第13話 彩の動機
神保町の地下にある『デジタル・アーカイブス社』。
11月に入り、肌寒さが増してきたこの季節、地下室の空気はいっそう冷え込んでいる。
私はデスクで経理の書類を整理しながら、ポケットの中にあるスマートフォンの感触を確かめていた。
自分のスマホではない。3年前に亡くなった、姉の遺品だ。
(……もうすぐ、姉さんの命日だ)
あの日から、私の時間は止まったままだ。
姉はなぜ死んだのか。事故と処理されたあの一件に、隠された真実はないのか。
この事務所に来て、数々の依頼人の「隠された想い」が暴かれるのを見てきた。
阿部所長の技術なら、きっと姉のスマホも開けられる。
そう分かっているのに、私はまだ言い出せずにいた。
開けてしまえば、もう後戻りできない。「知らなかった頃」には戻れない。それが怖かった。
「……おい石川。手が止まってるぞ」
「あ、すみません!」
所長の阿部邦彦が、不機嫌そうに声をかけてきた。
彼はパーカーのフードを目深に被り、しかめっ面でモニターを睨んでいる。
「今日のまかないは何ですか?」
「知らん。冷蔵庫が空だ。……みずほの奴が夜中に食い尽くしたらしい」
新しくアルバイトとして住み着いた小川みずほちゃんは、今、大学の講義に行っている。育ち盛りの彼女の食欲は凄まじく、備蓄していたパスタも冷凍肉も綺麗になくなっていた。
「買い出し行かなきゃですね」
「面倒くさい。UberEatsでいい」
阿部さんが投げやりに言ったその時。
バンッ!!
またしても、ドアが爆発音と共に開け放たれた。
「阿部ちゃーん! デートしよーぜー!!」
入ってきたのは、ド派手なスカジャンにダメージジーンズ、サングラスという出で立ちの美女――岡田アキさんだった。
仕事中の喪服姿とは180度違う、元ヤン全開の私服だ。
「……帰れ。俺は忙しい」
「嘘つけ、暇してんだろ? ほら行くよ!」
アキさんは有無を言わさず阿部さんの腕を掴み、椅子から引き剥がそうとする。
「離せ、ゴリラ女! どこに行く気だ!」
「合羽橋だよ! 新しい包丁が欲しいんだってば!」
「包丁? 葬儀屋がか?」
「エンバーミング用じゃないよ、料理用! あと寸胴鍋も買う! 私、今度の炊き出しで豚汁作ることになったんだよ!」
アキさんは葬儀社の地域貢献活動の一環で、定期的に炊き出しボランティアをしているらしい。見た目に反して、根は真面目で世話焼きなのだ。
「なんで俺が……」
「阿部ちゃん、道具にはうるさいでしょ? 目利きしてよ。報酬は『浅草今半』のすき焼きランチでどう?」
「……特上か?」
「特上だ!」
「……石川、上着を取れ」
阿部さんは即座に立ち上がった。
またしても食い物に釣られた。この所長、チョロすぎる。
「え、私もですか?」
「荷物持ちが必要だ。それに、お前も美味いもん食えば、その死にそうな顔も少しはマシになるだろ」
阿部さんはボソッと言って、先に部屋を出て行った。
死にそうな顔。
私はハッとして自分の頬に触れた。そんなに暗い顔をしていただろうか。
浅草・合羽橋道具街。
プロの料理人が使う調理器具の専門店がずらりと並ぶ、食の聖地だ。
巨大なコック像が見下ろす通りを、私たち三人は歩いていた。
「うわー、すげえ! 食品サンプル、本物みてえ!」
アキさんは子供のようにはしゃいでいる。
阿部さんはと言えば、刃物専門店のショーケースに張り付いて動かない。
「……このダマスカス鋼の波紋。美しい。研ぎの角度も完璧だ」
「阿部ちゃん、それ10万するよ。買わないでよ?」
「見るだけだ。……おい店主、この柳刃包丁、重心のバランスが悪いぞ。柄のすげ替えが必要だ」
阿部さんは店主に専門的なダメ出しを始め、逆に「お客さん、プロの方ですか?」と感心されている。
私はその後ろ姿を見ながら、少しだけ心が安らぐのを感じた。
賑やかな日常。
姉が生きていたら、こんなふうに休日に買い物をしただろうか。
「彩ちゃん」
不意に、アキさんが私の隣に来た。
手には、買ったばかりの巨大な寸胴鍋を軽々と抱えている。
「元気ないね」
「え? いえ、そんなこと……」
「隠しても無駄だべ。葬儀屋の目は誤魔化せねえよ」
アキさんはサングラスをずらし、真剣な瞳で私を見た。
「私たちは毎日、遺族の顔を見てる。『まだ受け入れられない顔』『後悔してる顔』『前に進もうとしてる顔』……。彩ちゃんの今の顔は、一番目のやつだ」
「……」
「立ち止まってる顔だ」
図星だった。
アキさんの言葉は、直球で、痛いほど胸に刺さる。
