第27話 政治家の裏帳簿(後編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
緊迫した空気は、暴力的な回転音によって切り裂かれた。
ギュイイイイイイイーン!!
所長の阿部邦彦が、電動ドリルを振り下ろす。
その切っ先が、テーブルに固定された最新型のタブレット端末――故・権田原代議士の「裏帳簿」が入ったiPad――を貫通した。
バキリ、という硬質な破壊音。
ガラス片が飛び散り、内部の基板が砕け散る。
「……ああっ!」
依頼人のサユリさんが、悲鳴とも安堵ともつかない声を漏らす。
ドアの前に陣取っていた黒スーツの男たち――権田原の秘書たちが、呆気にとられてその光景を見ていた。
「き、貴様! 何をしている!」
「見れば分かるだろ。物理フォーマットだ」
阿部は無表情でドリルを引き抜き、無残な穴が開いたタブレットを放り出した。
さらに、追い打ちをかけるようにハンマーを振り下ろす。
ガンッ! ガンッ!
精密機器は、見るも無残なガラクタの塊へと変わった。
「これでストレージチップは粉々だ。FBIでも復元できん」
「ふ、ふざけるな! 先生の遺品を……!」
男たちが色めき立ち、部屋に踏み込もうとする。
そこに、弁護士の藤田涼子が涼しい顔で割り込んだ。
彼女は一枚の書類を、リーダー格の男に突きつけた。
「はい、これ。『データ消去証明書』および『端末破壊同意書』よ。依頼人であるサユリさんの署名・捺印済み」
「な、なんだこれは……」
「貴方たちが欲しかったのは『データが外に出ないこと』でしょう? 目的は達成されたわ。物理的に消滅したんだから」
涼子は不敵に微笑む。
「これ以上、ここに居座るなら、業務妨害と建造物侵入で警察を呼ぶわよ。……それとも、壊れたガラクタを持って帰る?」
男たちは、破壊されたタブレットと、涼子の背後に控える阿部とアキを睨み回した。
証拠は消えた。これ以上、騒ぎを大きくするメリットはない。
「……チッ。覚えておけよ」
リーダーの男は、破壊された端末の残骸を回収すると、捨て台詞を吐いて撤退していった。
重たい足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
「……行ったか」
阿部が警棒を置いた。
その瞬間、サユリさんが腰を抜かして座り込んだ。
「はぁ……はぁ……怖かった……」
「お疲れ様。名演技だったわよ」
アキさんがサユリさんの背中をさする。
緊張が解けたその時、部屋の奥――サーバー室の分厚い防音ドアがプシュウと開いた。
「ぷはーっ! 終わった!? やっと出られる!」
飛び出してきたのは、小川みずほとエミリー・ローレンスだった。
二人は籠城戦の間、奥の部屋に隔離され、極秘作業を行っていたのだ。
「Nice timing!(いいタイミング!) こっちも準備完了よ!」
「バックアップと分散保存、完璧だよ。……あー、グリーンカレーの匂いヤバイ。お腹空いた」
みずほが鼻をひくつかせる。
阿部がニヤリと笑った。
「よくやった。……そして、反撃開始だ」
その言葉に呼応するように、入り口のドアが開き、トレンチコート姿の中島鞠が入ってきた。
彼女は外で状況を監視していたのだ。
「お疲れ。奴らの車、去っていったわよ」
「中島、頼む」
「ええ。いつでもいけるわ」
鞠はソファに座り、膝上のノートPCを開いた。
画面には、破壊される前に阿部たちが奥のサーバーへ転送しておいた「裏帳簿データ」が表示されている。
「海外のプロキシを経由して、匿名で一斉送信するわ。宛先は……東京地検特捜部、警視庁捜査二課、そして主要な新聞社とテレビ局の社会部デスク」
「Enter.(送信)」
鞠がキーを叩いた。
送信完了のバーが瞬時に100%になる。
「次は私の番だね」
みずほが自分のデスクに滑り込み、ヘッドホンを首にかけた。
「SNS拡散用ボット、起動。ハッシュタグは『#権田原ファイル』『#政治資金の闇』。……あと、インフルエンサーのアカウントにもDMでタレ込み完了」
「よし。……火をつけろ」
みずほが操作すると、モニターの中のタイムラインが凄まじい勢いで流れ始めた。
『速報! 権田原代議士の裏帳簿流出!?』
『現職大臣の名前も!』
『これマジなら内閣吹っ飛ぶぞ』
ドンドンドンドン!!
