第30話 姉のスマホ、再び
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
すべての照明が落ち、非常用電源の赤いランプだけが明滅する薄暗い部屋で、私は姉のスマホを強く握りしめていた。
画面には、血のように赤い文字で『……逃げて』と表示されている。
死んだ姉からの警告。
普通なら悲鳴を上げて投げ出していたかもしれない。でも、私は逃げなかった。
さっき決めた覚悟は、この程度の脅しでは揺るがない。
「……阿部さん。これは?」
私は冷静に、隣に立つ所長を見上げた。
阿部は懐中電灯を点け、私の顔を一度確認すると、満足げに頷いた。
「いい度胸だ。……パニックにならんとはな」
「覚悟はしましたから。……で、これは心霊現象ですか?」
「違う。プログラムだ」
阿部は自分のメインマシンのキーボードを叩き始めた。非常用バッテリーで駆動するサーバーが、低い唸りを上げている。
「このスマホのOS深層に、時限式のスクリプトが仕込まれていた。『特定の条件』――つまり俺たちがファントムの痕跡である『黒い鳥』に接触した瞬間、自動的に警告を表示し、同時にあるサーバーへ信号を送るようにセットされていたんだ」
阿部はスマホを私から受け取り、強制的に電源を落とさず、逆にケーブルでPCに接続した。
「……信号を逆探知する。お前の姉、石川由紀子が『何を』見ていたのかを暴く」
画面に文字列が走る。
そこに映し出されたのは、私が知っている優しい姉の姿とは違う、戦うジャーナリストとしての記録だった。
膨大な調査資料、盗撮された写真、暗号化されたメール。
ターゲットは、あるIT企業。表向きはデータセンター運営会社だが、実態は個人情報の闇売買を行う「ファントム計画」の末端組織だ。
「……由紀子さんは、ただのOLじゃなかった。フリーのジャーナリストとして、この組織を内偵していたんだ」
「姉さんが……」
「ああ。そして、かなり深いところまで食い込んでいた。……見ろ、これを」
阿部が開いたファイルには、『国民監視システムのプロトタイプ実証実験データ』という記述があった。
それは5年前、阿部が警察時代に見てしまったものと同じ、国家による違法な監視の証拠だった。
「彼女はこれを見つけてしまった。……だから、消されたんだ」
消された。
その言葉の意味を噛み締める。
事故じゃなかった。姉は、正義のために戦って、殺されたのだ。
怒りと悲しみが同時に込み上げてくる。けれど、涙は流さなかった。泣いている場合じゃない。
「……阿部さん。姉は、無駄死にだったんですか?」
「いいや」
阿部はモニターを指差した。
「彼女は最期の切り札を残していた。この『黒い鳥』の画像データだ。これ自体が、ある場所へのアクセスキーになっている」
「どこの?」
「『ファントム』のメインサーバー内部だ」
阿部の目が鋭く光る。
「彼女は、盗み出した決定的な証拠データを、あえて敵の本丸であるメインサーバーの『ゴミ箱領域』に隠した。……灯台下暗しだ。奴らも自分の腹の中に爆弾があるとは気づいていない」
すごい。姉さんは、最期まで諦めていなかったんだ。
「だが、この警告が出た以上、奴らにもここの位置がバレた可能性がある。……ここから先は、全面戦争だ」
阿部が椅子から立ち上がった。
そして、ふと私を見た。
「……石川。少し外の空気を吸うぞ」
「え? 今からですか?」
「長期戦になる。その前に脳を冷却し、糖分を補給する。……付き合え」
阿部はジャケットを羽織り、私に顎で合図した。
私は頷き、彼について地上へと続く階段を上がった。
外は、冷たい雨が上がったばかりだった。
深夜の神保町。濡れたアスファルトが、街灯の光を反射して黒く光っている。
古書店街のシャッターが閉まり、静まり返った通りを、二人で歩く。
「……寒くないか」
「大丈夫です」
阿部は自動販売機でホットコーヒーを2本買うと、1本を私に投げてよこした。
受け取った缶の温かさが、掌から染み込んでくる。
「……本当なら、お前を巻き込みたくはなかった」
