第14話 第一章エピローグ
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
時計の針は深夜1時を回っていた。
いつもの賑やかさは、もうない。
石川彩は、姉のスマホのロック解除という大仕事を終え、晴れやかな顔で帰宅した。
住み込みバイトの小川みずほは、豚汁を食べ過ぎて満腹になり、奥の仮眠室ですでに高いびきをかいている。
大家の後藤かほりも、店子の岡田アキも、それぞれの城へ帰っていった。
静寂が戻った地下室。
残っているのは、サーバーの低い駆動音と、所長の阿部邦彦、そしてもう一人。
「……で? いつ来たんだ、情報屋さん」
阿部はキッチンに立ちながら、背後のソファに座る人物に声をかけた。
中島鞠だ。
彼女は足を組み、ワイングラスを片手に優雅に雑誌をめくっている。皆が帰った後に、入れ替わりでふらりと現れたのだ。
「いいじゃない。夜はこれからよ。……それより、お腹空いたわ」
「寸胴鍋に豚汁が残ってるぞ。勝手に食え」
「嫌よ。アキちゃんたちが食べた残り物でしょ? それに、今の気分は和食じゃないの」
鞠は雑誌を放り出し、挑発的な目で阿部を見た。
「私には私のための、出来たてのメインディッシュを出してちょうだい」
阿部はやれやれと肩をすくめると、冷蔵庫から巨大な鶏むね肉を取り出した。
「……チキンパームだ。文句は言わせん」
「あら、オーストラリアのパブ飯? ジャンキーでいいわね」
阿部は肉をまな板に置くと、ミートハンマーを構えた。
バン、バン、バン。
リズミカルな音が地下室に響く。
厚みのあるむね肉を、繊維を断ち切るように叩いて薄く広げていく。こうすることで、火通りが良くなり、食感も柔らかくなる。
「パン粉にはパルメザンチーズとドライハーブを混ぜる。これが香りのレイヤーになる」
阿部は独り言のように解説しながら、小麦粉、卵液、そして特製パン粉をまぶしていく。
フライパンに多めのオリーブオイルを熱し、カツを投入する。
ジュワーッという小気味良い音と共に、香ばしい揚げ油の匂いが立ち上る。
「揚げ焼きにするのかしら?」
「いや、これは下準備だ。表面をカリッとさせたら、ここからが本番だ」
阿部はきつね色に揚がった巨大なチキンカツを取り出し、耐熱皿に乗せた。
その上から、自家製のトマトソースをたっぷりと掛ける。ニンニクと玉ねぎをじっくり炒め、ホールトマトを煮詰めた濃厚なソースだ。
さらに、スライスしたモッツァレラチーズと、削りたてのパルミジャーノ・レッジャーノを山のように乗せる。
「カロリーの暴力ね」
「美味いものは脂肪と糖でできている。……オーブンへ投入」
250度の高温で一気に焼き上げる。
数分後。
チーン、という軽快な音が鳴った。
オーブンを開けた瞬間、チーズの焦げる芳醇な香りと、トマトの酸味を含んだ蒸気が溢れ出した。
皿の上では、トマトソースとチーズが一体となってグツグツと沸騰し、チキンカツを覆い尽くしている。
これぞ、チキン・パルミジャーナ。通称『チキンパーム』。
「……お待ちどう」
「いい匂い。で、合わせる酒は?」
「ない。今日は休肝日だ」
阿部が出したのは、氷がたっぷり入ったグラスと、緑色の瓶だった。
『ウィルキンソン・ジンジャーエール』のドライ。……いや、違う。
ラベルには英語で『Craft Apple Cider』と書かれている。
「サイダー?」
「ノンアルコールのクラフトサイダーだ。リンゴの酸味と強烈な炭酸が、チーズの脂っこさを洗い流す」
阿部は栓を抜き、グラスに注いだ。
シュワシュワと弾ける泡。黄金色の液体。
鞠は少し不満そうだったが、一口飲むと目を丸くした。
「……あら、美味しい。甘くないわね」
「ドライなやつを選んだ。……食え」
二人はナイフを入れた。
サクッ、という衣の音と、トロッとしたチーズの感触。
熱々のチキンを口に運ぶ。
トマトの酸味、チーズのコク、ハーブの香り、そしてジューシーな鶏肉の旨味が一気に広がる。
「ん……! 悔しいけど、最高ね」
「だろ」
阿部も大きな一口を頬張り、冷たいサイダーで流し込んだ。
熱さと冷たさ、濃厚さと爽快感のコントラスト。
深夜の背徳的な夜食としては、これ以上のものはない。
しばらくの間、カトラリーが皿に当たる音だけが響いた。
食事を楽しむ静かな時間。