「……私、姉を亡くしてるんです」
「うん、聞いてる」
「3年経つのに、まだ何も整理できてなくて。……阿部さんのところで働けば、何か変わるかと思ったんですけど、怖くて」
「何が怖いの?」
「……真実を知るのが、です。姉のスマホ、まだ開けてないんです」
私は正直に打ち明けた。
アキさんは黙って聞いていたが、やがてニカッと笑って、私の背中をバンと叩いた。
「痛っ!」
「喝を入れたんだよ。……彩ちゃんさ、迷ってるなら、阿部ちゃんに任せちまいな」
「え?」
「あの陰気メガネ、性格は最悪だけど、仕事は確かだ。それに……」
アキさんは、店先で砥石を選んでいる阿部さんの方へ顎をしゃくった。
「あいつは、絶対に依頼人を不幸にはしない。どんな残酷な真実が出ても、最後には必ず『救い』を見つけてくれる。……私が保証するよ」
アキさんの言葉には、絶対的な信頼が滲んでいた。
腐れ縁の喧嘩友達。でも、誰よりも阿部さんの本質を理解しているパートナー。
「……そうですね」
「おい、何ボサッとしてる。行くぞ」
阿部さんが戻ってきた。手には最高級の天然砥石を持っている。
「次は肉屋だ。今半の前に、メンチカツを食う」
「えっ、すき焼きの前に揚げ物ですか!?」
「別腹だ。浅草メンチは飲み物だ」
阿部さんは私の悩みなど知らぬ存ぜぬで、ズンズンと歩いていく。
その広い背中を見て、私は覚悟を決めた。
今日だ。今日しかない。
事務所に戻ったのは夕方だった。
両手に食材と調理器具を抱え、私たちは地下室への階段を降りた。
室内には、大学から戻ったみずほちゃんが、ヘッドホンで音楽を聴きながらバランスボールに乗っていた。
「おかえりー。……肉の匂いがする」
「鼻がいいな。メンチカツの残りだ」
阿部さんは買ってきたメンチカツをみずほちゃんに投げ渡すと、すぐにキッチンに立った。
すき焼きランチを食べたばかりだというのに、彼は「試運転」だと言って、アキさんが買った新しい寸胴鍋を洗い始めた。
「豚汁を作る。根菜を洗え」
「えっ、今からですか?」
「道具はすぐに使って馴染ませるもんだ。それに、腹ごなしが必要だ」
無茶苦茶な理屈だが、阿部さんがキッチンに立つと誰も逆らえない。
大根、人参、ゴボウ、里芋。
根菜類がリズミカルに刻まれていく。
ごま油で豚肉を炒める香ばしい匂いが立ち上り、出汁の香りが広がる。
「……いい匂いだべ」
アキさんがビール片手にソファでくつろぐ。
この温かい空気。
私は、震える手でポケットから姉のスマホを取り出した。
ボロボロにひび割れた、古いiPhone。
「……所長」
私が声をかけると、阿部さんは鍋をかき混ぜる手を止めた。
振り返ったその目は、いつになく真剣だった。
まるで、私が言い出すのを待っていたかのように。
「……なんだ」
「依頼です。……これの、ロックを解除してください」
私はスマホをデスクの上に置いた。
アキさんが飲むのを止め、みずほちゃんがヘッドホンを外した。
地下室が静まり返る。
「……依頼人は?」
「私です。石川彩です」
「対象者は?」
「姉の……石川由紀子です。3年前、事故で亡くなりました」
名前を口にした瞬間、喉が詰まった。
阿部さんは火を弱め、デスクに近づいてきた。
そして、スマホを手に取り、割れた画面を指でなぞった。
「……3年前か。バッテリーは放電しきってるな」
「ずっと、怖かったんです。姉は事故死だって警察に言われました。でも、姉はその日、私に『話がある』ってメールを送ってきていて……待ち合わせ場所に向かう途中で、階段から転落したんです」
私は一気にまくし立てた。
「姉は、私に何を伝えたかったのか。事故は本当に事故だったのか。もしかしたら、私が呼び出したせいで死んだんじゃないか。……それが知りたくて、でも怖くて」
「……」
「でも、アキさんに言われました。所長なら、きっと救いを見つけてくれるって」
私はアキさんを見た。彼女はニッと笑って親指を立てた。
「……俺は神じゃない。救いなんて保証できない」
阿部さんは冷たく言った。
「出てくるのは、ただのデータだ。お前にとって残酷な事実かもしれない。姉がお前を恨んでいたという記録かもしれない。……それでも、開けるか?」
試すような視線。
私は深く息を吸い込み、頷いた。
「はい。お願いします。……私は、前に進みたいんです」
阿部さんは数秒間、私を見つめた後、フンと鼻を鳴らして眼鏡をかけた。
「……依頼、受理した。料金は給料から天引きだ」
