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死者からの検索履歴、削除しますか? ~デジタル遺品整理室の暗号解読~  作者: U3
第二章:黒い履歴と白い嘘

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第15話 利用規約の壁と法廷の魔女

 東京、神保町。

 古書店が密集するこの街の地下深くに、その奇妙な事務所はある。


 『デジタル・アーカイブス社』。


 普段はサーバーのファンの音と、電子機器の排熱、そして古書のインクの匂いが混ざり合う無機質な空間だ。

 しかし、今日の空気は明らかに異質だった。

 鼻孔をくすぐるのは、強烈な酸味と甘み、そして鼻腔の奥を刺激するエキゾチックなスパイスの香り。


「……煮詰め方が足りない。水分を極限まで飛ばし、トマトのグルタミン酸を凝縮させるんだ」


 所長の阿部邦彦は、鬼気迫る表情で寸胴鍋と対峙していた。

 彼が今、解析しているのは難解な暗号コードではない。

 真っ赤な、トマトの山だ。


「石川、スパイスの準備はできたか? クローブ、シナモン、オールスパイス、そしてカイエンペッパー。配合比率は0.1グラムの誤差も許さんぞ」

「は、はい! 計量済みです! ……でも所長、これ本当に料理なんですか? まるで爆薬の調合みたいですけど……」


 私はビーカーのような計量カップを差し出しながら恐る恐る尋ねた。

 鍋の中でボコボコとマグマのように煮えたぎっているのは、トマトペーストだ。

 それも、スーパーで売っているような安易なものではない。完熟トマトを湯剥きし、種を丁寧に取り除き、大量の香味野菜と共に数時間煮込んだ、完全なる「手作りケチャップ」の原液である。


「市販のケチャップは甘すぎる。あれはトマトソースじゃない、コーンシロップの味だ。本物のケチャップとは、野菜の魂を酢とスパイスで保存した『ソース』のことを指す」


 阿部は私の疑問を一蹴し、茶色い粉末を鍋に投入した。

 ジュワッ、という音と共に、香りが爆発する。

 甘酸っぱいトマトの香りに、クローブの薬品めいた刺激と、シナモンの甘い芳香が複雑に絡み合う。

 ただの調味料作りとは思えない。これは錬金術だ。


「この状態でさらに1時間、低温で撹拌する。焦げ付かせたら即終了だ。……監視を怠るなよ」

「はいはい……」


 私が木べらを受け取ろうとした、その時だった。

 入り口のインターホンが鳴った。

 現実に引き戻される音だ。


「……チッ。いいところだったのに」


 阿部は不機嫌そうに舌打ちをし、弱火にして蓋をした。

 私はエプロンを外し、ジャケットを羽織ってドアへ向かう。


「いらっしゃいませ。デジタル・アーカイブス社へようこそ」


 重たいスチールドアを開けると、そこには一人の女性が立っていた。

 高橋美智子さん。事前に予約のメールをいただいていた依頼人だ。

 上品な装いだが、その表情は疲れ切っており、目元には隠しきれない隈があった。手には、一枚の通知書のような紙が握りしめられている。


「……どうぞ、こちらへ」


 革張りのソファに案内し、私は温かいハーブティーを出した。

 高橋さんはカップに口もつけず、震える手で通知書をテーブルに置いた。

 そこには、世界的なSNSプラットフォーム『グラム』のロゴが印字されている。


「……娘の、アカウントが削除されると言うんです」


 高橋さんは絞り出すように言った。


「娘の結衣は、インフルエンサーでした。ファッションやカフェの写真をアップして、たくさんのフォロワーさんがいて……。でも、先月、不慮の交通事故で亡くなりました」

「ご愁傷様です……」

「娘のスマホは壊れてしまって、データは取り出せませんでした。だからせめて、ネットに残っている『グラム』のアカウントだけは残しておきたかったんです。あそこには、娘が生きた証が、輝いていた瞬間の記録が全部あるから……」


