第12話 幽霊の声とヘッドホンの少女(後編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
深夜2時。地下室には、二種類の異なる「音」が響いていた。
一つは、所長・阿部邦彦が叩くキーボードの高速な打鍵音。
もう一つは、依頼人の少女・小川みずほがヘッドホン越しに聴いている、微かな再生音だ。
「……ここ。440Hzから445Hzへ、ゆっくりピッチが上がってる」
みずほがモニターを指差す。阿部は即座にその部分を拡大し、周波数解析にかける。
「ポルタメントか。……機械的なファンなら一定のはずだが、負荷がかかった瞬間の音か?」
「違う。これは『風向き』が変わった音だよ。……おじさん、この音の発生源、特定したいんだけど」
「特定してどうする」
「行ってみる。現場へ」
みずほはヘッドホンを外し、挑戦的な目で阿部を見た。
「この音が何なのか突き止めないと、ユナの無念は晴らせない。……だから連れてってよ。デートしよう」
「……は?」
阿部の手が止まる。
「現場検証だよ。一人じゃ怖いし、おじさん車持ってるでしょ?」
「断る。俺はインドア派だ」
「えー、ケチ。イケオジと深夜のドライブ、悪くないと思うけどなー」
みずほは生意気な口調で言いながらも、その手は自身の膝を強く握りしめていた。
強がっているが、親友が死んだ場所へ行くのは怖いはずだ。
阿部は短くため息をつくと、椅子の背もたれに掛けてあったジャケットを掴んだ。
「……勘違いするな。あくまで『データの裏取り』だ」
「やった。話が分かるじゃん」
みずほが少しだけ表情を緩める。
私は留守番を命じられ、二人は夜の闇へと消えていった。
★★★★★★★★★★★
阿部の愛車は、無骨な黒のSUVだった。
助手席に乗り込んだみずほは、興味深そうに車内を見回す。
「へえ、意外と綺麗にしてんじゃん。もっとゴミだらけかと思った」
「車内は聖域だ。土足禁止にしたいくらいだ」
「面倒くさ」
車は首都高を走り、都外れの工業地帯へと向かった。
ユナさんが亡くなった廃ビルは、古い工場街の一角にあった。
到着した頃には、空が白み始めていた。
「……ここだ」
立ち入り禁止のテープが貼られた廃ビル。
その周囲は静まり返っているが、遠くから微かに機械の稼働音が聞こえる。
「みずほ。例の音は聞こえるか?」
「ちょっと待って」
みずほは車を降り、目を閉じて耳を澄ませた。
風の音、遠くを走るトラックの音、虫の声。
あらゆる音が、彼女の脳内で分解され、整理されていく。
「……聞こえる。あっち」
彼女が指差したのは、廃ビルのすぐ裏手にある、古びた金属加工工場だった。
工場の壁面には、巨大な換気扇がいくつも並んでいる。
「あの換気扇の音だ。……ボイスメッセージに入ってた『うめき声』の正体」
「確認する」
阿部はスマホを取り出し、指向性マイクアプリを起動して換気扇に向けた。
録音し、周波数を確認する。
「……ビンゴだ。120Hz周辺の定在波。さらに、羽の軸がブレているせいで生じる独特の振動音。ボイスデータの波形と99%一致する」
阿部は冷徹に事実を確認した。
心霊現象ではない。物理現象だ。
「でも、変なんだよ」
みずほが眉をひそめる。
「この工場、今は稼働してるけど……ユナが死んだ時間って、深夜の3時だよ? こんな音、してたかな?」
「工場の稼働スケジュールを確認する」
阿部はその場で工場の公式サイトをハッキング……ではなく、公開されている企業情報を検索した。
「……この工場は『8時から17時まで』の操業だ。夜間操業の届け出は出ていない。近隣への騒音配慮のため、夜間は全ての大型機械を停止している」
「やっぱり」
みずほの声が鋭くなる。
「ユナのボイスメッセージが送られてきたのは、深夜3時15分。その時間に、この換気扇が回っているはずがない」
「ああ。つまり、あのボイスメッセージは『その場で録音されたもの』ではない」
阿部が結論を口にした。
「犯人は、昼間にこの場所で『換気扇の音』を録音しておき、それをユナを殺害した後で、あたかもその瞬間のメッセージであるかのように偽装して送信したんだ」
「……アリバイ工作」
「それだけじゃない。自殺に見せかけるための演出だ。『うめき声』が入っていれば、事故か、あるいは精神錯乱による自殺だと思わせやすい」
みずほは唇を噛み締め、廃ビルを見上げた。
「……ユナは、誰かに呼ばれてここに来たんだ。そして、殺された。……許せない」
「感情的になるな。証拠は揃った」
阿部はみずほの頭にポンと手を置いた。
無造作で、少し乱暴な手つき。でも、そこには確かに温度があった。
「帰るぞ。警察に突き出す」
「……うん」
帰りの車内。
みずほは静かだった。行きのような軽口は叩かない。
阿部は何も言わず、カーオーディオのスイッチを入れた。
流れてきたのは、静かなジャズピアノだった。
「……センスいいじゃん」
「うるさいと集中できん」
