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中編

 翌年、十六歳になった王太子ヘンリーは、セシルと婚約した。


 最有力候補のブリンストン公爵令嬢と、クリスティーナ・ヒギンズ侯爵令嬢を押しのけ、その妹のセシル・ヒギンズ侯爵令嬢を婚約者としたのだ。


 ヘンリーは国王夫妻の第一子で、正当な血筋だ。


 しかしこの国の力は弱く後ろ盾は必須。率直に言って、王族より貴族のほうが力を持っている。


 政治的判断ではブリンストン公爵家を選ぶ以外の道はなかった。


 議会も混乱し紛糾したが、ヘンリーは次期国王として、「どれか一つの家に頼るのではなく、皆で力を合わせた国を造り上げたい」と演説した。

 その演説は人々の心を打ち、涙するものもいた。号外が出るほど宣伝され、後世に伝えられるものとなり、一部の熱狂的な支持者が後押ししたのだった。


 それでもブリンストン公爵が後ろ盾になるよう、首脳部が話をしたが、公爵はもう少し時が熟すのを待ちたいと言い、その「時」というのがなんなのかは言葉を濁すばかりであった。




 ヒギンズ侯爵は混乱した。

 ヒギンズ侯爵家は、王太子妃候補としてクリスティーナを挙げ。跡継ぎは養子を取る予定だった。だからセシルのことはあまり考えていなかったのだ。なぜならセシルは無能で怠け者で愚かだからだ。

