第26話 政治家の裏帳簿(中編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』の重厚なスチールドアが、暴力的な音を立てて振動した。
ドォン!! ドォン!!
「開けろ! 警察だ!」
嘘だ。
警察がこんな乱暴なノックをするはずがないし、モニターに映っているのは、耳にインカムを付けた黒スーツの大男たちだ。
亡き大物代議士・権田原の「裏の秘書」たち。
目的は、依頼人サユリさんが持ち込んだタブレット端末――そこに入っている、政界を揺るがす「裏帳簿」データの回収と隠滅だ。
「ひぃっ……!」
サユリさんが悲鳴を上げ、ソファの隅で縮こまる。
所長の阿部邦彦は、護身用の警棒を手に、ドアの前で身構えていた。
弁護士の藤田涼子は、冷静にスマホでどこかへ連絡を取ろうとしているが、電波状況が悪いのか舌打ちをしている。
「……どうする、所長。ここの鍵、そう長くは保たないですよ」
私が震える声で尋ねると、阿部はギリリと奥歯を噛み締めた。
「時間を稼ぐ。データのバックアップと、クラウドへの避難が完了するまで、奴らを入れるな」
「でも、どうやって!?」
その時。
ガンッ!! という破砕音と共に、ドアノブが吹き飛んだ。
鍵が破壊されたのだ。
ゆっくりと、ドアが開く。
冷たい廊下の空気と共に、殺気立った男たちが雪崩れ込んできた。
「……見つけたぞ」
リーダー格と思われる、鼻に横一文字の傷がある男が、低い声で言った。
その視線は、サユリさんが抱きかかえているバッグに釘付けだ。
「サユリさんですね。先生の『遺品』を返していただきましょうか」
「い、嫌よ……! これは私が……!」
「問答無用だ。確保!」
男たちが一斉に踏み込もうとした瞬間。
「あーっ!! ストップストップ!! 入るな!!」
素っ頓狂な大声が響き渡った。
葬儀屋の岡田アキだ。
彼女は喪服姿のまま、両手を広げて男たちの前に立ちはだかった。
「なんだ貴様は。邪魔をするな」
「葬儀屋だよ! 見りゃ分かんだろ!」
アキは男の胸をドンと突き飛ばした。元ヤンの度胸は伊達じゃない。
「あんたたち、常識ねえのか!? 今、この部屋で何やってると思ってんだ!」
「……何?」
「『お清め』だよ! デジタル・エンバーミングの最中だ!」
アキは大袈裟に両手を振り回した。
「このタブレットにはな、権田原先生の『怨念』がこびりついてんだよ! 死ぬ間際の執着心が強すぎて、データが呪われてるんだ! 今、無理やり持ち出してみろ、あんたたち全員、三日以内に祟られて死ぬぞ!?」
「は……? 何をバカな……」
「バカじゃねえ! 私はプロの葬儀屋だ、死人の気配には敏感なんだよ! 見ろ、この部屋の空気を! 淀んでるだろ!?」
アキの迫真の演技と、予想外のオカルト展開に、男たちが毒気を抜かれたように立ち止まる。
その隙を逃さず、アキは阿部に目配せをした。
『合わせろ!』という合図だ。
「……そうだ。今、除霊プログラムを実行中だ」
阿部も即座に乗った。彼は警棒を隠し、もっともらしい顔でモニターを指差した。
「データ領域に蓄積された『穢れ』を浄化するには、あと30分かかる。途中で電源を切れば、怨念が逆流して端末が爆発するかもしれん」
「ば、爆発だと……?」
「物理的な爆発じゃない。霊的な爆発だ。……あんたら、権田原先生に呪い殺されたいか?」
阿部の低い声には、妙な説得力があった。
男たちは顔を見合わせ、動揺している。裏社会の人間ほど、こういう迷信や祟りを恐れるものだ。
「……30分だ」
リーダーの男が、腕時計を見て言った。
「30分だけ待ってやる。その代わり、逃げようとしたり妙な真似をしたら、即座に踏み込む。……ドアの前で見張らせてもらうぞ」
男たちは舌打ちしながら、廊下へと下がっていった。
壊れたドアの隙間から、鋭い監視の目が光っている。
完全に包囲された状態だが、とりあえずの時間は稼げた。
「……ふぅー。危なかったぁ」
アキがその場にへたり込む。
サユリさんはガタガタと震えが止まらない。
「どうするのよ……。30分なんてすぐよ……。殺される……」
「泣くな。腹が減るぞ」
阿部は突然、キッチンへと歩き出した。
そして、石臼を取り出し、何かを入れ始めた。
「……阿部? 何やってるの?」
涼子が呆れたように尋ねる。
「儀式の準備だ」
「は?」
「『お清め』だと言ったろ。……それに、これから大仕事をするには、エネルギーが必要だ」
ゴリッ、ゴリッ、ゴリッ。
阿部は石臼で、生の青唐辛子をすり潰し始めた。
さらに、ニンニク、エシャロット、レモングラス、ガランガル、パクチーの根、こぶみかんの皮。
強烈な香りが立ち上る。
爽やかで、青臭くて、そして涙が出るほど刺激的なスパイスの香り。
「ちょ、阿部ちゃん! すごい匂い! 目が痛い!」
「これが魔除けの煙だ。奴らも容易には近づけまい」
阿部は自家製のグリーンカレーペーストを作っていたのだ。
鍋にココナッツミルクの固形分を入れ、火にかける。油が浮いてきたところで、ペーストを投入して炒める。
ジュワァァッ!!