「ありがと。……おじさん」
みずほは窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「私の耳、役に立った?」
「ああ。お前の耳がなければ、ただのノイズとして処理されていた。……いい耳だ」
「へへ。……そっか」
みずほは嬉しそうに笑うと、シートに深く沈み込み、眠ってしまった。
阿部はバックミラーでその寝顔を一瞥し、少しだけアクセルを緩めた。
★★★★★★★★★★★
事務所に戻ると、すぐに阿部は中島鞠に連絡を入れた。
鞠のコネクションを使い、警察に「新証拠」を提出するためだ。
工場の稼働時間とボイスメッセージの矛盾、そして阿部が解析した音声データの改ざん痕跡。これだけの証拠があれば、警察も動かざるを得ない。
数時間後。
ニュース速報が流れた。
『廃ビル転落死、一転して殺人事件として捜査』
『知人の男を任意同行』
犯人は、ユナさんの元交際相手だった。復縁を迫って断られ、逆上しての犯行だったという。
音声偽装は、ネットで調べた浅知恵だったようだ。
「……捕まったんだ」
みずほはスマホのニュース画面を見つめ、安堵のため息をついた。
「よかった。これでユナも浮かばれる」
「依頼は完了だ。報酬は……まあ、出世払いでいい」
阿部はそう言って、みずほに帰宅を促した。
しかし。
みずほはソファから動こうとしない。
「……帰らないのか?」
「……」
「おい」
「……帰りたくない」
みずほは膝を抱え、ボソリと言った。
「私、家出してんの。親とうまくいかなくてさ。……行くところ、ないんだ」
「ネカフェ難民か」
「まあね。でも金も尽きたし……」
阿部は天を仰いだ。
面倒ごとの予感しかしなかった。
その時。
カランカラン、とドアベルが鳴った。
大家の後藤かほりが降りてきたのだ。
「家賃の集金に来たわよ、阿部くん。……あら?」
かほりはソファで丸まっているみずほを見て、きょとんとした。
「新しい客? それとも……拾ったの?」
「拾ってない。居座られてるだけだ」
「ふうん」
かほりはみずほに近づき、じろじろと観察した。
みずほは警戒して睨み返す。
「……何?」
「貴女、いい目をしてるわね。野良猫みたい」
「はあ?」
「阿部くん、飼ってあげなさいよ。猫が一匹増えたって変わらないでしょ」
「人間だぞ! 猫と一緒にするな!」
「どっちも手がかかるのは同じよ。……それに、この子、音に敏感なんでしょ? 私の店の床鳴り、直す手伝いしてくれたら、家賃に色つけてあげるわよ」
かほりはウィンクをして、去っていった。
まさかの大家公認。
阿部はがっくりと肩を落としたが、みずほのお腹が「グゥ~」と鳴る音を聞いて、諦めたようにキッチンへ向かった。
「……食うか」
「え?」
「腹が減ってるんだろ。何か作ってやる」
阿部が取り出したのは、厚切りの食パンと、卵、牛乳、そしてバニラエッセンスだった。
ボウルで卵液を作り、パンを浸す。
ただ浸すのではない。フォークでパンに無数の穴を開け、真空パックのような手つきで短時間で芯まで染み込ませる。
「弱火でじっくり焼く。焦げ目はメイラード反応の旨味だが、焦げすぎは苦味になる」
バターの芳醇な香りが地下室に充満する。
フライパンの上で、黄金色のパンがふっくらと膨らんでいく。
最後に、粉砂糖とメープルシロップ、そしてアクセントにシナモンパウダーを振る。
「……特製フレンチトーストだ。食え」
差し出された皿を見て、みずほの目が輝いた。
カフェで出てくるような、ふわふわのフレンチトースト。
「……いただきます」
ナイフを入れると、カリッという表面の音と、ジュワッという中の音がする。
口に運ぶ。
途端に、みずほの表情がとろけた。
「……んんっ! 何これ、飲み物!?」
「噛めよ」
「すごい……甘くて、温かくて……」
みずほの目から、ポロポロと涙がこぼれた。
親友を亡くし、家もなくし、ずっと張り詰めていた糸が、甘いトーストの熱で切れたようだった。
「……美味しい。すごく、美味しい……」
「そうか。なら、働け」
阿部は無愛想にコーヒーを啜った。
「食費と光熱費分は働いてもらう。お前のその『耳』、使い道はありそうだ」
「え……?」
「音声データのノイズ除去、動画編集、あとSNSの運用。……やれるか?」
みずほは涙を拭い、顔を上げた。
その顔には、先ほどまでの捨て猫のような怯えはなく、居場所を見つけた安堵の色があった。
「……やる。私、そういうの得意だし」
「よし。採用だ」
私は思わず拍手してしまった。
みずほさんは照れくさそうに笑い、最後の一切れを口に放り込んだ。
「よろしくね、店長。……あ、あと彩お姉ちゃんも!」
「お姉ちゃん!?」
私は驚いたが、悪い気はしなかった。
こうして、デジタル・アーカイブス社に、生意気だけど耳の良い、最年少のアルバイトが加わった。
阿部さんが焼くフレンチトーストの甘い香りと、子猫の鳴き声。
地下室はまた少し、賑やかになりそうだ。