天井から足音が響き、大家の後藤かほりが降りてきた。
「ちょっと! 何の騒ぎ!? またやったの!?」
「大家、テレビをつけてくれ」
かほりがテレビをつけると、ちょうどニュース速報のチャイムが鳴り響いた。
『――番組の途中ですが、ニュースをお伝えします。先ほど、急死した権田原元代議士に関する内部告発文書が、複数のメディアに送付されました……』
画面には、国会議事堂の前で慌ただしく走る記者たちの姿。
政界は大混乱だ。
もはや、秘書たちがサユリさん一人を追いかけ回している場合ではない。彼らは自分たちの保身と、火消しに奔走することになるだろう。
「……やったわね」
涼子が満足げに頷く。
「これで、データの『秘密』としての価値はゼロになった。誰も貴女を狙わないわ。……貴女はただ、端末を奪われた被害者よ」
「……」
サユリさんは、ニュース映像を呆然と見つめていた。
助かった。命は守られた。
けれど、彼女の表情は晴れなかった。
「……終わったのね」
彼女は力なく呟いた。
「私の手元には、何も残らなかった。遺産も、マンションも、あの人の思い出も……全部、あのガラクタと一緒に消えちゃった」
彼女は、何もない自分の手のひらを見つめ、涙をこぼした。
愛人の末路。
それはあまりに虚しく、寂しいものだった。
「……腹減ったな」
その空気を読まない声を出したのは、阿部だった。
彼はキッチンへと向かい、オーブンの予熱を開始した。
「おい石川。パイ生地だ。冷蔵庫から出せ」
「は、はい! ……また作るんですか?」
「戦闘の後には糖分が必要だ。それに、奥で働いてた連中はカレーを食ってないからな」
阿部が取り出したのは、何層にも折り重ねられた冷凍パイシート……ではなく、昨日から仕込んであった自家製のパイ生地だった。
バターを小麦粉で包み込み、何度も折り畳んで層を作った、阿部特製のパート・フィユテだ。
「これを型に敷き詰める。……そして、フィリングだ」
ボウルには、卵黄、生クリーム、牛乳、砂糖、そしてバニラビーンズが混ぜ合わされている。
黄金色のとろりとした液体。
阿部はそれを裏ごしし、パイ生地の中に流し込んだ。
「……何作るの?」
エミリーが興味深そうに覗き込む。
「エッグタルトだ。それも、マカオ式の『パステル・デ・ナタ』だ」
「Wow! ポルトガル風ね! 表面を焦がすやつ!」
「そうだ。高温のオーブンで一気に焼き上げ、カスタードの表面にキャラメリゼした焦げ目を作る。……これが美味いんだ」
阿部はオーブンにトレイを入れた。
数分後。
甘く、香ばしいバターの香りが地下室に充満し始めた。さっきまでの殺伐とした空気が、お菓子屋さんのような幸福な香りに上書きされていく。
焼き上がったエッグタルトは、サクサクのパイ生地の中に、プルプルのカスタードが詰まっている。表面には美味しそうな黒い焦げ目がつき、熱で揺れている。
「……完成だ。飲み物はこれだ」
阿部が出したのは、意外なボトルだった。
蛍光色のブルーやイエローの液体が入ったスポーツドリンク。
『ゲータレード』だ。
「……は? ゲータレード?」
涼子が顔をしかめる。
「なんで焼き菓子にスポーツドリンクなのよ。紅茶にしなさいよ」
「この地下室は今、サウナ並みに熱気が籠もっている。そして俺たちは、極度の緊張で冷や汗をかき、電解質を失っている」
阿部は真顔で力説した。
「脱水状態の体に、熱い紅茶は入っていかない。必要なのは水分とミネラル、そして即効性の糖分だ。……濃厚なカスタードと、人工的な柑橘フレーバーの対比。これが脳をバグらせ、快感を生む」
「……相変わらず、理屈っぽい変態ね」
かほりも呆れつつ、青いゲータレードを受け取った。
全員に行き渡る。
サユリさんの前にも、焼きたてのエッグタルトと、黄色いゲータレードが置かれた。
「……食え。熱いうちに」
阿部に促され、サユリさんはタルトを手に取った。
サクッ。
一口かじると、パイ生地が軽快な音を立てて崩れ、中から熱々のカスタードがトロリと溢れ出した。
