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死者からの検索履歴、削除しますか? ~デジタル遺品整理室の暗号解読~  作者: U3
第二章:黒い履歴と白い嘘

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第16話 消された小説家の未完原稿(前編)

 神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。

 11月下旬の冷たい雨が降る午後。

 事務所の中は、不穏な空気……ではなく、高級な香水の香りに包まれていた。


「……おい、藤田。いつまで居座る気だ」


 所長の阿部邦彦は、デスクでキーボードを叩きながら、忌々しげに言った。

 彼の視線の先、革張りのソファを占拠しているのは、弁護士の藤田涼子だ。

 彼女はハイブランドの秋冬コレクションカタログを優雅にめくりながら、まるで自宅のようにくつろいでいる。


「失礼ね。顧問弁護士として、コンプライアンスのチェックに来てあげてるのよ」

「頼んでない。それに顧問料も払ってない」

「出世払いでいいわよ。……それより阿部、お腹空かない?」


 涼子はパタンとカタログを閉じ、挑発的な瞳で阿部を見た。


「銀座に新しいフレンチができたの。予約困難店なんだけど、クライアントのコネで席が取れたわ。……付き合いなさい」

「断る。俺は忙しい」

「あらそう。じゃあ、あんたが学生時代に書いた『恥ずかしいポエム集』のデータを、ここのサーバーにばら撒こうかしら」

「……貴様、いつの間に俺のクラウドに侵入した」

「法的措置を取られる前に支度なさい。5分で出るわよ」


 最強のハッカーも、最強の弁護士には勝てないらしい。

 阿部が渋々ジャケットを羽織った、その時だった。

 インターホンが鳴った。


「……チッ。救いの神か、疫病神か」


 阿部が舌打ちをしてドアを開ける。

 そこに立っていたのは、喪服姿の女性だった。

 年齢は40代半ば。雨に濡れた肩が小さく震えている。その顔には、深い悲しみと、焦燥感が滲んでいた。


「……阿部邦彦さんの事務所でしょうか?」

「そうですが」

「あ、あの……主人の、パソコンを見ていただきたいんです」


 彼女は、風呂敷に包まれたノートパソコンを、すがるように差し出した。

 涼子がスッと表情を引き締め、ソファの端を空けた。


「どうぞ、お掛けになって。……雨の中、大変でしたね」


 先ほどまでの高飛車な態度はどこへやら、涼子は瞬時に「頼れる法律家」の顔になり、温かいタオルを差し出した。この切り替えの早さは、さすがプロだ。


「私は財前美和子と申します。……主人は、財前静夫です」

「財前静夫……?」


 私が反応するより早く、涼子が眉を上げた。


「ミステリー作家の、財前静夫先生ですか? 『歪んだ時計塔』シリーズの」

「はい。……先週、心不全で急死しました」


 財前静夫。

 押しも押されもせぬ大ベストセラー作家だ。私もファンで、全巻読んでいる。

 ニュースで訃報を聞いたばかりだった。まだ52歳という若さだった。


「ご愁傷様です。……それで、このパソコンのご依頼は?」


 阿部が事務的に尋ねる。美和子さんは、震える声で答えた。


「主人は亡くなる直前まで、新作の執筆をしていました。シリーズ完結編となる長編です。締め切りも迫っており、『あと少しで完成だ、これは傑作になる』と嬉しそうに話していました」

「はい」

「でも……葬儀の後、編集者の方と一緒にこのパソコンを確認したのですが……原稿がないんです」

「ない?」

「はい。デスクトップにも、ドキュメントフォルダにも、どこにもないんです。書きかけのメモすら残っていなくて……。まるで、最初から書いていなかったかのように、空っぽなんです」


 美和子さんは涙ぐんだ。


「そんなはずはありません。主人は毎日、書斎にこもってキーボードを叩いていました。あの音が嘘だったなんて……。阿部さん、お願いです。消えた原稿を探してください。あれは主人の……最期の命なんです」