 高橋さんの目から涙がこぼれる。

 彼女は『グラム』の運営会社に対し、娘のアカウントを「追悼アカウント」として保存してほしいと申請したそうだ。

 しかし、返ってきたのは無情な定型文だった。


『利用規約第15条に基づき、本人死亡が確認された場合はアカウントを削除いたします』


「そんな……! あんまりです。娘の思い出を消さないでほしいと頼んだだけなのに、規約だからって……まるでゴミみたいに……」

「……海外のIT企業はドライだ」


 阿部が通知書を手に取り、冷たく言い放った。


「彼らにとって、死んだユーザーのデータなど、サーバー容量を圧迫するだけの不要なバイト列でしかない。維持コストを考えれば、削除するのが合理的だ」

「所長! 言い過ぎです!」

「事実だ。相手はカリフォルニアに本社がある巨大企業だ。日本の情緒も法律も通じにくい。『契約』という絶対的なルールで動いている」


 阿部は通知書をテーブルに戻し、腕を組んだ。


「俺がハッキングして、現在公開されているデータをすべてバックアップすることは可能だ。写真は守れる。だが……アカウントそのものを『ネット上に残す』ことはできない。向こうのサーバー管理権限までは奪えないからな」

「そんな……どうにかならないんですか? お金なら払います! 娘の居場所を、消さないでください……!」


 高橋さんが泣き崩れる。

 阿部は苦々しい顔をした。技術で解決できることなら何でもやる男だが、相手が「巨大企業の規約」となると、ハッカーとしての腕力だけではどうにもならない。

 これはデジタルの問題ではない。法と契約の壁だ。


「……俺の管轄外だ。弁護士にでも相談するんだな」


 阿部がそう突き放そうとした、その時だった。


 カツ、カツ、カツ。


 地下への階段を降りてくる、小気味良いヒールの音が響いた。

 迷いのない、自信に満ちたリズム。

 そして、ドアがノックもなしに、優雅に、しかし力強く開け放たれた。


「あら、相変わらず湿っぽい穴蔵ね。キノコでも栽培してるの?」


 現れたのは、この薄暗い地下室には似つかわしくない、圧倒的な「華」を纏った女性だった。

 身長170センチを超える長身に、ハイブランドの純白のパンツスーツを完璧に着こなしている。

 艶やかな黒髪のロングヘアをかき上げ、顔の半分を覆うような大きなサングラスを外す。

 その仕草はまるで、カンヌのレッドカーペットを歩く映画女優のようだ。

 美しい。けれど、人を寄せ付けない高飛車なオーラが全身から漂っている。


「……ゲッ。藤田」


 阿部が露骨に嫌そうな顔をして、後ずさりした。


「誰が藤田よ。先生と呼びなさい、技術屋風情が」

「帰れ、悪徳弁護士。ここに売る喧嘩はないぞ」

「喧嘩? 人聞きが悪いわね。私は困っている子羊の悲鳴が聞こえたから、救いに来てあげただけよ」


 彼女――藤田涼子は、勝手知ったる様子でソファに座り込み、依頼人の高橋さんににっこりと微笑みかけた。

 その笑顔は、先ほどの冷たい表情とは打って変わり、聖母のように慈愛に満ちていた。


「初めまして。弁護士の藤田涼子です。……その案件、私が引き受けましょうか?」

「えっ、弁護士さん……?」

「相手は『グラム』日本法人ね。最近、調子に乗ってユーザーをないがしろにしている殿様企業。……一度、灸を据えてやりたいと思ってたのよ」


 涼子は楽しそうに唇を舐めた。

 それは聖母の顔ではない。獲物を見つけた肉食獣の目だった。


「おい待て。相手は利用規約を盾にしている。勝ち目はないぞ」

「阿部、あんたバカ? 規約なんて企業が勝手に作ったローカルルールよ。日本国憲法と消費者契約法の上にあるわけないじゃない」


 涼子は鼻で笑い、最新のスマートフォンを取り出した。


「今から日本法人の法務部にカチ込むわよ。……阿部、あんたは裏で『あるデータ』を抜いておきなさい」

「俺に指図するな」

「成功報酬の3割あげるわよ」

「……やる」


 阿部は即答し、キーボードに向かった。

 この所長、本当に金と食い物に弱い。いや、それ以上に、この「藤田涼子」という女性に逆らえない何かがあるようだ。


 数時間後。

 事務所のメインモニターには、ビデオ通話のウィンドウが表示されていた。

 相手は『グラム』日本法人の法務担当者だ。エリート風の男性が、憮然とした顔で映っている。背景にはお洒落なオフィスのロゴが見える。


『ですから、藤田先生。先ほども申し上げた通り、当社のグローバル規約第15条により、死亡したユーザーのアカウントは継承できないことになっておりまして……』

「規約、規約って、壊れたレコードみたいね」


 涼子は画面に向かって、マシンガンのような早口でまくし立て始めた。

 その速度は、阿部のタイピング速度に匹敵するほどだ。


「貴社の規約第15条は、消費者契約法第10条『消費者の利益を一方的に害する条項』に該当し、無効の可能性が高いわ。さらに、故人の人格権および遺族の敬愛追慕の情を侵害している。これは民法上の不法行為に当たるわよ」

