第2話 父の隠しフォルダ(後編)
神保町の地下にある『デジタル・アーカイブス社』。
サーバーの低い駆動音だけが響く薄暗い室内で、依頼人の長谷川里美さんは、父の遺したノートパソコンと対峙していた。
「……消しません。これは……消せません。私の、宝物です」
里美さんのその言葉で、張り詰めていた空気がふっと緩んだ気がした。
彼女は涙を拭うと、震える指先でマウスを握り直す。
画面に並ぶのは、『Z』という名の隠しフォルダに格納されていた、無数のPDFファイルたち。
『さとみんへ_3歳』、『さとみんへ_小学校入学』、『さとみんへ_反抗期』……。
それは、厳格で無口だったはずの父・達夫さんが、二十数年にわたって密かに書き溜めていた、娘への愛の記録だった。
「中身、確認してもいいですか?」
里美さんが濡れた瞳で私を見る。
私は頷きかけようとしたが、その前にキッチンからステンレスのボウルを叩くような音が響いた。
「好きにしろ。ここは時間制じゃない」
所長の阿部邦彦だ。
彼は興味なさそうに背を向け、IHコンロの前に立っている。先ほどまでパソコンを解析していた鬼気迫るハッカーの姿はどこへやら、今は手際よく玉ねぎを刻む料理人の背中だった。
そのぶっきらぼうな優しさに、私は少しだけ口元を緩め、里美さんに向き直った。
「どうぞ、里美さん。お父様との再会です」
里美さんは小さく頷き、一番古い日付のファイル――『さとみんへ_3歳』をダブルクリックした。
画面に表示されたのは、スキャナで取り込まれたであろう、クレヨン画の画像だった。
画用紙いっぱいに描かれた、歪な丸と棒人間。その横に、達筆な文字で、父のコメントが添えられている。
『平成十年五月五日。里美が初めて私の顔を描いてくれた。妻は「パパにしては髪の毛が多すぎる」と笑っていたが、里美は「パパはライオンさんみたいにかっこいいの」と言ってくれた。嬉しくて、仕事中にこっそり画用紙をスキャンして保存した。原本は妻に捨てられてしまうかもしれないが、データなら色褪せない。里美、大きくなったら、パパとお嫁さんごっこをしてくれるだろうか』
「……嘘。お父さん、こんなこと書いてたの……?」
里美さんが声を詰まらせる。
記憶の中の父親は、いつも新聞を広げて眉間に皺を寄せていたはずだ。けれど、画面の中にいるのは、娘の一挙手一投足に目尻を下げ、一喜一憂する、ただの不器用な父親だった。
里美さんは次々とファイルを開いていく。
『小学校入学』のファイルには、ランドセルを背負った里美さんの写真と共に、こんな文章が綴られていた。
『ランドセルが歩いているようだ。重くないだろうか。転んで怪我をしないだろうか。校門の前で手を離すのが、こんなに怖いとは思わなかった。これからの六年間、里美の世界はどんどん広がっていく。その世界が、どうか優しいものでありますように』
『反抗期』のファイルは、日付が飛び飛びになっていた。
『平成二十五年。今日、「お父さんの洗濯物と一緒に洗わないで」と言われた。ショックで部下の報告書を聞き流してしまった。帰りにコンビニで、里美の好きなプリンを買ったが、渡す勇気がなくて自分で食べた。しょっぱかった』
「あはは……何よこれ……」
里美さんが泣き笑いのような声を上げる。
画面をスクロールする手つきは、もう恐る恐るではない。まるで、久しぶりに再会した父と会話を楽しむかのように、慈しむような手つきになっていた。
私はそっと席を外し、阿部さんのいるキッチンへ向かった。
スパイシーな香りが強くなっている。
阿部さんは鍋を揺すりながら、チラリと私を見た。
「……泣き止んだか?」
「いえ、まだ泣いてますけど、悲しい涙じゃありません。あったかい涙です」
「ふん。水分補給が必要だな」
阿部さんは小皿に何かを盛り付けると、無造作に私に突き出した。
「持ってけ。サービスだ」