 阿部は黙ってパソコンを受け取った。

 電源を入れる。パスワードは掛かっていない。

 フォルダを確認する。

 確かに、小説らしきテキストファイルは一つも見当たらなかった。


「……削除された形跡があるな」


 阿部が呟いた時、再びインターホンが鳴った。

 今度は、乱暴な連打だ。

 私がドアを開ける前に、男が押し入ってきた。

 安っぽいスーツを着た、神経質そうな痩せ型の男だ。


「財前さん! ここにいましたか!」


 男は土足で上がり込み、美和子さんに詰め寄った。


「勝手にパソコンを持ち出さないでください! 契約違反ですよ!」

「か、勝田さん……。でも、原稿が……」

「ないものはないんです! 先生はスランプで書けなかったんですよ! 奥さんに嘘をついてたんです!」


 勝田と呼ばれた男――出版社の担当編集者は、大声で怒鳴り散らした。


「いいですか、そのパソコンは出版社の管理下にあるべきものです。そこには当社の機密情報も入っている。外部の業者に見せるなんて言語道断だ! 今すぐ回収します!」


 勝田は阿部の手からパソコンを奪い取ろうとした。

 その手つきは強引で、美和子さんを威圧していた。


「……待ちなさい」


 凛とした声が響いた。

 涼子だ。

 彼女は優雅に足を組み替え、冷ややかな視線で勝田を射抜いた。


「誰だ、あんたは」

「弁護士の藤田涼子よ。……貴方、今すぐその汚い手を離しなさい。さもないと、器物損壊および強要罪で警察を呼ぶわよ」


 勝田が怯む。

 涼子は立ち上がり、美和子さんの前に立ちはだかった。


「契約違反? 笑わせないで。著作権法上、未発表の著作物の所有権は著作者にあり、その死後は相続人に承継されるわ。つまり、このパソコンも中のデータも、全て妻である美和子さんの正当な遺産よ。出版社に引き渡す義務なんて1ミリもない」

「な、何を……! 当社は先生と専属契約を結んでいて……」

「専属契約は『出版権』の設定であって、執筆道具の所有権移転じゃないわ。契約書、読み直してきたら? それとも私が読み上げてあげましょうか? 六法全書で頭を叩きながら」


 涼子のマシンガントークが炸裂する。

 論理の壁と、圧倒的な威圧感。勝田はタジタジと後退した。


「くっ……! とにかく、原稿がないなら損害賠償ものだぞ! 印刷所も抑えてあるんだ! どう落とし前つけるんだ!」

「損害賠償? 原稿の存在も証明できないのに? 寝言は寝て言いなさい」


 涼子は勝田を出口へ追いやると、ドアノブに手をかけた。


「お引き取りください。二度と依頼人を脅迫しないことね。次は内容証明を送るわよ」


 バタン!

 ドアが閉められ、静寂が戻った。

 涼子はふぅと息を吐き、髪をかき上げた。


「……品がない男ね。スーツのサイズも合ってないし」

「あ、ありがとうございます……藤田先生」

「いいのよ。弱い者いじめを見るのは趣味じゃないから」


 涼子は美和子さんに微笑むと、阿部に向き直った。


「さて、邪魔者は消したわ。阿部、仕事よ」

「……言われなくてもやる」


 阿部はすでに解析ツールを走らせていた。

 画面に緑色の文字列が流れる。

 HDDの深層領域、削除されたデータの痕跡をスキャンしていく。


「……おかしいな」


 数分後、阿部の指が止まった。


「どうしたの? 復元できない?」

「痕跡がない」

「えっ?」

「通常、ゴミ箱から削除した程度なら、管理情報が消えるだけで実データは残る。だが、このHDDは……『0』で埋め尽くされている」


 阿部がモニターを指差す。


「DoD 5220.22-M方式。米国防総省準拠のデータ消去方式だ。乱数を3回上書きして、磁気レベルで痕跡を消滅させている」

「それって……」

「素人の仕業じゃない。専用の業務用ツールを使って、意図的に、徹底的に『抹消』されている」


 美和子さんが口元を押さえる。

 夫が自分で消したのだろうか? スランプを苦にして?

