第31話 開かれたパンドラの箱(前編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
所長の阿部邦彦が「戦争だ」と宣言した瞬間、地下室の空気は一変した。
普段はどこか気の抜けた雰囲気のあるこの場所が、完全な軍の作戦司令室へと変貌を遂げたのだ。
「……行くぞ、カナダ。俺が正面からゲートを叩く。お前は裏から回れ」
「Copy that!(了解!) IPアドレスの偽装、完了。東欧から南米、中東を経由した多段プロキシを展開するわ。これで奴らに追跡されたとしても、辿り着くのはアフリカの砂漠のど真ん中よ!」
エミリー・ローレンスが、七色に光る特注のキーボードを軽快に叩く。
彼女の三面モニターには、世界地図上に張り巡らされた複雑な通信ルートが、光の線となって描かれていた。
国家規模の監視システム「ファントム」。
そのメインサーバーは、当然ながら世界最高峰のセキュリティで守られている。
阿部とエミリー。二人の天才ハッカーによる、息を呑むような波状攻撃が始まった。
カタカタカタ、ッターン!
タタタタタタ……ッ!
打鍵音だけが、静寂の地下室に響き渡る。
私、石川彩は、自分のデスクで固唾を呑んでその光景を見守っていた。
私にできるのは、姉が遺したスマホ――アクセスキーとなる「黒い鳥」の画像データ――を、ケーブルを通じて阿部さんのPCへ安定供給することだけだ。
張り詰めた緊張感。誰も一言も発しない。
その時だった。
「……ミャァ」
足元から、気の抜けた声がした。
茶白の子猫だ。
私たちがピリピリしていることなどお構いなしに、子猫は私の足にすり寄り、さらに阿部さんのデスクへとよじ登ろうとしている。
「あっ、こら、ダメだよ。今は危ないから」
私は慌てて子猫を抱き上げた。
しかし、子猫は「遊んで!」とばかりに私の腕の中で暴れ、キーボードやケーブルの方へ手を伸ばそうとする。
このままでは、重要な通信ケーブルを抜いてしまうかもしれない。
私は焦り、近くにあった小さな正方形の座布団を手に取った。
とりあえず、これで子猫の視界を遮って、おとなしくさせよう。
そう思って、子猫の頭の上からポンと、座布団をかぶせた。
暗くなれば大人しくなるはず……と思ったのだが。
数秒後。
座布団の端から、小さな四本の足と、しっぽがニョキッと生えた。
子猫は座布団を振り落とすこともなく、なんと背中に乗せたまま、のっそのっそと歩き始めたのだ。
その姿は、まるで小さな亀。あるいは、分厚い装甲を背負った謎のクリーチャーだ。
「……ミャウ?」
亀になった子猫は、座布団の下からひょっこりと顔を出し、不思議そうな顔で首を傾げた。
ドスッ、ドスッ、と不釣り合いに重たそうな足取りで、私のデスクの上を練り歩く。
「……ぶっ」
張り詰めていた空気の中で、最初に吹き出したのは情報屋の鞠さんだった。
「なによあれ……ヤドカリ? 可愛すぎるんだけど……」
「あはは! 亀! 亀になっちゃったべ!」
アキさんが腹を抱えて笑いをこらえる。
みずほちゃんも、ヘッドホンをずらして口元を手で覆っている。
弁護士の涼子さんに至っては、スマホを取り出して連写し始めていた。
「こら、お前たち。真面目にやれ」
大家のかほりさんが小声でたしなめるが、彼女の肩も微かに震えている。
極限の緊張状態だった地下室の空気が、小さな毛玉の予想外の行動によって、ふっと緩んだ。
阿部さんもモニターから目を離さず、「……緊張を解くにはちょうどいいバグだ」と、口角を少しだけ上げた。
「……カナダ、陽動は効いてるか?」
「Perfect!(完璧よ!) ファントムの第一防壁は、私が放ったダミーのDDoS攻撃に気を取られてるわ。今がチャンスよ、クニ!」
「よし。……『黒い鳥』、飛べ」
阿部がエンターキーを強く叩き込んだ。
私の姉のスマホから抽出された「黒い鳥」の画像データが、暗号化されたパケットとなって、ファントムのサーバーへと送信される。
画面が激しく明滅する。
赤い警告画面が無数に立ち上がり、弾かれては消えていく。
「……第二防壁、突破。……第三防壁、認証プロトコルに『黒い鳥』のシグネチャを滑り込ませる。……通った」
阿部の額に、じわりと汗が滲む。
「……メインサーバー内部、最深層の『ゴミ箱領域』へ到達。……見つけたぞ」
阿部が息を呑んだ。
モニターの中央に、隠蔽されていた巨大なフォルダが表示された。
それは、通常の運用では絶対にアクセスされない死角。
姉・由紀子が、命を懸けて盗み出し、そして隠した真実のデータ群。
「ダウンロードを開始する。……容量がデカい。数テラバイトあるぞ」
「急いで! これ全部、国家機密レベルの証拠でしょ!?」
涼子さんが声を上げる。
プログレスバーがゆっくりと進み始める。
10%、20%……。
順調かと思われた、その時だった。
突然、阿部のメインモニターが、血のような真っ赤な色に染まった。
そして、警告音ではない、不気味な低い電子音が響き渡った。
