第3話 アイドルの裏アカウント(前編)
神保町の地下にある『デジタル・アーカイブス社』で働き始めて、二週間が経った。
この奇妙な職場の空気にも、少しずつ慣れてきた……と言いたいところだが、現実はそう甘くはない。
「遅い」
「すみません!」
私は息を切らせて、重たいスチールドアを背中で押し開けた。
両手には、近所のスーパーで買い出した食材のエコバッグが食い込んでいる。
「玉ねぎ3個、鶏もも肉2キロ、あと頼まれていたクミンシードとガラムマサラ、買ってきました」
「2分遅刻だ。鶏肉の鮮度が落ちる」
「冷蔵車じゃないんだから、2分で変わりませんよ……」
所長の阿部邦彦は、トリプルモニターに囲まれたデスクから振り返りもせず、キーボードを叩き続けている。
相変わらずの人使いの荒さだ。私は本来、経理と渉外担当として雇われたはずなのだが、実際は阿部所長の料理アシスタント兼パシリとしての業務が大半を占めている。
私はため息をつきながら、給湯室へ向かい、食材を冷蔵庫に詰め込んだ。
阿部さんは、パソコンの解析作業が行き詰まると、猛烈な勢いで料理を始める。昨日は寸胴鍋いっぱいのボルシチだったし、一昨日は生地から手打ちしたパスタだった。
おかげで私の胃袋は満たされているが、精神的な疲労は溜まる一方だ。
私がエプロンを外してデスクに戻ろうとした時、入り口のインターホンが鳴った。
予約のお客様だ。私は慌ててジャケットの襟を正し、ドアへ向かう。
「いらっしゃいませ。デジタル・アーカイブス社へようこそ」
ドアを開けると、そこには小柄な女性が立っていた。
年齢は50代半ばだろうか。目元には深いクマがあり、頬はこけている。喪服ではないが、全身を黒っぽい服で固め、手には大きな遺影のようなものが包まれた風呂敷を持っていた。
全身から漂う、悲痛なオーラ。
私は直感した。この人は、ただの依頼人ではない。
「……予約していた、星野です」
「お待ちしておりました。星野良子様ですね。どうぞ、こちらへ」
私がソファを勧めると、彼女は力なく腰を下ろした。
阿部さんも、ようやくキーボードを打つ手を止め、ぐるりと椅子を回転させた。
「所長の阿部です」
「……娘の、スマホを見ていただきたいんです」
星野さんは、震える手でハンドバッグから一台のスマートフォンを取り出した。
ピンク色のカバーがついた、最新機種のiPhone。画面にはヒビが入っている。そして、ケースの裏には可愛らしいデコレーションと共に、『MIKURU』という文字のシールが貼られていた。
私は息を呑んだ。
その名前に見覚えがあったからだ。
「もしかして……娘さんは、アイドルの『星野ミクル』さんですか?」
「……はい」
星野ミクル。
地下アイドルグループ『エンジェル・ティアーズ』のセンター。
一週間前、彼女は自宅マンションから転落死した。ニュースでは自殺と断定されていたが、ネット上では様々な憶測が飛び交い、炎上状態になっていた。
まだ19歳だったはずだ。
「警察から、ようやく遺品が返ってきたんです。でも、ロックが掛かっていて……」
「ご依頼内容は?」
阿部さんが淡々と尋ねる。
星野さんは、膝の上で手をきつく握りしめた。
「娘のSNSの『裏アカウント』を探し出して、削除していただきたいんです」
「裏アカウント、ですか」
「はい。あの子、生前よく言っていたんです。『ファンの前では笑顔でいなきゃいけないけど、本当の私はドロドロしてる』って。ストレス発散のために、鍵付きのアカウントで愚痴を吐き出している、とも……」
星野さんの声が震え始める。
「今、ネットではあの子のこと、あることないこと書かれています。性格が悪かったとか、枕営業をしていただとか……。もし、このスマホの中に、あの子が本当に汚い言葉で誰かを罵っている書き込みがあったら……それが流出したら、あの子は死んでも死にきれません」
「なるほど。故人の名誉を守りたい、と」
「お願いします。ファンに見つかる前に、マスコミに嗅ぎつけられる前に、消してください。あの子を……『星野ミクル』というアイドルの綺麗な思い出のまま、眠らせてあげたいんです」
星野さんが深く頭を下げる。
その背中の小ささに、私は胸が締め付けられるような思いがした。
娘を失った悲しみの中で、それでも娘の「アイドルとしての虚像」を守ろうとする母の愛。それは痛々しいほど純粋で、切実だった。
