第10話 デジタルタトゥーの削除依頼
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
この場所には、今日も切実な祈りと、やり場のない怒りが持ち込まれていた。
「……息子は、殺されたんです。ネットの奴らに」
依頼人の初老の男性・小野寺さんは、充血した目で訴えた。
その横には、遺影を抱いた奥様がうつむいて座っている。
遺影の中の青年は、まだ20代前半。優しそうな笑顔を浮かべている。
「息子の健太は、ある日突然、SNSで『犯罪者』扱いされました。痴漢の冤罪でした。警察では無実が証明されたのに、ネット上では『こいつが犯人だ』と顔写真や住所、職場まで晒されて……」
「……」
「会社も解雇され、再就職も決まらず、毎日誹謗中傷の電話がかかってきました。そして先週、息子は……自ら命を絶ちました」
小野寺さんの声が震える。
奥様がすすり泣く声が、地下室の冷たい空気に響く。
「息子が死んでも、ネットの書き込みは消えません。それどころか『逃げた』『死んで詫びた』と、さらに酷いことが書かれています。……阿部さん、お願いです。このデジタルタトゥーを、息子の汚名を、消してください」
所長の阿部邦彦は、黙ってキーボードを叩いていた。
モニターには、おびただしい数の検索結果が表示されている。
『小野寺健太 痴漢』『前科』『住所特定』……。
まとめサイト、掲示板、SNS。悪意のコピー&ペーストが、無限に増殖している。
「……個別の書き込みを削除要請しても、イタチごっこだ。コピーサイトが自動生成される仕組みになってる」
「そんな……じゃあ、もう一生このままなんですか?」
「通常ならな。だが、火元を断てば話は別だ」
阿部さんは眼鏡を外し、鋭い眼光でモニターを睨んだ。
「この炎上は、自然発生的なものじゃない。組織的に拡散されている。……PV稼ぎのための『炎上マーケティング』だ」
「マーケティング……? 金のために、息子を殺したというんですか!?」
「ああ。人の不幸は蜜の味、そして金のなる木だ」
阿部さんは吐き捨てるように言うと、スマートフォンを取り出した。
「石川、留守番だ」
「えっ? 阿部さん、どこへ?」
「デートだ」
「は?」
私が聞き返す間もなく、阿部さんは電話をかけた。
「……おい、古狸。暇してるか? ……ああ、ドレスコードありの店だ。一番高い服を着てこい」
電話の相手は、間違いなくあの中島鞠さんだ。
阿部さんは電話を切ると、ジャケットを羽織り、髪を整え始めた。
いつものパーカー姿ではない。オーダーメイドの漆黒のスーツだ。ネクタイを締め上げる姿は、悔しいけれど様になっている。
「小野寺さん、3日ください。ネットの海から、息子さんの名前を綺麗に消して見せます。……その代わり、報酬は高いですよ」
「構いません! 全財産払ってもいい!」
阿部さんはニヤリと笑うと、私に「店を閉めとけ」と言い残し、風のように去っていった。
★★★★★★★★★★★
夜の六本木。
煌びやかなネオンが交錯する街に、場違いなほど洗練された男女が並んで歩いていた。
阿部邦彦と、中島鞠だ。
「……で? 急に呼び出して何よ、阿部ちゃん」
鞠は、背中の大きく開いた真紅のイブニングドレスに、毛皮のショールを羽織っていた。
その美貌は、すれ違う人々が思わず振り返るほどだ。
しかし、その表情は不機嫌そのものだった。
「せっかくのエステの予約、キャンセルしたのよ。この埋め合わせは高いわよ?」
「必要経費で落とせ。……今日は『IT企業の社長と、その愛人』という設定だ」
「誰が愛人よ。姉と弟にしなさい」
「無理があるだろ。その色気で」
阿部が軽口を叩きながらエスコートしたのは、会員制の高級クラブ『ヴェルベット』だった。
重厚な扉の向こうには、シャンデリアが輝く別世界が広がっている。
「ここ、会員権だけで300万はする店よ。どうやって入るの?」
「会員名簿をハッキングして、休眠会員のIDを拝借した。俺たちは今日だけ『田中夫妻』だ」
「犯罪者ね」
「必要悪だ」
ボーイに偽の会員証を見せ、二人は奥のVIP席に通された。
革張りのソファに座ると、すぐに高級シャンパン『ドン・ペリニヨン』が運ばれてくる。
「……で、ターゲットは?」
鞠がグラスを傾けながら、小声で尋ねる。
その目は、獲物を狙う猛禽類のように鋭い。
「あそこのボックス席だ。金髪の男がいるだろ」
阿部が視線だけで示した先には、派手なスーツを着た若い男が、数人の取り巻きと美女に囲まれて騒いでいた。
「あれは『GIGAトレンド』の代表、権藤。表向きはWEBマーケティング会社の社長だが、裏では無数の『炎上まとめサイト』を運営している元締めだ」
「なるほどね。デマを拡散して、広告収入でシャンパンタワーってわけか。……吐き気がするわね」
鞠が冷ややかな視線を送る。
阿部はスマホを取り出し、テーブルの下で操作を始めた。
「今からあいつのスマホに侵入する。Wi-Fi経由でバックドアを仕掛ける」