「……Shit!(クソッ!)」
エミリーが叫んだ。
彼女の三面モニターにも、赤い波形が津波のように押し寄せている。
「クニ、見つかったわ! 防性AIが起動した! こっちのダミー通信を全部見破って、一気に逆探知をかけてきてる!」
「防性AIだと……?」
「侵入者を検知するだけじゃない、攻撃者に直接反撃プログラムを送り込んでくるタイプのシステムよ! やばい、こっちのファイアウォールが溶かされる!」
エミリーが凄まじい速度でキーを叩き、防御壁を再構築していくが、相手の攻撃はそれを上回る速度で迫ってくる。
「……さすがはファントムの本丸だ。化け物みたいなアルゴリズムだな」
阿部は焦るどころか、猛獣の笑みを浮かべた。
「だが、ダウンロードは止めん。……ここで切れば、由紀子さんの遺した証拠が完全に消去される」
「でも阿部ちゃん、このままだとこっちの場所がバレちまうべ!」
アキさんが叫ぶ。
「ダウンロード完了まで、あと何分だ!?」
「データの暗号化が多重にかかっているせいで、パケットの解凍に手間取っている。……あと3分はかかる」
たった3分。
しかし、サイバー戦における3分は、永遠にも等しい時間だ。
画面上の赤い波形が、次第に特定の一点へと収束していくのが分かる。
「……IPが割れるわ。海外のプロキシが次々と突破されてる。……日本、東京、千代田区……」
エミリーの悲痛な声が響く。
「……もう隠しきれない。神保町まで絞り込まれたわ!」
逆探知が完了したのだ。
この『デジタル・アーカイブス社』の物理的な位置が、ファントムに完全に特定された。
冷たい汗が背中を伝う。
相手は国家の影に潜む巨大組織だ。居場所がバレるということは、物理的な「排除」が迫っているということを意味する。
「……ダウンロード、完了!」
阿部がエンターキーを叩き、即座にサーバーからの物理的な切断を行った。
モニターの赤い警告画面がフッと消え、静寂が戻る。
しかし、それは安堵の静寂ではなかった。
嵐の前の、不気味な静けさ。
「……間に合った。証拠データは全てこっちのローカルストレージに確保した」
阿部は荒い息を吐きながら言った。
「で、どうすんのよ。居場所はバレちゃったわよ」
鞠さんがワイングラスを置き、トレンチコートの襟を立てる。
彼女の目は、すでに逃走ルートを計算しているようだ。
「データは多重に暗号化されている。中身を開いて『公開』できる状態にするには、まだ数時間の解析が必要だ。……それまでは、このデータを抱えて逃げるか、ここで迎え撃つしかない」
阿部が言った、その瞬間だった。
「……ちょっと、静かにして」
部屋の隅で、ずっとヘッドホンをつけていた小川みずほが、鋭い声で言った。
彼女は目を閉じ、首にかけていたヘッドホンを耳に押し当て、異常なほどの集中力で「音」を拾っていた。
「……みずほちゃん? どうしたの?」
私が尋ねると、彼女は「しっ」と人差し指を唇に当てた。
彼女は、自分が持ち込んだ機材で、ビル周辺の防犯カメラの駆動音や、飛び交うフリーWi-Fiの電波を『音声』として傍受しているのだ。
「……聞こえる。不自然な低周波のエンジン音。……一台じゃない。三台」
みずほの顔色が変わる。
「……タイヤの擦れる音。止まった。……ビルのすぐ外。裏口と、正面の通りに」
「なんだって?」
「……それと、無線のノイズ。暗号化されてるけど、組織的な通信のインパルス音がする。……黒いバンだよ。中にたくさん、大人の男の人が乗ってる」
みずほの絶対音感が、迫り来る物理的な脅威を正確に捉えていた。
「……早すぎるわね。逆探知から数分で部隊が到着するなんて」
涼子さんが忌々しげに呟く。
「つまり、最初からこの周辺に網を張っていたってことだ。俺たちが『黒い鳥』に接触した時点からな」
阿部は護身用の警棒を手に取った。
アキさんも、自分の荷物からなぜか「バール」のようなものを取り出している(なぜ葬儀屋がそんなものを持っているのかは聞かないでおく)。
「……どうする? 阿部くん。逃げ道は塞がれてるみたいよ」
かほりさんが、腕組みをしながら静かに問う。
阿部は、確保したばかりの証拠データが入ったハードディスクを、防水の耐衝撃ケースにしまった。
「データを開くまでの時間稼ぎが必要だ。……ここは俺の城だ。簡単に明け渡すつもりはない」
「ふふ、言ってくれるじゃない。……私の大事な本に傷をつけたら、家賃十倍にするからね」
かほりさんが不敵に笑う。
エミリーもPCを閉じ、「フィジカルな戦闘も嫌いじゃないわ」と拳を鳴らした。
鞠さんも、涼子さんも、怯む様子はない。
最強の8人による、ファントムとの籠城戦。
亀のように座布団を背負った子猫が、不思議そうに私たちを見上げて「ミャウ」と鳴いた。
私は、姉の遺したスマホをしっかりとポケットにしまい込んだ。
「……迎え撃ちましょう」
私が言うと、阿部さんは満足げに頷き、地下室の全ての照明を落とした。
暗闇の中、電子機器の赤いランプだけが、戦いの始まりを告げるように点滅していた。