「分かりました」
私が答えるより先に、阿部さんが短く言った。
彼はスマホを手に取り、割れた画面を指でなぞる。
「だが、消すためには中身を確認する必要がある。本当にそれが『裏アカウント』なのか、それとも重要な遺書なのか、判断しなきゃならないからな」
「い、遺書……?」
「自殺なら、動機に関わるデータが残っている可能性がある。それを消せば、警察の捜査にも影響が出るかもしれないが、それでもいいのか?」
「……構いません。警察はもう、事故か自殺で処理しましたから。それに、あの子が何に悩んでいたとしても、もう帰ってはきません。なら、せめて綺麗なままで……」
星野さんの目から涙がこぼれ落ちた。
私はたまらず、ハンカチを取り出して彼女に渡した。
「大丈夫ですよ、星野さん。私たちが責任を持って、娘さんのプライバシーをお守りします。誰にも見せませんし、悪いようにはしませんから」
私の言葉に、星野さんはすがるような目で頷いた。
「おい、石川」
阿部さんが冷ややかな声で私を呼んだ。
「お前、何様だ?」
「え……?」
「『悪いようにはしない』? 無責任な約束をするな。俺たちはデータを見るまで、それが善か悪かなんて分からない。中身が凶悪犯罪の証拠かもしれないし、誰かを自殺に追い込んだイジメの記録かもしれないんだぞ」
「でもっ、この方はお母様ですよ? 娘さんを信じたい気持ちは当たり前じゃないですか! それに、まだ19歳の女の子ですよ? そんな酷いことが残ってるはずありません」
私はつい、声を荒げてしまった。
阿部さんの、依頼人の感情を無視したような物言いが許せなかった。
それに、私自身、重ねてしまっていたのだ。
亡くなった私の姉と、目の前の母親を。
もし私の母がここに来たら、きっと同じことを言っただろう。「あの子の綺麗な思い出を守って」と。
「……ふん。感情移入もそこまで行くとバグだな」
阿部さんは鼻で笑うと、私を無視して作業に入った。
ケーブルをスマホに繋ぎ、解析ツールを立ち上げる。
「パスワードの心当たりは?」
「あの子の誕生日と、グループの結成日は試しました。ダメでした」
「だろうな。裏の顔を隠す鍵に、表の数字は使わない」
阿部さんはキーボードを叩き始めた。
カチャカチャという乾いた音が、静まり返った地下室に響く。
私は星野さんの背中をさすりながら、阿部さんの背中を睨みつけた。
この人は、人の心が分からない。
データという無機質なものばかり見ていて、そこにある血の通った感情が見えていないんだ。
「……開いたぞ」
わずか10分後。阿部さんの声が響いた。
早すぎる。
相変わらずの手腕だが、今は感心している場合ではない。
「Twitter……いや、Xか。アプリのログイン履歴を見る」
阿部さんがスマホの画面をメインモニターにミラーリングする。
表示されたのは、キラキラとした自撮り写真が並ぶ『星野ミクル』の公式アカウント。フォロワー数は5万人。最後の投稿は亡くなる前日。「明日もライブがんばるぞー!」という元気な言葉が残されている。
「これは表だな。……アカウント切り替え」
阿部さんが操作すると、アカウント一覧にもう一つ、鍵マークのついたアイコンが表示された。
IDは『@dark_mikuru_00』。
名前は設定されていない。アイコンは真っ黒な画像だ。
「これですね……」
星野さんがゴクリと唾を飲み込む。
阿部さんは迷わずそのアイコンをクリックした。
タイムラインが表示される。
そこに並んでいたのは、目を覆いたくなるような言葉の羅列だった。
『死ね』
『うざい』
『消えろ』
『あいつさえいなければ』
『私が一番なのに』
『みんな大っ嫌い』
画面をスクロールしても、スクロールしても、出てくるのは罵詈雑言ばかり。
特定メンバーへの嫉妬、運営への不満、ファンへの嘲笑……。
表のキラキラしたアイドル像とはかけ離れた、ドス黒い感情の掃き溜め。
「あぁ……っ!」
星野さんが悲鳴を上げ、両手で顔を覆った。
「やっぱり……やっぱり、あの子は……こんなに苦しんで、こんなに汚れて……」
「……見事なもんだな」
阿部さんは、まるで汚いものを見るような目ではなく、興味深い標本を見るような目で画面を見つめている。
「所長、もういいでしょう! 消してください!」
私は叫んだ。
これ以上、お母さんに見せるのは残酷すぎる。
