第29話 邦彦の過去編「コードネーム・ゼロ」(後編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
所長の阿部邦彦が語る壮絶な過去――警察組織の裏切り、冤罪、そして全てを失った絶望――を聞き終え、地下室には重苦しい沈黙が流れていた。
「……それが、5年前の真実だ」
阿部は静かに言葉を切った。
私は、かける言葉が見つからなかった。
正義を信じていた彼が、その正義によって社会的に抹殺された。その悔しさと孤独は、想像を絶するものだ。
「……湿っぽいな」
阿部はふんと鼻を鳴らし、立ち上がった。
その手には、いつの間にか巨大な「カニ」が握られている。
「えっ? カニ?」
「築地でいいマッドクラブが手に入った。……今日はチリクラブだ」
阿部は唐突に調理を開始した。
重い空気を、スパイスの香りで強制的に換気するつもりらしい。
彼は中華包丁を振り上げ、硬い甲羅を持つカニを豪快に叩き切っていく。
ダンッ! ダンッ!
リズミカルな破壊音が、沈んだ空気を切り裂く。
「チリクラブはシンガポールの名物料理だ。ニンニク、生姜、赤唐辛子、そして豆板醤。これらを油で炒め、香りを引き出す」
中華鍋から、強烈な刺激臭が立ち上る。
目が痛くなるほどの辛味成分が、空気中に拡散する。
「そこにカニを投入し、強火で炒める。殻から出る出汁が重要だ。……味付けはトマトケチャップ、スイートチリソース、酢、砂糖。甘辛く、酸っぱく、濃厚に仕上げる」
阿部は鍋を振りながら、溶き卵を回し入れた。
真っ赤な激辛ソースが、卵によってふんわりと綴じられ、オレンジ色の美しいグラデーションを描く。
さらに、たっぷりのパクチーを散らす。
「完成だ。……合わせる酒はこれだ」
阿部が取り出したのは、ブラジルの蒸留酒「カシャッサ」と、大量のライムだった。
グラスに乱切りにしたライムと砂糖を入れ、すりこぎで力強く押し潰す。
フレッシュな柑橘の香りが弾ける。
そこにクラッシュアイスを詰め込み、カシャッサを並々と注ぐ。
「カイピリーニャだ。『田舎者』という意味のカクテルだが、その度数は40度を超える。……チリクラブの強烈な辛さと旨味には、この砂糖とライムのパンチが効いた酒が必要だ」
阿部はテーブルに大皿を置いた。
山盛りのカニと、海のようなソース。
その横には、蒸したての「マントウ」も添えられている。
「……食え。手づかみでな」
私たちは言われるがまま、カニに手を伸ばした。
殻にかぶりつき、身を吸い出す。
辛い! でも、甘い!
カニの濃厚な旨味と、ソースの甘辛さが口の中で暴れ回る。
そして、カイピリーニャを流し込む。
ジャリッとした砂糖の甘みと、ライムの酸味、そしてガツンとくるアルコール。
「……くぅーっ! 効く!」
葬儀屋のアキさんが叫ぶ。
辛さとアルコールで、みんなの顔が紅潮していく。
湿っぽかった空気は、いつの間にか熱気へと変わっていた。
その時。
ドンドンドンドン!!
天井から足音がして、大家の後藤かほりさんが降りてきた。
「ちょっと! 何の匂い!? また異臭騒ぎ!?」
「チリクラブだ。食うか?」
「……食べるわよ」
かほりさんは当然のように席に着き、阿部が差し出したカイピリーニャを受け取った。
一口飲み、カニの爪を割る。
「……で? 昔話は終わったの?」
かほりさんが、カニを食べながら何気なく言った。
私はハッとして阿部を見た。
阿部はソースで汚れた指を舐め、小さく頷いた。
「ああ。……俺がここで『デジタル遺品整理屋』を始めた経緯もな」
「そう。……あの日のあんた、本当に酷い顔してたものね」
かほりさんは遠い目をした。
5年前。阿部が全てを失った日のことだ。
5年前の神保町は、記録的な豪雨に見舞われていた。
警察を追われ、住む場所も失い、所持金も尽きた阿部は、路地裏の軒先で雨宿りをしていた。
いや、それは雨宿りというより、ただの行き倒れだった。
濡れたスーツ。泥だらけの靴。
そして何より、その目は死んでいた。
正義を信じて裏切られ、生きる目的を見失った男の目。
「……邪魔よ」
頭上から声がした。
顔を上げると、傘を差した女性――後藤かほりが立っていた。
彼女は古書店のシャッターを下ろそうとしていたのだ。
「そこ、私の店の前なんだけど。営業妨害よ」
「……すまん。すぐ行く」
阿部はよろりと立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、その場に崩れ落ちた。
数日何も食べていなかった。
意識が遠のく中、彼は思った。
このまま死ぬのも悪くない、と。
「……はあ。面倒くさいわね」
かほりは深いため息をつくと、阿部の胸ぐらを掴んだ。
華奢な体からは想像できない力で、彼を引きずり起こす。
「死ぬならよそでやって。……うちの敷地内で死なれたら、事故物件になるじゃない」
彼女は阿部を店の中に放り込み、タオルを投げつけた。
そして、奥から湯気の立つマグカップを持ってきた。