しかし、皿が半分ほど空になった頃、鞠がふとナイフを置いた。
「……で? 本題は?」
「……」
「彩ちゃんには言わなかったわよね。……スマホの中身」
鞠の瞳が、鋭く阿部を射抜く。
阿部はサイダーを一口飲み、ため息をついた。
「……気づいてたか」
「ここに来る前、アキちゃんから連絡があったのよ。『彩ちゃんが元気になって良かった』ってね。でも、あんたがそんな綺麗に終わらせるなんて、逆に怪しいと思ったの。……何を見たの?」
阿部は無言で、自分のPCのモニターを回転させた。
そこに表示されていたのは、先ほど解析した石川由紀子のスマホの、深層領域のダンプデータだった。
「……これだ」
阿部が指差したのは、システムフォルダの奥深くに隠されていた、たった4キロバイトの小さな画像ファイルだった。
一見すると、ただの黒いドットに見える。
だが、拡大すると、それは奇妙な意匠を持っていた。
翼を広げた、黒い鳥のシルエット。
その目だけが、赤く光っている。
「……このマーク、どこかで……」
「『ファントム』だ」
阿部が低く呟いた瞬間、室内の空気が凍りついた。
ファントム。
都市伝説のように囁かれる、正体不明のハッカー集団。あるいは、国家ぐるみの情報隠蔽工作のコードネーム。
かつて阿部が警察のエースだった頃、その正体に迫ろうとして組織を追われ、全てを失った因縁の相手。
「……なんで、一般人の由紀子さんのスマホに、これが入ってるの?」
「分からん。だが、これはただの画像じゃない。ステガノグラフィだ。この画像データの中に、ある『アクセスキー』が埋め込まれている」
「アクセスキー?」
「どこかのサーバーへの入り口だ。……由紀子さんは、知ってか知らずか、ファントムに関わる『何か』を持っていた。そして、それを彩に渡そうとしていた」
阿部の推論に、鞠は息を呑んだ。
「じゃあ、あの事故は……」
「事故じゃない可能性が高い。口封じだ」
阿部は冷徹に言い放った。
「結婚報告というのは嘘じゃないだろう。彼女は幸せだった。だが、同時に『危険な秘密』も抱えていた。……彩を守るために、あえて普段通りのメールを送って呼び出したのかもしれん」
阿部はチキンパームの最後の一切れを口に運んだ。
味がしない。口の中に広がるのは、トマトソースの酸味ではなく、苦い過去の味だった。
「……彩ちゃんには、言わないの?」
「言えん。あいつはやっと、姉の死を受け入れて前に進もうとしている。今ここで『姉は殺されたかもしれない』なんて言ってみろ。あいつは壊れるぞ」
「……優しいのね、あんたは」
「優しさじゃない。情報のコントロールだ。今のあいつに、この事実は重すぎる」
阿部は立ち上がり、空になった皿をシンクに置いた。
「俺が調べる。このアクセスキーがどこに繋がっているのか。ファントムが何を隠そうとしているのか。……突き止めるまでは、彩には黙っていろ」
「……分かったわ。共犯者になってあげる」
鞠は残りのサイダーを一気に飲み干し、グラスを置いた。
「でも、覚悟しておきなさいよ。ファントムの尻尾を踏んだら、ただじゃ済まない。……今度は、あんた自身が消されるかもしれないわよ」
「上等だ。俺は一度死んだようなもんだ」
阿部はパーカーのポケットに手を突っ込み、暗いモニターを見つめた。
その瞳には、ハッカーとしての冷たい光と、復讐者としての暗い炎が宿っていた。
「……デジタル遺品整理室か。皮肉なもんだな」
「え?」
「他人の過去を整理しているつもりが、いつの間にか自分自身の過去と向き合う羽目になってる」
阿部は自嘲気味に笑った。
「……行くぞ、中島。夜はまだ長い」
「どこへ?」
「決まってる。ファントムの入り口への、総当たり攻撃だ」
阿部は椅子に座り、指をポキポキと鳴らした。
鞠は呆れたように肩をすくめ、それでも隣の椅子に腰を下ろした。
「……はいはい。付き合ってあげるわよ、坊や」
地下室に、再びキーボードを叩く音が響き始めた。
それは、死者のためのレクイエムではなく、生者が真実を暴くための、戦いのファンファーレだった。
平和なお仕事ドラマは、ここで終わりだ。
ここから先は、見えない敵との戦争が始まる。
段ボールの中で、子猫が「ミャー」と寝言を言った。
その小さな命を守るためにも、阿部邦彦は止まるわけにはいかなかった。