ミクルちゃんがどんな思いでこれを書いたのかは分からない。でも、これは明らかに「見られたくない」ものだ。死んでまで晒されるべきじゃない。
「依頼通り、削除しますか?」
阿部さんが、事務的な口調で星野さんに問いかける。
星野さんは涙で濡れた顔を上げ、何度も頷いた。
「お願いします……。これ以上、あの子の名誉を傷つけたくない。こんな言葉、あの子の本心じゃないはずです……」
星野さんの言葉は、自分に言い聞かせるようだった。
本心じゃない。ストレスで書いてしまっただけ。本当のあの子は、もっと優しくて良い子だった。そう信じたいのだ。
「……分かった」
阿部さんがマウスに手を伸ばす。
『アカウント削除』の項目へカーソルが移動する。
これで終わりだ。
データは消え、星野ミクルは永遠に「清純派アイドル」として記憶される。それでいいはずだ。
――でも。
ふと、違和感を覚えた。
モニターの端。
罵詈雑言のツイートの合間に、奇妙な投稿が混じっている。
『今日も雨だね』
『お腹すいた』
『赤い靴が欲しいな』
激しい言葉の波の中に、ポツリポツリと、あまりに日常的で、無意味な呟きがある。
日付を見る。
罵倒ツイートは、深夜の2時や3時に集中している。
一方、この日常ツイートは、朝やお昼の時間帯だ。
まるで、二重人格者が交互に書いているような……。
「待ってください」
阿部さんがクリックしようとした瞬間、私が声を上げた。
「石川? なんだ」
「……変です」
「何がだ」
「このアカウント、本当にミクルちゃん本人が書いていたんでしょうか?」
阿部さんの手が止まる。星野さんも驚いたように私を見た。
「どういうことですか……?」
「文章の癖です。この『死ね』とか『うざい』って言葉、全部ひらがなですよね。でも、ミクルちゃんの公式アカウントや、この間の日常ツイートは、漢字と絵文字を使っています。入力の予測変換が違う気がするんです」
私は前職のホテルで、お客様からのメールや手紙を何千通と読んできた。
文章には「人」が出る。
同じ人間が書いたにしては、あまりにも温度差がありすぎる。
「それに……もしこれがストレス発散の裏垢なら、もっと具体的になるはずです。『○○マネージャーがうざい』とか。でも、ここにあるのは主語のない、ただの暴力的な言葉の羅列だけ。まるで、誰かに『書かされている』みたいな……」
「書かされている……?」
阿部さんが眉をひそめ、眼鏡の位置を直した。
その目が、鋭く光る。
「……おい、石川。お前のその無駄にセンチメンタルな脳みそも、たまには役に立つかもしれん」
阿部さんは削除の手を止め、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
ログ解析画面が開く。
文字列が滝のように流れていく。
「投稿のIPアドレスを洗う。……ビンゴだ」
数秒後、阿部さんがニヤリと笑った。
「どういうことだ、これは」
「何が分かったんですか?」
「この罵倒ツイートの投稿元IP。……ミクルさんのスマホじゃない」
「えっ?」
星野さんと私の声が重なった。
「投稿されているのは、ミクルさんの自宅PCからでもない。……都内の、ある『事務所』のWi-Fiからだ」
「事務所って……」
「芸能事務所か、あるいはもっと別の組織か。とにかく、このアカウントには第三者がログインしている。いや、もっと正確に言えば、この裏垢は『共有アカウント』だった可能性がある」
阿部さんが星野さんに向き直る。
その表情は、先ほどまでの冷徹な事務処理屋のものではなく、獲物を見つけた狩人のそれだった。
「あんたの娘さんは、ただの性格の悪いアイドルじゃなかった。……何かもっと大きな、消さなきゃならない『闇』を抱えていたようだぞ」
星野さんの顔から血の気が引いていく。
私は、自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。
ただの削除依頼だと思っていた。
感情移入して、可哀想な親子を守って終わりだと思っていた。
でも、違った。
阿部さんが言った通りだ。「データを見るまで、善か悪かなんて分からない」。
私たちが開けてしまったのは、パンドラの箱だったのかもしれない。
「……続けますか? それとも、見なかったことにして消しますか?」
阿部さんの問いかけが、重く地下室に響いた。




