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死者からの検索履歴、削除しますか? ~デジタル遺品整理室の暗号解読~  作者: U3
第二章:黒い履歴と白い嘘

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第32話 開かれたパンドラの箱(後編)

 神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。

 薄暗い室内で、非常用電源の赤いランプが点滅している。

 地上からは、黒いバンから降り立った複数の男たちが、ビルの周囲を取り囲んでいく気配が伝わってきた。みずほがヘッドホン越しに傍受している環境音によれば、彼らはすでに1階の古書店『後藤書房』の入り口付近に集結しつつあるらしい。


「……阿部、データの解読はどうなってるの?」


 弁護士の涼子が、鋭い声で尋ねた。

 所長の阿部邦彦は、持ち帰った巨大なデータをローカルサーバーに移し、複数の解読スクリプトを同時並行で走らせていた。


「多重暗号化されている。軍事レベルのAES-256だ。分散コンピューティングで総当たりをかけているが、最初の層を剥がすだけでもあと15分はかかる」

「15分……。外の連中が強行突破してくるには十分すぎる時間ね」


 涼子がヒールを鳴らして苛立たしげに言う。

 敵は、国家規模の監視システム「ファントム」の秘密部隊、通称・掃除屋だ。鍵を壊して踏み込んでくるなど造作もないだろう。


「……よし、一旦休憩だ」


 阿部は突然キーボードから手を離し、立ち上がった。

 そして、驚くべきことにキッチンへ向かい、戸棚から黒くて重そうな石鍋をいくつか取り出したのだ。


「ちょっと、阿部ちゃん!? こんな時に何してんの!」


 アキさんが目を丸くして叫ぶ。


「見て分からないか。飯の準備だ」

「分かるけど! 敵がすぐそこまで来てるんだべ!?」

「だから食うんだ。これから始まるのは、一瞬の判断ミスが命取りになる持久戦だ。空腹による集中力低下は死に直結する。……石川、冷蔵庫からタッパーを出せ」


 私は反射的に立ち上がり、言われた通りにタッパーを取り出した。

 中には、もやし、ぜんまい、ほうれん草、にんじんといった野菜が、それぞれごま油とニンニク、塩で味付けされた状態で保存されていた。


「阿部さん、まさかこれ……」

「そうだ。石焼ビビンバを作る」


 阿部はコンロに火をつけ、石鍋を直接火にかけた。

 同時に隣のフライパンで、細切れの牛肉を醤油、砂糖、すりおろしリンゴ、大量のニンニクで甘辛く炒め始める。焦げる醤油と肉の脂の香りが、一瞬にして地下室を満たした。


「石鍋が十分に熱されたら、ごま油を引く。ここにご飯を敷き詰め、その上にナムルと肉を隙間なく並べるんだ。……彩りも重要だぞ。そして中央に、卵黄を落とす」


 ジュージューという激しい音が鳴り響く。

 ごま油とご飯が石鍋に焼かれ、香ばしいおこげができる音だ。

 阿部は手際よく特製のコチュジャンを添え、熱々の石鍋を木製のトレイに乗せてテーブルへ運んだ。


「……完成だ。火傷するなよ」


 地上の脅威が迫る中、地下室のテーブルには人数分の石焼ビビンバが並んだ。

 熱気とスパイスの香りが、恐怖で強張っていた私たちの胃袋を激しく刺激する。


「飲み物はこれだ」


 阿部が配ったのは、南国リゾートで出てくるような、紙パックに入った『ココナッツウォーター』だった。


「……ビビンバにココナッツウォーター?」


 エミリーが不思議そうにパックを見つめる。


「そうだ。ビビンバのコチュジャンと熱々のおこげは、口の中に強烈な熱と辛味をもたらす。そこで、天然の電解質が豊富なココナッツウォーターを流し込むんだ。ほのかな甘みと青臭さが辛味をスッと消し去り、失われた水分を瞬時に補給してくれる。……食え、そして混ぜろ!」


 阿部の号令で、私たちは一斉にスプーンを手にした。

 熱々の石鍋の中で、ご飯、ナムル、肉、卵黄、そしてコチュジャンを豪快にかき混ぜる。

 ジュワァァァッ!