阿部が夜空を見上げながら、ポツリと言った。
「お前は一般人だ。姉の死の真相を知らずに生きていく幸せもあったはずだ。……今からでも、降りるか?」
それは、私を気遣っての言葉だった。
私はプルタブを開け、一口飲んでから答えた。
「降りません。……だって、これは私の喧嘩でもありますから」
「喧嘩?」
「姉を殺して、阿部さんの人生を狂わせた連中です。……一発殴ってやらないと気が済みません」
私が精一杯強がって見せると、阿部は少し驚いた顔をし、それからフッと笑った。
いつもの冷笑じゃない。優しい笑みだった。
「……そうか。お前も、随分と染まったな」
「所長の教育がいいので」
「フン。……だが、死ぬかもしれないぞ」
「所長が守ってくれるんでしょう?」
私が阿部を見上げると、彼はバツが悪そうに視線を逸らし、コーヒーを煽った。
「……善処する。俺の目の届く範囲ならな」
「十分です。……それに、私には最強の相棒がいますから」
私は阿部の隣に並び、同じ夜空を見上げた。
恋人同士のような甘い雰囲気はない。
あるのは、戦場に向かう前の兵士のような、静謐な共有感だけ。
でも、それが今の私たちには何よりも心地よかった。
これはデートだ。
これから始まる死闘の前の、最初で最後の、静かなデート。
「……戻るぞ。みんなが待っている」
「はい」
阿部が歩き出す。その手が、不意に私の肩をポンと叩いた。
言葉はない。でも、その重みだけで十分だった。
私たちは並んで、地下室への階段を降りていった。
事務所に戻ると、明かりがついていた。
大家のかほりさんが、ビルの予備電源をフル稼働させてくれたらしい。
そして、そこには全員が揃っていた。
腕組みをして仁王立ちする後藤かほり。
PCを展開し、不敵に笑うエミリー・ローレンス。
ヘッドホンを首にかけ、ガムを噛んでいる小川みずほ。
喪服姿で腕まくりをしている岡田アキ。
ワイングラスを片手に、余裕の笑みを浮かべる中島鞠。
そして、六法全書を武器のように構える藤田涼子。
8人のスペシャリスト。
全員が、私と阿部の帰りを待っていた。
「……遅いわよ、二人とも。作戦会議、始めちゃうところだったわ」
鞠さんがからかうように言う。
「コーヒー買ってただけだ。……状況は?」
「最悪にして最高よ。ファントムの連中、こっちのIPを特定してポートスキャンをかけてきてる。完全にロックオンされたわ」
エミリーがモニターを指差す。
「受けて立つしかないわね。……法的防衛ラインは私が敷くわ」
涼子が不敵に笑う。
「私のビルに手を出したこと、後悔させてやりなさい。……知識と教養(と暴力)の力でね」
かほりさんが本を閉じる。
「おうよ! 物理攻撃なら任せな!」
アキさんが拳を鳴らす。
「音の侵入も見逃さないよ」
みずほがヘッドホンを装着する。
みんな、逃げないんだ。
こんな危険なことに巻き込まれているのに、誰一人として怯んでいない。
私は胸が熱くなった。
姉さん、見てる?
私には今、こんなに頼もしい仲間がいるよ。
「……よし」
阿部が中央のデスクに座った。
彼がキーボードに手を置くと、全員の空気が引き締まる。
「これより、対ファントム作戦を開始する。……目的は一つ。由紀子さんが遺した証拠データを奪取し、奴らの悪事を全世界に晒すことだ」
阿部の目が、ギラリと光った。
かつて「コードネーム・ゼロ」と呼ばれた、伝説の捜査官の目だ。
「石川、準備はいいか?」
「はい!」
私は大きく頷き、自分の席に着いた。
「全員、配置につけ! ……戦争だ!」
阿部の号令と共に、地下室は戦場へと変わった。
キーボードを叩く音、指示を飛ばす声、そしてサーバーの唸り声。
それは、死者の無念を晴らし、生者の未来を勝ち取るための、反撃のシンフォニーだった。
姉のスマホの画面から、あの不気味なノイズは消えていた。
代わりに、待ち受け画面の姉の笑顔が、私を応援してくれているように見えた。
『行ってきます、姉さん』
長い夜が始まる。
でも、もう怖くない。
私の隣には、最強の相棒がいるから。