 いや、それにしては手口がプロすぎる。


「……解析には時間がかかる。HDDの残留磁気をナノレベルで読み取る必要がある」

「どれくらい?」

「丸一日はかかるな。……美和子さん、パソコンはお預かりします。必ず真相を突き止めます」


 美和子さんは不安そうに頷き、帰っていった。

 残されたのは、不気味なほど真っ白なHDDを持つパソコンだけ。


「……きな臭いわね」


 涼子が呟く。


「ええ。単なる紛失じゃない。何者かが『消した』んだ」

「あの編集者かしら?」

「動機はあるが、あんな小物にここまでの技術があるとは思えん。……だが、裏で糸を引いている可能性はある」


 阿部は解析プログラムを自動実行モードに切り替えると、ジャケットを掴んだ。


「行くぞ、藤田」

「え? どこへ?」

「銀座だ。腹が減った」

「はあ? 今、事件の最中よ?」

「機械が働いている間、人間は待つしかない。それに……」


 阿部はニヤリと笑った。


「お前が奢ってくれるんだろ? 最高級フレンチ」

「……あんたねぇ」


 涼子は呆れたが、拒否はしなかった。

 二人は雨の銀座へと繰り出した。


 銀座、並木通り。

 予約困難なフレンチレストラン『ル・カトル』の個室。

 白亜のテーブルクロスの上には、芸術的な料理が並んでいた。

 フォアグラのポワレ、トリュフの香るコンソメ、そしてメインは蝦夷鹿のロティ。


「……ソースが甘い」


 阿部は一口食べるなり、顔をしかめた。


「マデラソースの煮詰め方が足りない。これでは鹿肉の鉄分に負けている」

「文句言わないの。黙って食べなさい」


 涼子は赤ワインを揺らしながら、阿部を睨んだ。

 周りを見渡せば、幸福そうなカップルばかりだ。この個室だけ、空気がピリピリしている。


「で? どう思うの、今回の件」


 涼子は話題を事件に戻した。


「財前静夫は、シリーズ完結編を書いていた。それは間違いない。奥さんの証言は嘘をついているようには見えなかったわ」

「ああ。だが、データは消えた。……誰が得をする?」

「普通に考えれば、原稿があった方が出版社は儲かるわ。ベストセラー確実だもの。消すメリットがない」

「だが、あの編集者・勝田は、原稿がないことを前提に動いていた。『スランプだった』と決めつけ、PCを回収しようと必死だった」


 阿部はパンをちぎりながら考察する。


「もし、原稿の中に『出版されると困る内容』が含まれていたとしたら?」

「告発文とか? ミステリー小説に見せかけた……」

「あり得るな。財前はリアリティを追求する作家だ。業界の闇や、誰かの犯罪をネタにしていたのかもしれん」


 阿部はワイングラスを手に取った。


「あのPCの消去ログを洗えば、消された日時が分かる。もしそれが死亡直後なら……犯人は、死体発見より先に現場にいたことになる」

「……殺人、あるいは死体遺棄?」

「飛躍しすぎだが、可能性はゼロじゃない」


 二人は視線を合わせた。

 犬猿の仲だが、思考の波長は合う。

 阿部の技術的洞察と、涼子の法的・動機的推論が組み合わさる時、真実は輪郭を帯びてくる。


「……ごちそうさま。まあまあの味だった」

「何様よ。……領収書、事務所で切るからね」


 店を出ると、雨は上がっていた。

 銀座のネオンが濡れたアスファルトに反射して輝いている。

 並んで歩く二人の距離は、付かず離れず。恋人には遠いが、他人よりは近い。


「……ねえ、阿部」

「なんだ」

「あんた、昔から変わらないわね。……真実のためなら、損得勘定抜きで突っ走る」

「お前こそ、昔から口が減らないな」

「褒め言葉として受け取っておくわ」


 涼子はふふっと笑った。

 その笑顔は、法廷で見せる鉄仮面とは違う、年相応の女性のものだった。


 事務所に戻ると、意外な客が待っていた。

 喪服姿の美女――葬儀屋の岡田アキだ。

 手にはコンビニの袋を持っている。


「お、帰ったか阿部ちゃん! ……と、魔女先生」

「誰が魔女よ」

「アキ、何の用だ。今日は忙しい」

「情報提供に来てやったんだよ。感謝しな」


 アキはビールをプシュッと開け、一口飲んでから言った。


「私さ、財前先生の葬儀担当だったんだよ」

「なに?」

「でね、見たんだよ。……あの編集者、勝田って奴」

「あいつがどうした?」

「通夜の席でさ、親族が悲しんでる最中に、あいつ一人だけコソコソと席を外してたんだ。気になって後をつけたら……先生の書斎に入っていった」

「……なんだと?」


 阿部の目が鋭くなる。


「何をしてた?」

「なんか、棚を漁ってた。本とか、書類とか。……で、ポケットに何かを入れて出てきたんだ」

「何を入れた?」

「小さくて黒いもの。……ICレコーダーみたいに見えたけど」


 ――ICレコーダー。


 阿部と涼子が顔を見合わせた。

 財前静夫は、執筆中のアイデアをボイスメモに残す癖があったという情報は、ファンなら知っている事実だ。


「……それだ」


 阿部が叫んだ。


「PCのデータは消されたが、バックアップとして音声データを残していた可能性がある。勝田はそれを盗んだんだ!」

「窃盗罪ね。……証拠はある?」

「現物を押さえるしかない。……おい石川、みずほを叩き起こせ!」


 私が仮眠室へ走ると、ちょうど起きてきたみずほちゃんが、あくびをしながら出てきた。


「ふわぁ……。何? うるさいんだけど」

「出番だ、小川。……お前の耳が必要だ」


 阿部は言った。


「消されたのは文字だけじゃない。音もだ。……編集者が持ち去ったレコーダーを取り返し、その中身を解析する」

「取り返すって、どうやって?」

「方法は問わん。……藤田、法的リスクの回避策を頼む」

「はあ? 泥棒の手助けをしろって?」

「正義の泥棒だ」


 阿部はニヤリと笑った。

 悪徳編集者VSデジタル遺品整理社&法廷の魔女。

 消された原稿を巡る戦いは、ここからが本番だ。


「……面白くなってきたじゃない」


 涼子も不敵に笑い、サングラスをかけ直した。

 銀座のフレンチの余韻は消え、戦場の空気が張り詰める。


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