爆発的な香りが地下室を埋め尽くす。
ドアの外で、男たちが「ゲホッ、なんだこの臭いは!?」と咳き込む声が聞こえる。
化学兵器並みの刺激臭だ。
「鶏肉と茄子、タケノコを投入。ナンプラーとパームシュガーで味を調える」
ココナッツミルクの残りを加え、煮込むこと数分。
鮮やかな緑色のスープに、赤い唐辛子の油が浮いた、極上のグリーンカレーが完成した。
「……できたぞ。食うぞ」
「えっ、今!?」
私が驚くと、阿部は真顔で頷いた。
「パニック状態で正常な判断はできない。カプサイシンで脳を覚醒させろ。……特にあんただ、サユリさん」
「わ、私……? 喉を通らないわよ……」
「食わなきゃ死ぬぞ。物理的にも、社会的にもな」
阿部は強引にサユリさんをテーブルに座らせ、カレーをよそった。
そして、冷蔵庫から何かを取り出した。
白い、巨大な果実のようなもの。
「……ココナッツ?」
「『エス・クラパ・ムダ』だ。インドネシアの若いココナッツジュースだ」
阿部は鉈のような包丁でココナッツの上部を叩き割り、中の透明なジュースをグラスに注いだ。
さらに、内側の白い果肉をスプーンで削ぎ取り、グラスに加える。氷と、少しのガムシロップを入れて混ぜる。
「激辛のグリーンカレーには、この甘いココナッツジュースが必須だ。口の中の火事を消火し、ココナッツの同調効果で旨味を増幅させる」
私たちは、監視の目を気にしつつ、テーブルを囲んだ。
一口食べる。
「……かっら!!」
アキが叫ぶ。
突き抜けるような辛さ。青唐辛子の鋭い刺激が舌を刺す。
けれど、その直後にココナッツミルクの濃厚な甘みと、ハーブの爽やかな香りが広がる。
辛い。でも美味い。スプーンが止まらない。
「水! 水ぅ!」
「これを飲め」
差し出されたエス・クラパ・ムダを飲む。
冷たくて、優しい甘さ。
ココナッツウォーターのミネラル感が、ヒリヒリする舌を瞬時に癒やしてくれる。果肉のツルッとした食感も心地よい。
「……生き返る」
サユリさんも、涙目でカレーを食べ、ジュースを飲んでいる。
極限状態での食事。
スパイスの刺激が、恐怖で麻痺していた思考回路を無理やり叩き起こしていく。
「……さて。腹も満たされたことだ。作戦会議と行くか」
阿部はスプーンを置き、鋭い眼光でサユリさんを見た。
「現状を確認する。外には掃除屋。手元には政界の爆弾。……あんたが助かる道は一つしかない」
「……何?」
「このデータを、手放すことだ」
「えっ!? 渡すってこと? あいつらに?」
「違う。……『世間』にだ」
阿部はモニターを指差した。
「この裏帳簿の価値は、『秘密であること』にある。秘密だからこそ、脅しの材料になり、金になる。だが同時に、秘密だからこそ、あんたは消されるんだ」
「……」
「なら、秘密じゃなくしてしまえばいい。全世界に公開し、誰でも見られる状態にする。そうすれば、データの価値はゼロになる。……価値のないデータのために、あんたを殺すリスクを冒す奴はいなくなる」
毒を食らわば皿まで。
阿部の提案は、あまりに過激だった。
「で、でも……そんなことしたら、私、逮捕されるんじゃ……? 不正なデータを持ち出したとか、守秘義務違反とか……」
「そこで、私の出番ね」
涼子が優雅にココナッツジュースを飲み干し、不敵に微笑んだ。
「安心して。貴女には傷一つつけさせないわ」
「どうやって?」
「シナリオを作るのよ。……貴女は、脅されてタブレットを差し出す。ここまでは事実。でも、その直後に『何者か』によって、クラウド上のバックアップデータが盗み出され、流出した……という筋書きにするの」
涼子は流暢に語り始めた。
「貴女は被害者。大事な遺品を暴力的に奪われた可哀想な女性。データの流出には関与していない。……管理していたのはこの『デジタル・アーカイブス社』だけど、私たちもまた、正体不明のハッカーに攻撃された被害者というわけ」
「……なるほど。泥を被るのは『顔の見えないハッカー』か」
アキが感心したように唸る。
「依頼人の要望通り、端末は奴らに渡す。……ただし、完全に破壊された状態でね」
阿部は立ち上がり、工具箱から電動ドリルを取り出した。
その目は、グリーンカレーの青唐辛子よりも危険な光を放っていた。
「30分経ったぞ! 開けろ!」
ドアの外から、男たちの怒鳴り声が聞こえた。
タイムリミットだ。
「……行くぞ」
阿部はサユリさんに頷きかけ、ドリルを構えた。
サユリさんは深呼吸をし、震える足で立ち上がった。
その顔には、もう迷いはなかった。
美味しいものを食べて、覚悟が決まった女の顔だ。
「……お願い。私の人生、リセットさせて」
阿部はニヤリと笑い、ドアに向かって歩き出した。
スパイスの香りが残る地下室で、最後の大芝居が幕を開ける。