『い、いえ、しかし本社の方針で……日本法人の一存では……』

「本社? ここは日本よ。日本国内でサービスを展開している以上、日本の法律に従ってもらうわ。……それにね」


 涼子は一度言葉を切り、阿部に目配せをした。

 阿部がニヤリと笑い、エンターキーを強く叩く。

 画面上に、ある内部資料が表示された。


「これは、貴社が過去に特例で『追悼アカウント化』を認めたケースのリストよ。著名な芸能人、政治家、そして……貴社の大株主の親族。全部で15件あるわね」


 画面の向こうの担当者が、目に見えて動揺した。冷や汗が流れるのが画質越しでも分かる。


『なっ……!? ど、どこでそのデータを……!? それは社外秘の……!』

「一般ユーザーは問答無用で削除して、上級国民は特例で保護? へえ、面白いことしてくれるじゃない。『世界をつなぐ』がモットーの企業が、命にランク付けをしてるなんて。……これが公になったら、今のユーザー離れに拍車がかかるんじゃないかしら?」


 涼子の声は、冷たく、鋭利なナイフのように相手の喉元を突き刺す。


「さあ、どうする? このまま訴訟して、世間に恥を晒す? それとも、たった1つのアカウントのスイッチを『保存』に切り替える?」

『くっ……』

「今すぐ決めて。私の時給、高いわよ?」


 数分間の沈黙。そして、保留音。

 やがて、担当者が戻ってきた時、その顔は敗北を認めた色をしていた。


『……本社と協議し、特例として……今回のアカウントの保存を認めます。ただし、他言無用でお願いします』


 完全勝利だった。

 涼子は「賢明な判断ね」と言い捨て、通話を切った。


「……すごい」


 一部始終を見ていた高橋さんが、震える声で言った。

 娘さんのアカウントは守られたのだ。デジタルタトゥーではなく、デジタル・モニュメントとして。


「ありがとうございます……! 本当に、どうお礼を言えばいいか……!」

「いいのよ。私はただ、気に入らない奴をいじめたかっただけだから」


 涼子はツンと澄まして言ったが、その横顔はどこか晴れやかだった。

 彼女もまた、この仕事にプライドを持っているプロなのだ。


 高橋さんが何度も頭を下げて帰った後。

 地下室には、煮詰まったトマトの濃厚な香りが再び充満していた。


「……終わったぞ、ケチャップ」


 阿部が火を止め、鍋の中身を熱湯消毒した瓶に移し替えた。

 艶のある、深いルビーのような赤色。

 市販品とは明らかに違う、粘度の高いペースト状だ。


「へえ、いい匂いじゃない。……まさか、これを舐めろって言うんじゃないでしょうね?」

「メインはこれだ」


 阿部がキッチンから大皿を運んできた。

 そこに乗っているのは、極太のソーセージと、皮付きのフライドポテトだった。

 揚げたてのポテトからは湯気が立ち上り、ボイルして皮がパリッと弾けたソーセージからは肉汁が滲んでいる。

 それを、特製ケチャップの海にディップして食べるのだ。


「……ジャンクね。でも、悪くないわ」

「シンプルイズベストだ。素材の味を、ソースがどう引き立てるか。……そして、これだ」


 阿部が棚の奥から取り出したのは、琥珀色の液体が入ったボトルだった。


 『ラフロイグ』。


 アイラモルトの王様と呼ばれる、強烈なピート香が特徴のスコッチウイスキーだ。


「スコッチ?」

「トマトのグルタミン酸と酸味、スパイスの刺激。これを受け止められるのは、スモーキーなアイラモルトだけだ」


 阿部はロックグラスに丸い氷を入れ、トクトクとウイスキーを注いだ。

 涼子の分も用意し、差し出す。


「……気が利くじゃない」


 涼子はグラスを受け取り、香りを嗅いだ。

 鼻を刺すようなスモーキーさ。薬品のようでありながら、どこか潮風を感じさせる香り。


「いただきます」


 涼子はソーセージにケチャップをたっぷりつけて、口に運んだ。

 パリッ、という音。肉汁が溢れる。