それは、綺麗に焼き色のついたスコーンと、スパイスの香りが濃厚なチャイだった。
この人は、本当に何屋なんだろう。
私はトレイを受け取り、里美さんの元へ戻った。
「少し休憩しませんか? 所長が用意してくれました」
「え……? あ、ありがとうございます」
里美さんは驚いたように目を丸くし、それからチャイを一口飲んだ。
ジンジャーとシナモンの香りが、冷えた体に染み渡る。
「おいしい……。すごく、落ち着きます」
「お口に合ってよかったです。……それで、ファイルは全部読めましたか?」
「はい。あと、最後のひとつだけ」
里美さんの視線が、デスクトップにある最後のファイルに向けられる。
『さとみんへ_結婚おめでとう』。
更新日は、お父様が亡くなる前日。
「……父は、私が結婚することを、どう思っていたんでしょうか。相手は、普通の会社員で、頼りないって思われてたかもしれなくて……」
不安そうに呟きながら、彼女は最後のファイルを開いた。
そこには、これまでよりも少し震えた文字で、短い手紙が綴られていた。
『里美へ。結婚おめでとう。昨晩、彼を紹介された時、本当は殴ってやりたかった。「娘はやらん」と叫びたかった。だが、里美が彼を見る目が、あまりにも優しかったから。お母さんが私を見る時と同じ目だったから、何も言えなくなってしまった。
悔しいが、いい男だった。
私の負けだ。
里美。私は口下手で、厳しいことばかり言ってきたかもしれない。だが、お前が生まれてから今日まで、私は世界で一番幸せな父親だった。ありがとう。どうか、私よりも幸せになりなさい。
追伸:もし彼が里美を泣かせたら、化けて出てやるつもりだ』
「……お父さんっ……」
里美さんは両手で顔を覆い、子供のように泣き崩れた。
張り詰めていた「良い娘」の仮面が剥がれ落ち、ただ父親を慕う一人の女性の素顔がそこにあった。
画面の中の言葉は、ただのデジタルデータだ。0と1の信号の羅列に過ぎない。
けれど、そこには確かに温度があった。
故人の肉体はなくなっても、想いはデータとなって、時を超えて娘に届いたのだ。
しばらくして、里美さんの涙が落ち着いた頃、阿部さんがドカリと向かいのソファに腰を下ろした。
手には自分の分のチャイを持っている。
「満足したか」
「はい……。阿部さん、本当にありがとうございました。私、これを消さなくて本当によかったです」
「礼ならバイトに言え。俺は依頼通り消そうとしただけだ」
阿部さんは素っ気なく言いながら、チャイを啜る。
里美さんは、少し不思議そうに阿部さんに尋ねた。
「でも、どうして父は、こんな分かりにくいフォルダ名にしたんでしょうか。『Z』だなんて」
「ああ、それな」
阿部さんは空になったカップを置き、眼鏡の位置を直した。
「アルファベット順でソートした時、Zは一番最後に来るだろ」
「ええ」
「AからYまで、仕事やら世間体やら、やらなきゃいけないタスクで埋め尽くされた人生の、一番最後。一番奥底。誰にも邪魔されず、誰の目も気にしなくていい場所。……それが親父さんにとっての『Z』だったんだよ」
阿部さんの視線が、サーバーラックの点滅する光に向けられる。
「男ってのは面倒な生き物でな。大切なものほど、見えない場所に隠したがる。デスクトップの最深層か、心の最深層にな」
「心の、最深層……」
「今回の件は、あんたが『見ずに消してくれ』なんて依頼をしたから、危うく永遠に失われるところだった。……データは一度消せば、どんなに金を積んでも戻らない。人間の命と同じだ」
その言葉には、阿部さん自身の過去が滲んでいるような気がした。
彼は以前、データ絡みの事件で何かを失ったのだろうか。その横顔に浮かぶ陰りは、普段の尊大な態度とは違う、深い喪失感を漂わせていた。
「肝に銘じます」
里美さんは深く頭を下げた。
「あの、お代は……」
「基本料金と、成功報酬。あとオプションの『データ保全処置』代だ」
