証拠データを世界中に送信している、エミリーのPCだ。
「……あいつだ! あの金髪の女のPCを破壊しろ!」
「No way!(させないわよ!)」
エミリーは片手でキーボードを叩き続けながら、もう片方の手で近くにあった器を掴んだ。
つい先ほどまでカンフル剤として飲んでいた、激辛の『ラクサ』のスープの残りだ。
エミリーはそれを、近づいてきた男の顔面に向かって躊躇なくぶちまけた。
「あっちぃっ!? 目がぁっ!!」
唐辛子とガランガルの刺激が直撃し、男が顔を押さえて悶絶する。
「今よ、ミズホ!」
「りょーかい!」
みずほが、デスクの上の大型スピーカーのボリュームを最大に引き上げた。
そして、特定の手作り指向性スピーカーを男たちに向ける。
再生されたのは、人間が最も不快に感じる15,000Hzの高周波ノイズだ。
「ぎゃあああ! 耳が……!」
男たちが耳を押さえてうずくまる。
その間に、エミリーの送信プログレスバーはじりじりと伸びていく。
85%、90%、92%……。
あと少し。あと数十秒で、全てが終わる。
だが、その焦りが、敵のリーダーに強硬手段を取らせた。
鼻に傷のある男だ。彼は高周波ノイズに顔を歪めながらも、壁際の配電盤に目をつけた。
「……電源を落とせ!! 元から断て!」
「させないわ!」
涼子が六法全書を両手で抱え、男の前に立ちはだかろうとする。
しかし、男は無造作に涼子を突き飛ばし、配電盤のカバーを蹴り破った。
そして、太いメインケーブルを掴み、力任せに引きちぎろうとする。
ここで電源が落ちれば、非常用バッテリーがあるとはいえ、送信プロセスがリセットされてしまうかもしれない。
「ダメっ!!」
私は思わず、男と配電盤の間に飛び込んでいた。
何ができるわけでもない。ただ、姉が命がけで遺したデータを、これ以上彼らの好きにはさせたくなかった。
私は、LANケーブルと電源コードを両腕で抱え込み、男を睨みつけた。
「どけ、小娘!」
男の目が殺意に染まる。
彼は太い特殊警棒を高く振り上げた。
鉄の塊が、私の頭に向かって容赦なく振り下ろされる。
避けられない。
私はギュッと目を閉じ、衝撃に備えた。
お姉ちゃん、ごめん。
しかし。
いつまで経っても、私に痛みは訪れなかった。
代わりに、耳元で「ガッ!」という、硬いものが肉と骨を叩き潰すような、生々しく鈍い音が響いた。
「……あ、べ……さん……?」
目を開けた私の視界を塞いでいたのは、グレーのパーカーの背中だった。
阿部が、私の前に割り込み、その身を挺して男の凶刃を受け止めていたのだ。
警棒は、阿部の左肩から背中にかけて、深く食い込んでいた。
「……チッ。蚊の鳴くような、軽い一撃だな」
阿部は顔を歪め、血を吐き捨てるように言い放った。
しかし、その巨体がグラリと揺れ、片膝をつく。
「所長っ!!」
「阿部ちゃん!!」
アキが悲鳴のような声を上げ、背後からリーダーの男に飛びかかった。
男はチッと舌打ちし、アキの攻撃を躱して距離を取る。
私は阿部の体を支えようとした。
パーカーの背中が、黒く染まっていく。血だ。
信じられないほど熱い血が、私の手にべっとりと付着した。
「所長……! どうして……っ!」
涙が溢れて、視界が滲む。
私を庇って。あんなに、他人に無関心を装っていたこの人が。
「……泣くな、石川」
阿部は荒い息を吐きながら、無理やり立ち上がろうとした。
その目は、まだ死んでいない。
鋭く、モニターのプログレスバーを睨みつけている。
「……俺は……まだ、負けてない。データを……守れ……」
送信バーは、98%を示していた。
しかし、男たちは再びフォーメーションを組み直し、確実な殺意を持ってじりじりと包囲の輪を縮めてくる。
リーダーの男が、血濡れた警棒を振ってニヤリと笑った。
「遊びは終わりだ。全員、ここで処理しろ」
絶体絶命。
地下室に、静かな絶望が降り積もっていく。
生ハムの甘い香りと、鉄の匂い、そして血の匂い。
パンドラの箱を開けた代償は、あまりにも大きすぎた。