 そして、ケチャップの濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。


「……ん! 何これ!」


 涼子が目を見開いた。


「トマトの味が濃い……! 酸っぱいだけじゃない、深い甘みと、あとから来るスパイスの複雑な香りが……」

「クローブとシナモンが肉の臭みを消し、トマトの旨味を立体的にする。……そこで酒だ」


 涼子はすぐにウイスキーを口に含んだ。

 強烈なピート香が、口の中に残った肉の脂とケチャップのスパイスと混ざり合い、爆発的なハーモニーを生む。

 スモーキーさがトマトの酸味をまろやかにし、肉の旨味を余韻として長く残す。


「……悔しいけど、合うわね。最高のマリアージュだわ」

「だろ」


 阿部もポテトを齧り、ウイスキーを煽った。

 二人は無言で、しかしハイペースで食べ、飲み進める。

 犬猿の仲のはずなのに、食の好みと仕事の流儀だけは、驚くほど噛み合っていた。


 その時。

 ドスドスという足音がして、ドアが開いた。

 大家の後藤かほりだ。


「いい匂いさせてると思ったら……また宴会? 私のビルで火遊びは禁止よ」

「家賃なら払っただろ。文句あるか」

「あら、見ない顔ね」


 かほりは、涼子を見て目を細めた。

 涼子もグラスを置き、かほりを値踏みするように見返した。


「……後藤かほりさんね。噂は聞いてるわ。この偏屈男を手懐けてる猛獣使いの大家だって」

「あら、貴女は藤田涼子さんでしょ? 『法廷の魔女』って呼ばれてる。……そのスーツ、今季のサンローランね。カッティングが美しいわ」

「分かる? 貴女のそのジャケットも、ヴィンテージのシャネルでしょ? ボタンの意匠が1980年代のものね。保存状態が完璧だわ」


 二人は一瞬で互いのファッションと「格」を見抜き、ふふっと笑い合った。

 火花が散るような、それでいて認め合うような空気。


「……気が合いそうね」

「ええ。バカな男の相手をする苦労も、共有できそうだし」


 かほりは自然な動作で阿部の隣に座り、「私にもグラスを」と要求した。

 阿部は渋い顔をしながらも、3つ目のグラスを出した。


「……おいおい。俺の聖域が、どんどん女に乗っ取られていくんだが」

「いいじゃない。華やかで。むさ苦しい男一人よりマシよ」


 涼子はソーセージをつまみながら、かほりに話しかけた。


「ねえ、知ってる? シェイクスピアの『ヴェニスの商人』のポーシャ。彼女が裁判で勝てたのは、法律の知識があったからじゃなくて、契約書の『言葉尻』を捉える国語力があったからなのよ」

「ええ、知ってるわ。『肉1ポンドは切り取ってもいいが、血は一滴も流してはならない』……見事な詭弁よね。でも私は、彼女の勝因は『相手の欲望』を利用したことだと思うの。……今回のIT企業との交渉も同じかしら?」

「鋭いわね。法律なんて、結局は言葉のパズルよ。どう組み替えて、相手のロジックを破綻させるか。……文学的でしょ?」


 二人はシェイクスピアを引用しながら、高度な皮肉と知性の応酬を始めた。

 阿部は二人の間に挟まれ、小さくなってケチャップを舐めている。

 最強の弁護士と、博識な古書店主。

 この二人がタッグを組んだら、口喧嘩で勝てる人間はこの世にいないだろう。


「……石川、助けてくれ。胃が痛い」

「自業自得ですよ。美味しいもの作れる人が悪いんです」


 私は苦笑いしながら、阿部さんが作ったケチャップをポテトにつけた。

 甘酸っぱくて、スパイシーで、少しほろ苦い大人の味がした。


 こうして、デジタル遺品整理社に、また一人、最強のスペシャリストが加わった。

 弁護士・藤田涼子。

 彼女がいれば、どんな理不尽な規約も、阿部さんの作るケチャップのように、煮詰めて美味しく変えてしまうのかもしれない。


 夜は更けていく。

 スコッチの芳醇な香りと、女たちの高笑いが、地下室に響き渡っていた。


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