阿部さんが提示したタブレットの金額を見て、里美さんは一瞬目を丸くしたが、すぐに納得したように頷いた。
決して安くはない。けれど、得られたものの価値を考えれば、高くはないのだろう。
「データはUSBメモリに移した。PC本体のHDDは、ご希望通りクリーニングしてある。OSのアップデートも済ませたから、まだ数年は使えるはずだ。あんたが使うなり、母親にあげるなりしろ」
「はい。……母にも、このデータを見せてあげようと思います。きっと、父のことが惚れ直すと思うので」
里美さんは笑顔でUSBメモリを受け取ると、大事そうにバッグにしまった。
来た時の強張った表情はもうない。
雨上がりの空のような、晴れやかな笑顔だった。
「石川さん、阿部さん。本当にお世話になりました」
里美さんを見送るため、私は地上への階段まで付き添った。
外はすっかり日が暮れて、神保町の古書店街には街灯が灯っている。
雨は上がっていた。
「石川さん」
別れ際、里美さんが振り返った。
「このお仕事、素敵ですね」
「え?」
「亡くなった人の秘密を暴くなんて、最初は怖い仕事だと思いました。でも……ここは、失くした絆を結び直してくれる場所なんですね」
彼女の言葉に、私は胸が熱くなった。
ホテルコンシェルジュを辞めて、逃げるようにこの地下室に来た私。
姉の死という整理のつかない荷物を抱えたままの私。
けれど、今日、私は確かに誰かの役に立てたのかもしれない。
「ありがとうございます。お気をつけて」
里美さんの背中が見えなくなるまで見送ってから、私は地下への階段を降りた。
重たいスチールドアを開けると、相変わらずスパイスの香りが充満している。
阿部さんはデスクに戻り、再び三つのモニターに囲まれてキーボードを叩いていた。
「所長、里美さん、帰られました」
「そうか。……おい石川、皿洗っとけよ」
「はいはい」
私はシンクに向かい、スコーンの皿とカップを洗い始めた。
水の冷たさが心地いい。
「所長」
「なんだ」
「所長は、どうしてあのお客さんのパスワードが『愛称』だって分かったんですか? ローマ字入力の癖とか、いろいろ言ってましたけど」
阿部さんは手を止めず、モニターを見つめたまま答えた。
「プロファイリングだと言ったろ。……それに」
「それに?」
「あのPCの壁紙。初期設定の青い画面に見えたが、実は違った」
「え?」
「解像度を上げて解析したら、青一色じゃなく、極小の文字が敷き詰められた画像だったんだよ」
阿部さんがキーを叩き、メインモニターにその画像を拡大表示した。
青い背景に見えたそれは、無数の小さな文字の集合体だった。
そこに書かれていたのは――。
『Satomin』『Satomin』『Satomin』……
画面を埋め尽くす、娘の愛称。
遠目に見ればただの青い壁紙だが、拡大すれば娘への愛で溢れていたのだ。
「うわぁ……。お父さん、重すぎますよ……」
「だから言ったろ。真面目な男ほど、隠れた場所ではロマンチストなんだ。……気持ち悪いレベルでな」
阿部さんは皮肉っぽく笑ったが、その目にはどこか温かい色が宿っていた。
この人は、依頼人の嘘や秘密を暴く。
口も悪いし、態度も横柄だ。
けれど、その根底にあるのは、故人の「遺したかった想い」を拾い上げる、繊細な優しさなのかもしれない。
(お姉ちゃん……)
私は、制服のポケットに入れたままの、自分のスマートフォンを服の上から握りしめた。
私の姉のスマホも、まだロックが掛かったままだ。
阿部さんなら、開けられるのだろうか。
姉の隠した「Z」を、見つけることができるのだろうか。
「おい、手が止まってるぞ。給料分は働け」
「あ、すみません!」
私は慌てて皿洗いを再開した。
泡立つ洗剤の中で、姉のスマホの冷たい感触が、いつまでも指先に残っている気がした。
これが、私が『デジタル・アーカイブス社』で迎えた、最初の夜だった。