「はい!」
阿部さんはスマホをケーブルに繋いだ。
電源が入る。リンゴのマークが光る。
解析ツールが起動する。
「……石川、お前と姉の仲はどうだった?」
「良かったです。両親が早くに亡くなったので、二人で支え合って……」
「なら、パスワードはお前に関する数字か言葉だ」
阿部さんは迷いなくキーボードを叩き始めた。
私の誕生日。私の名前。
次々と試していく。
「……開かないな」
「えっ?」
「単純な数字じゃない。もっと複雑な、意味のある文字列だ」
阿部さんの指が止まる。
姉との思い出。
二人でよく行った場所。好きな映画。
色々と思い浮かべるが、決定打がない。
「……所長、豚汁が煮えてます」
みずほちゃんが言った。
阿部さんは「チッ」と舌打ちしてキッチンに戻ろうとしたが、その時、画面にエラーメッセージが表示された。
『データ保護のため、あと1回の試行で初期化されます』
「……なんだと!?」
阿部さんの顔色が変わった。
セキュリティ設定が、通常より厳しく設定されていたのだ。
あと1回。
失敗すれば、データは永遠に消える。
「……おい石川。これは賭けになるぞ」
「そ、そんな……」
「ツールでの総当たりはできない。お前が『これだ』と思う言葉を、一発で当てるしかない」
究極の選択。
姉が最期に遺したかった言葉。
私と姉を繋ぐ、たった一つのキーワード。
その時、豚汁の香りが鼻をくすぐった。
根菜と味噌の、懐かしい香り。
私の脳裏に、記憶がフラッシュバックした。
――彩、今日は寒いから豚汁だよ。早く帰っておいで。
姉のメール。
事故の日も、そうだった。
姉は、私に温かいご飯を作って待っていてくれた。
話がある、というのは、深刻な話じゃなくて、ただの日常の報告だったのかもしれない。
あるいは、もっと幸せな報告。
「……所長」
「思いついたか?」
「分かりません。でも……姉が一番大切にしていた言葉なら」
私は阿部さんの手からキーボードを奪い取るようにして、文字を打ち込んだ。
それは、姉と私が幼い頃に交わした、二人だけの「約束の言葉」だった。
『Ashita_mo_Issho』
エンターキーを押す。
心臓が破裂しそうだ。
画面が暗転し、砂時計が回る。
長い、長い数秒間。
カチッ。
ロックが解除された音がした。
ホーム画面には、私と姉のツーショット写真が設定されていた。
「……開いた」
私はその場にへたり込んだ。
阿部さんが私の肩を支えてくれる。
「よくやった。……中身を見るぞ」
阿部さんが操作する。
メール、写真、メモ。
そこにあったのは、姉の日常の記録だった。
そして、最後のメモアプリに、書きかけの文章が残されていた。
『彩へ。
驚かないでね。
私、結婚することになったの。
相手は、ずっと前から話していた彼。
これでやっと、彩に安心してもらえるかな。
彩も、自分の幸せを見つけてね。
ずっと、愛してるよ』
「……結婚……?」
私は涙が止まらなかった。
姉は悩んでいたんじゃない。幸せだったんだ。
私にそれを伝えるために、急いで会おうとして……。
「……事故だったんだな」
阿部さんが静かに言った。
「事件性はない。ただの、不幸な事故だ。……だが、お姉さんは幸せだった。それだけは事実だ」
私は頷いた。
悲しいけれど、胸のつかえが取れた気がした。
姉は私を恨んでなんかいなかった。
最期まで、私のことを想ってくれていた。
「……彩ちゃん、良かったね」
アキさんが涙ぐみながら、ビールを差し出してくれた。
みずほちゃんも、無言でティッシュ箱を渡してくれる。
「さあ、飯だ。湿っぽいのは終わりだ」
阿部さんが鍋をドンとテーブルに置いた。
具沢山の豚汁。
湯気と共に、生きる力が湧いてくるような香りがした。
「いただきます!」
私たちは熱々の豚汁をすすった。
体の中から温まる。
これが、私がずっと求めていた「答え」だったのかもしれない。
でも。
阿部さんは、私たちが食べている間、モニターから視線を外さなかった。
姉のスマホの奥深くに、もう一つ、隠されたファイルがあることに気づいていたのだ。
それは、ごく小さなアイコン。
黒い鳥のようなマーク。
(……なんだ、これは? 『ファントム』の痕跡か……?)
阿部さんの表情が険しくなるのを、私はまだ気づいていなかった。
姉の死の裏に、もっと大きな闇が潜んでいることを。
けれど今は、この温かい豚汁の味だけで十分だった。
私は心の中で、姉に「ごちそうさま」と言った。