「……っ! 熱……!」
「火傷するなよ」
濃厚な卵の風味と、焦げた砂糖のほろ苦さ。バターの塩気。
それらが口の中で混ざり合う。
甘い。とろけるように甘い。
そして、ゲータレードを流し込む。
キリッとした酸味と、独特の風味が、濃厚な甘さを洗い流していく。
「……おいしい」
サユリさんが呟いた。
甘いものを食べて、少しだけ生気が戻ったようだ。
「……金は残らなかったな」
阿部は自分のタルトを食べながら、淡々と言った。
「だが、一つだけ残ったものがある」
「え……?」
「データを破壊する直前、一つだけ『隔離』しておいたファイルがある。……帳簿とは関係ない、プライベートなフォルダにあったやつだ」
阿部はポケットから、小さなUSBメモリを取り出し、テーブルに滑らせた。
「中身は確認した。……これだけは、全世界に公開するわけにはいかんからな」
「……何が入ってるの?」
「自分で見ろ」
阿部は私のPCをサユリさんの方へ向けた。
USBを差し込む。
中には、動画ファイルが一つだけ入っていた。
サムネイルには、パジャマ姿でリラックスした様子の権田原代議士が写っている。
再生ボタンを押す。
『……おいサユリ、撮ってるのか? よせよ、恥ずかしい』
画面の中の権田原は、テレビで見せる強面ではなく、好々爺のような柔和な顔をしていた。
酔っ払っているのか、顔が赤い。
『……なぁ、サユリ』
権田原がカメラに向かって語りかける。
『俺はな、お前といる時だけが、息ができるんだ。……政治家でも、先生でもない。ただの男になれる』
『もしも生まれ変わったら……今度は、普通の男としてお前と出会いたかったなぁ。小さなアパートで、お前の手料理を食って、喧嘩して……そういう人生も、悪くなかったかもしれん』
権田原は、照れくさそうに笑った。
『……愛してるよ、サユリ。……苦労かけてすまないな』
動画はそこで終わっていた。
短い、何気ない日常の一コマ。
でもそこには、嘘のない、一人の男の愛があった。
「……う、うぅ……」
サユリさんが、声を上げて泣き出した。
今まで張り詰めていたものが決壊したような、激しい慟哭。
「あなた……バカよ……。こんなの遺されたって……一銭にもならないじゃない……!」
口では悪態をつきながら、彼女は画面の中の男を愛おしそうに撫でた。
金も、権力も、何も残らなかった。
けれど、最後に残ったのは、彼女が一番欲しかった「愛されていた証」だった。
「……十分じゃないか」
阿部が最後のタルトを口に放り込んだ。
「金は使えばなくなる。だが、そのデータは消さない限り、永遠に残る。……あんただけの宝だ」
サユリさんは泣きながら、それでも最後には笑った。
化粧は崩れ、目は腫れていたけれど、その顔は憑き物が落ちたように綺麗だった。
サユリさんが帰った後。
事務所には、パイの焼ける甘い香りと、祭りの後のような静けさが漂っていた。
「……阿部ちゃん、やるじゃん」
アキさんがニヤニヤしながら阿部を突っつく。
「あの動画、わざと探したんでしょ? 『金だけじゃない』って教えてやるために」
「偶然だ。たまたまゴミ箱の横に落ちてただけだ」
阿部は素っ気なく答えるが、耳が少し赤い。
この所長は、どこまでもツンデレなのだ。
「さて、私たちも撤収ね。……請求書、たっぷりつけとくわよ」
涼子が立ち上がり、ヒールを鳴らして出口へ向かう。
鞠も、かほりも、それぞれ伸びをして片付けを始める。
エミリーとみずほは、まだタルトを頬張っている。
チーム全員で守り抜いた、一人の女性の人生。
そして、暴かれた巨悪。
私は、テーブルに残されたゲータレードの鮮やかな青色を見つめた。
人工的で、チープな色。
でも今日の私には、それがどんな高級ワインよりも美しく見えた。
汗をかいて、知恵を絞って、戦った後の味。
「……ごちそうさまでした、所長」
「おう。……皿、洗っとけよ」
阿部はいつもの不機嫌な顔に戻り、サーバーのメンテナンス画面に向き直った。
その背中は、ほんの少しだけ誇らしげに見えた。