 という音と共に、全ての食材が一体となり、最高の香りが爆発した。


「……熱っ! 辛っ! でも……うまっ!」


 みずほがハフハフと息を吐きながらビビンバを頬張る。

 辛さと旨味がガツンと脳を揺さぶる。おこげのカリカリとした食感がたまらない。

 そして、すぐにココナッツウォーターを飲む。

 冷たくて自然な甘さが、燃えるような口内を優しく鎮火し、スッと喉の奥へ消えていく。まるでスポーツの試合中のような、完璧な水分補給の感覚だ。


「……悔しいけど、美味しいわ。力が湧いてくる気がする」


 涼子も優雅さをかなぐり捨てて、スプーンを動かしていた。

 恐怖と緊張で冷え切っていた体が、内側からカッと熱くなる。

 全員が、黙々と、しかし猛烈な勢いでビビンバをかき込んだ。これから来る決戦に向けて、魂に薪をくべるように。


 ピピッ。


 その時、阿部のメインマシンのモニターが電子音を発した。

 走らせていた解読スクリプトの一つが、暗号の第一層の突破に成功したのだ。


「……開いたぞ」


 阿部はスプーンを置き、モニターに向かった。

 私たちも食べる手を止め、画面を覗き込む。

 そこに表示されたのは、膨大なテキストデータの断片と、企業ロゴの画像ファイルだった。


「……このロゴ、見覚えがあるわ」


 涼子が息を呑んだ。

 青と白でデザインされた、シンプルで洗練された『G』の文字。

 それは、世界中で数億人が利用しているSNSを運営し、以前、私たちが「死者のアカウントの保存」を巡って戦った相手。


「……『グラム』……巨大IT企業のグラム社じゃない!」


 涼子の声が上ずった。


「どういうことだ? ファントムの正体は、あのグラム社だって言うのか?」


 情報屋の鞠が目を細める。

 阿部は高速でテキストファイルをスクロールさせ、内容を読み解いていく。


「……違う。グラム社は、ファントムの『フロント企業』だったんだ。……いや、システムの基盤そのものと言っていい」

「どういうことですか、所長」

「グラム社が提供しているSNS、検索エンジン、動画サイト。それらは全て、無料で便利に使える。だが、その裏で、ユーザーのあらゆる行動履歴、思想、趣味嗜好、交友関係が収集されていた」


 阿部の指が、ある『開発者リスト』と書かれたファイルを指し示した。


「ファントム計画は、グラム社が集めた膨大なビッグデータをAIで解析し、国民一人一人に『スコア』をつけるシステムだ。反体制的な思想を持つ者、犯罪の傾向がある者を事前に選別し、社会から排除するための……完璧な思想統制システム」

「……そんな。SNSのデータを使って、国が国民を監視してるって言うの……?」


 私は震える声で呟いた。


「そして、このファイルを見ろ。『政府高官との非公式議事録』だ。……現職の閣僚クラスが、このシステムの導入を秘密裏に進めていた証拠だ」

「……権田原の裏帳簿なんて目じゃない。これは、国家の根幹を揺るがす特大の爆弾よ」


 涼子が青ざめた顔で言った。

 これほどの巨大な陰謀。

 私の姉・由紀子は、たった一人でこの深淵に近づき、そしてこの決定的な証拠を手に入れてしまったのだ。


「由紀子さんは、グラム社が単なるIT企業ではなく、国家の監視機関の隠れ蓑であることに気づいた。……だから、殺されたんだ」


 阿部の言葉が、重く地下室に響いた。

 姉は、事故で死んだんじゃない。

 誰も知らないところで、この国の自由を守るために戦って、そして命を落とした。


 私は、ポケットの中の姉のスマホを強く握りしめた。

 もう、迷いはない。

 姉が命と引き換えに遺してくれたこの真実を、絶対に闇に葬らせはしない。


 ガンッッ!!!


 突然、頭上から凄まじい衝撃音が響き渡った。

 1階の『後藤書房』の入り口だ。

 敵が、物理的な破壊行動に出たのだ。


「……来たわね。ガラスを割って侵入しようとしてるわ」


 みずほがヘッドホンを押さえながら言った。


「どうする、阿部ちゃん! ここのドアだって、プロの連中にかかれば数分で突破されるべ!」


 アキさんがバールを構えながら叫ぶ。

 その時だった。


「……舐めないでよね」


 静かな、しかしドスの効いた声。

 大家の後藤かほりだった。

 彼女はいつの間にか手元のタブレット端末を操作していた。画面には、後藤書房の見取り図と、複雑な制御インターフェースが表示されている。


「私の店を、大事な本たちを、泥靴で踏みにじろうなんて……百年早いわ」


 かほりがタブレットの画面を力強くスワイプした。

 次の瞬間、1階の方から、地響きのような重低音が鳴り響いた。

 ガガガガガッ! ズズズン!!


「な、何が起きてるの!?」

「防犯システムを起動したのよ」


 かほりは不敵に笑って、監視カメラの映像をメインモニターに映し出した。

 そこには、驚くべき光景が広がっていた。

 後藤書房の入り口のガラス戸の内側に、分厚い鋼鉄製の防刃シャッターが上から一気に落下し、侵入者を物理的にシャットアウトしたのだ。

 さらに、店内に整然と並んでいた巨大な木製の本棚が、床に埋め込まれたレールに沿って自動的に移動を開始。入り口と地下への階段を塞ぐように、幾重にも重なる『本棚のバリケード』を構築してしまった。


「……す、すげえ……。古書店が、要塞になったべ……」


 アキさんが呆然と呟く。


「このビルは戦前から残ってるんじゃなくて、私が莫大な私財を投じて『要塞化』したの。……本を湿気や火災、そして不埒な侵入者から守るためにね。店子を守るのも大家の務めよ」


 かほりは腕組みをし、誇らしげに胸を張った。

 鋼鉄のシャッターの向こうで、敵が困惑し、怒号を上げているのがマイク越しに聞こえる。


「……素晴らしい。さすがは大家だ。これで時間は稼げる」


 阿部はモニターに向き直り、再び猛烈な速度でキーボードを叩き始めた。

 残りの暗号を解読し、この証拠データを全世界に送信するための準備だ。


「よし、全員聞け! ここからは時間との勝負だ。敵が重機を持ってくれば、あのバリケードも長くは保たない。……それまでに、パンドラの箱を完全に開け放つ!」


「「「了解!!」」」


 チーム全員の声が、地下室に響き渡った。

 胃袋には、熱く燃えるビビンバのエネルギーが満ちている。

 最強の8人による、ファントムとの最終決戦――苛烈な籠城戦の火蓋が、ついに切って落とされた。


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