中身は、インスタントのコンポタージュだった。
「飲みなさい。……それと、これ」
彼女は本棚から一冊の本を抜き出し、テーブルに置いた。
アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』。
無実の罪で投獄された男が、脱獄して巨万の富を得て、自分を陥れた者たちに復讐する物語だ。
「……なんだこれは」
「あんたの顔、エドモン・ダンテスにそっくりよ。復讐の炎だけで生きてる亡者の顔」
「……」
「読む気力があるなら読みなさい。……読み終わるまでは、ここに置いてあげるわ」
阿部は震える手でスープを飲み、本を開いた。
温かい液体が胃に落ちると同時に、物語の言葉が乾いた心に染み込んでいく。
絶望からの這い上がり。知恵と忍耐による復讐。
それは、今の彼が最も必要としている「道標」だった。
数日後。
阿部は本を読み終えた。
そして、かほりに頭を下げた。
「……礼を言う。生きる気力が湧いた」
「そう。で、どうするの?」
「仕事を探す。……俺には、パソコンのスキルしかない」
「へえ。……じゃあ、あそこ使いなさいよ」
かほりは床を指差した。
「このビルの地下。元倉庫だけど、今は空いてるわ。……換気は悪いし、湿気は多いけど、サーバーを置くくらいならできるでしょ」
「……いいのか?」
「家賃は出世払いでいいわ。……その代わり」
かほりは阿部の目を真っ直ぐに見た。
「物語を書き直しなさい。……『悲劇の被害者』で終わるんじゃなくて、自分でケリをつける『解決者』になりなさいよ」
その言葉が、阿部の背中を押した。
彼は地下室を借り受け、機材をかき集め、看板のない事務所を開いた。
『デジタル・アーカイブス社』。
死者のデータを整理する仕事。
それは、死者の無念を晴らし、遺された者の人生を前に進める仕事だ。
そしていつか、自分自身を陥れた巨大な悪――「ファントム」の正体を暴くための、反撃の拠点でもあった。
「……だから、頭が上がらないのよ。この人には」
阿部はマントウをソースに浸しながら、苦笑いした。
かほりさんは「ふん」と鼻を鳴らし、グラスを傾けた。
「拾った猫が、随分大きくなっただけよ。……生意気な野良猫にね」
「誰が猫だ」
「にゃー」
阿部の足元で、本物の猫が鳴いた。
エミリーが「So cute!」と叫んで抱き上げる。
和やかな食卓。
けれど、私は知ってしまった。
阿部さんが背負っているものの重さを。
そして、これから私たちが向かう場所の危険さを。
「……石川」
阿部が私を見た。
その目は、酔いのせいではなく、真剣な光を帯びていた。
「俺は、ファントムを追っている。……奴らは国家の影だ。関われば、ただじゃ済まない」
「……はい」
「そして……お前の姉、石川由紀子さんもだ」
空気が凍りついた。
箸が止まる。
「え……?」
「先日、お前の姉のスマホを解析した時、深層領域に『黒い鳥』のアイコンを見つけた。……あれは、ファントム計画の開発コードのシンボルだ」
「……どういう、ことですか?」
「お前の姉さんは、ただの一般人じゃなかった。……おそらく、フリーのジャーナリストとして、ファントムの末端組織を調査していたんだ」
阿部の言葉が、頭の中で反響する。
姉さんが? ジャーナリスト?
私は何も知らなかった。姉はただのOLだと言っていた。
でも、思い返せば不自然なことはあった。
深夜の外出。複数のスマホ。鍵のかかった引き出し。
「姉さんは……ファントムに近づきすぎて、消された可能性がある」
消された。
つまり、殺された。
事故じゃなかった。
「……そんな」
目の前が真っ暗になる。
支えてくれたアキさんの手が温かい。
みずほが心配そうにこちらを見ている。
「……覚悟はいいか、石川。ここから先は、引き返せないぞ」
阿部が問う。
私は震える手で、自分のポケットに入っている姉のスマホを握りしめた。
姉さんが遺したかった真実。
それを知るのが怖い。でも、知らなきゃいけない。
「……行きます。所長となら」
私が答えた、その時だった。
ブブブブッ……!
ポケットの中で、姉のスマホが激しく震えた。
え? 電源は切っていたはずなのに。
私は慌ててスマホを取り出した。
ザザッ……ザザッ……!
画面に激しいノイズが走っている。
故障? ハッキング?
いや、違う。
画面の中央に、ポップアップウィンドウが表示された。
送信者は――『Yukiko』。
死んだはずの、姉のアカウントからだ。
『……逃げて』
たった一言。
血のような赤い文字で、メッセージが表示された。
「……えっ?」
次の瞬間。
事務所の照明が一斉に落ちた。
真っ暗闇。
非常用電源の赤いランプだけが、不気味に点滅を始めた。
「……来たか」
阿部が低く呟き、立ち上がった。
カニを食べる手は止まり、戦士の顔に戻っていた。
「全員、戦闘配置につけ! ……ファントムのお出ましだ!」
地下室に、警報音が鳴り響く。
姉のスマホに残された最後の警告。
それは、終わりの始まりを告げる合図だった。