「その間、私が時間を稼げばいいのね?」
「ああ。10分だ。あいつをこの席に釘付けにしろ」
「任せなさい。……男を落とすのは、パスワードを解くより簡単よ」
鞠は妖艶に微笑むと、グラスを持って立ち上がった。
彼女は計算された足取りで権藤の席へと近づいていく。
ドレスのスリットから覗く白い脚。揺れる髪。
権藤が彼女に気づき、鼻の下を伸ばすのが見えた。
「あら、ごめんなさい。……素敵な時計ね」
鞠の声が聞こえる。
彼女は権藤の隣に座り込み、あっという間にその場の中心になっていた。
男たちの視線を独占し、巧みな話術で権藤を得意にさせている。
さすが情報屋。ハニートラップもお手の物か。
阿部は舌打ちをしつつ、手元のスマホに集中した。
画面には、緑色の文字列が高速で流れている。
権藤のスマホが、店のフリーWi-Fiに接続されているのを確認。
セキュリティホールを突き、管理者権限を奪取する。
「……ビンゴだ」
権藤のクラウドストレージには、『拡散案件リスト』というフォルダがあった。
その中には、今回の依頼人である小野寺さんの息子の名前も入っていた。
『痴漢冤罪・拡散プラン:30万円』『追撃記事・特定班投入:追加20万円』。
人の人生を破滅させた対価が、たったこれだけの金額で取引されていたのだ。
怒りで指が震えそうになるのを抑え、阿部はそのデータを全て自分のサーバーにコピーした。
さらに、権藤が運営する全てのまとめサイトの管理者パスワードも抜き取る。
「……終わりだ」
阿部は顔を上げた。
ちょうど10分。
鞠がこちらを見て、ウインクをした。
彼女は「連れが待っているから」と権藤の手を振りほどき、優雅に戻ってきた。
「どう? 抜けた?」
「ああ。骨までしゃぶり尽くした」
「じゃあ、帰りましょうか。あいつの口臭、ドブの匂いがして限界だったわ」
二人はシャンパンを一口も飲まずに席を立った。
店を出て、夜風に当たる。
阿部はスマホを操作し、最後の仕上げを行った。
「何をするの?」
「『逆SEO』だ。あいつが持っている全てのサイトのデータを書き換える」
阿部がエンターキーを押した瞬間。
ネット上の何百というまとめサイトの記事が、一斉に書き換わった。
小野寺健太さんの悪口が消え、代わりに表示されたのは――。
『運営者・権藤〇〇の詐欺の手口』
『脱税の証拠』
『違法薬物売買の記録』
阿部が抜き出した権藤自身の犯罪の証拠が、彼自身のサイトで拡散され始めたのだ。
「デジタルタトゥーは消せない。……だから、より強烈なタトゥーで上書きするしかない」
「目には目を、炎上には炎上を、ってことね」
鞠が楽しそうに笑う。
数分後、店の中から権藤の悲鳴が聞こえてきた。
自分のスマホに通知が殺到し、全てを失ったことに気づいたのだろう。
「……行くぞ」
「ええ。最高のデートだったわ」
二人は背後で巻き起こる騒ぎを振り返ることもなく、六本木の闇に消えていった。
★★★★★★★★★★★
翌日。
事務所には、晴れやかな顔をした小野寺さん夫婦の姿があった。
「ありがとうございます……! 息子の悪口が、全部消えています……!」
「代わりに、あの業者の悪事がニュースになってますね」
私がタブレットを見せると、小野寺さんは涙を流して喜んだ。
阿部さんはいつものパーカー姿で、興味なさそうにコーヒーを啜っている。
「データは消しました。これで息子さんも安らかに眠れるでしょう」
「本当に……本当にありがとうございました」
小野寺さんが帰った後、事務所のドアが開いた。
私服姿の鞠さんだ。今日はラフなジーンズにサングラス姿。
「お疲れ。昨日の報酬、請求しに来たわよ」
「金なら振り込んだはずだ」
「お金じゃないわよ。……これ」
鞠さんは、コンビニの袋から缶ビールを取り出した。
「昼から飲むのよ。付き合いなさい」
「……仕事中だ」
「いいじゃない。昨日の『愛人役』の延長料金よ」
阿部さんはため息をつきながらも、冷蔵庫から自分用のビールを取り出した。
プシュッ、と小気味良い音が二つ重なる。
「……ねえ、阿部ちゃん」
「なんだ」
「あんた、昨日の権藤を見て、昔の自分を思い出した?」
「……まさか」
阿部さんは視線を逸らした。
「嘘ね。あんたが警察を辞めた理由……『正義のためのハッキング』が、組織に潰されたからでしょ?」
「……昔の話だ」
「昨日のあんた、楽しそうだったわよ。久しぶりに『正義の味方』ができて」
鞠さんは悪戯っぽく笑い、阿部さんの肩を叩いた。
阿部さんは無愛想にビールを煽ったが、その横顔は少しだけ穏やかに見えた。
「おい石川、お前も飲め」
「えっ、いいんですか?」
「大家に見つかったら家賃が増えるから、今のうちだ」
私も加わり、三人で乾杯した。
デジタルタトゥーという消えない傷。
けれど、それを癒やすことができるのもまた、人の手による「上書き」なのかもしれない。
阿部さんと鞠さんの間にある、言葉にしなくても通じ合う信頼関係。
それが少しだけ羨ましく思えた。