 政略の駒として使うには、慎重にならなければいけなかった。


 それが王太子と婚約するなんてと慌てた。

 表だって娘を悪くは言えないが、「セシルでいいのですか」と何度も確認した。



 婚約が調うと、クリスティーナが「王太子に申し訳ない」と泣くようになった。

 不出来な妹が迷惑をかけることに、さめざめと涙をこぼすようになったのだ。


 婚約した後、しばらくは何事もなかった。

 それというのもヘンリーは本心ではセシルに興味がないからだ。

 だが婚約者とまったく会わないというのは外聞が悪く、月に一回面会をすることになった。


 忙しいヘンリーに会うために王城から馬車が迎えに来ると、姉のクリスティーナはさりげなくセシルに同行しようとした。


 理由は「王城のお父様に会いに行くから」「王城のお友達に会いに行くから」「あなた心細いでしょう」など、いろいろ言われたが、なにをどうしても規則で同乗はできない。


 その次に、先に王城に着いておいて、後からきたセシルに同行しようとした。

 しかしこれも警備体制の問題でできなかった。


 セシルがヘンリーと気安くて、クリスティーナを加え友だちのような関係を作っていたら、可能だったかもしれない。

 だが、そもそもヘンリーはセシルに気を許してすらいなかった。


 どうにかしてヘンリーに近づこうとしたクリスティーナは、セシルがヘンリーを紹介してくれないと両親に泣きついた。

 しかし両親の反応も鈍かった。

 なぜならセシルの評価は、クリスティーナの手によって地の底まで落とされている。

 そのセシルがヘンリーに口利きしたからと言って、どうにかなるとは思えなかったのだ。

 クリスティーナが冷たいとまわりにこぼすと、「セシル様は元々そういうお方なんですよね?」と口を揃えた。



 ◇◇◇◇◇◇



 そして十六歳になった王太子とクリスティーナは、王立学院に入学した。


 クリスティーナは猛勉強し優秀な成績を取った。

 提出物や下調べなど面倒なことは、近頃熱心に協力してくれるセシルにすべてやらせ、その結果高い評価を受けている。


 そして空いた時間で王太子に接近したのだ。


 王太子は生徒会に入り、側近候補としてシモンズ伯爵令息、ギギ侯爵令息を並べている。


 婚約者候補だったブリンストン公爵令嬢と、その従姉妹のパウネス伯爵令嬢も入学していたが、どういうわけかパウネス伯爵令嬢だけが生徒会に残っていた。

 ブリンストン公爵令嬢は王太子と親しいはずにもかかわらず、あまり姿を現さなかったのだ。しかしパウネス伯爵令嬢とは歓談する姿がよく見られた。


 王太子は人好きがする好青年で、学院では王子という点をのぞいても人気者だった。


 勉強も運動も優れていて、男性からも女性からも慕われている。


 人の話をよく聞き、目下の者の面倒を見て、誰かの役に立とうとする姿勢は名君の到来とまで言われたのだ。


 しかしプライベートではあまり身近に人を置かない面もあった。



 クリスティーナは生徒会に入り、周囲が驚くほどの短時間で王太子と親しくなった。



 多少気難しいところもある王太子の機嫌を取るのが、クリスティーナは絶妙にうまかったのだ。


 クリスティーナは王太子が心の中で望んでいる回答がわかり、王太子の中に流れている空気を読むのが天才的だった。


 あっという間にクリスティーナは王太子のお気に入りになり、集団でいても、二人で話が盛り上がるようになっていく。

 次第に周囲は王太子の機嫌取りを、クリスティーナに任せるようになった。

 王太子はクリスティーナと話している時は、目を輝かせ、楽しそうにしている。ふだんのぴりぴりした空気はなく、リラックスしていた。


 そのうち、つねに側に置くようになっていったのだ。



 二人の親密さは噂になり、才媛クリスティーナとその妹無能なセシルの噂も相まって、社交界で持ちきりになった。



 その翌年、セシルと一歳年下のジャックが入学する。



 ジャックは早く辺境伯領に戻りたいという理由で、一年早く入学していたのだ。


 二人が入学した時、ヘンリーは二人の仲を、クリスティーナはセシルを見る周りの目に注目していた。


 しかしセシルはジャックを見つけると、ぺこりと会釈しただけだった。

 ジャックはセシルに気がつかなかったらしく、会釈されて顔を向けたあと、「誰だっけ」という顔をしたのだ。


「……は?」


 ヘンリーはめずらしく変な声をもらした。


 その後も校内で顔を合わせても、「あ、どーも」という反応だ。

 ヘンリーは肩透かしを食らっていた。


 セシルは、優秀でなんでもそつなくこなす麗しのクリスティーナの、無能で愚かな妹という噂がすっかり定着した頃に入学した。実際は優秀であり、四クラスある中で一番の一クラスに入った。しかしそのクラスは王族や公爵家、辺境伯家などが集まるため、セシルは王太子の婚約者だから入ったのだろうと最初は思われていたのだ。


 クラスには同い年の第一王女アンが所属している。

 アンとは結婚すれば義理の姉妹になるのだからと、早い内に側に置いていただけるようになった。


 アンは愛されて育った子どもに見られる鷹揚な面があり、つねに誰かの役に立とうとする生まれついての「尊きお方」だった。

 気難しいヘンリーもアンのことは手放しで可愛がる所があったのだ。

 アンは皆に敬愛され、セシルも在学中はつねに付き従っていた。


 ジャックは子どもの頃から王城にも出入りしていたため、高位貴族とは面識があった。すぐに仲良くなり、男同士では打ち解けて話をするようになったが、セシルに対してはまったく関心がないようにふるまっていた。


 セシルが愚かという噂はすぐに打ち消される。

 教師陣のセシルへの態度、授業への受け答え、どれをとっても優秀だった。



 セシルとジャックは、味方の少ない王都の学校で、自分の役割を実直にこなしていたのである。



 ◇◇◇◇◇◇



 セシルとヘンリーとの関係は、つねに薄氷を踏む思いだったが、クリスティーナの置き土産が役に立ってくれていた。


 クリスティーナは当然のように、セシルの悪評をヘンリーに吹き込んでいたからだ。


 ある時、ヘンリーとのお茶会で、彼は下を向きながら言った。


「君のお姉さんと、よく学校で一緒になるよ。とても優秀だね。それに美しい。ああ、……もちろん君に似てね」


 言い終わるとヘンリーはちらりとセシルを見る。


 その時、なぜかセシルはヘンリーのほしいものがわかった。

 セシルの勘では、セシルがかなわない姉の話が出たことに驚き怯え、悔しく思い、そしてヘンリーがセシルではなく姉をほめたことに、傷ついた表情を浮かべるのが正解だとわかったのだ。


 だがセシルはヘンリーとの婚約を続けたいわけではない。

 むしろ不本意だ。だからヘンリーの望むとおりに振る舞って気に入られたいわけではなかった。

 それならば。


「わー、ありがとうございます。そーなんですよ。姉はとっても優秀で」


 セシルは無能だと宣伝されている。

 愚か者で結構。

 脳天気なふりをしてにこにこした。


 ヘンリーはあきらかに不機嫌になった。クリスティーナと親しくなってからは、自分の機嫌を隠そうとしなくなっていたのだ。


「お姉さんから君の話を『よく』聞いているよ」


 次にヘンリーは薄笑いを浮かべて、含みをもたせて言った。


 ここはヘンリーに馬鹿にされたことにむっとし、うわさ話の内容を気にして身を乗り出すのが正解だ。

 だからセシルはこう言った。


「わー、ありがとうございます。ほめてもらえるなんて嬉しいです」


 ヘンリーの顔にあからさまな侮蔑の表情が浮かんだ。


 だがセシルは馬鹿にされても気にしない、いやそもそも気づかないふりをした。

 噂の内容なんて気にしない。

 空気なんて読まない。


 セシルは当たり障りのないことしか言っていないのに、なぜかヘンリーはいらいらしているようだった。

 その顔に、あまりにも頭の回転が悪い女に対する蔑みが浮かんでいる。



 ヘンリーの前で愚かなふりをする作戦はうまく行っていた。

 不思議なことにあれだけ勘が鋭いヘンリーが、気づかないのだ。


 ヘンリーはプライドが高すぎて、人が自ら愚かなふりをすることが、想像できないという面もある。

 しかしそれ以上に、相手が自分の思いどおりに動かなかった時に感じる苛立ちと、空気を読めない相手への侮蔑の感情が強すぎて、頭が冷静に働かなくなるのではないかと思われた。


 ヘンリーはつねに「自分がどう思うか」「自分がどう感じるか」と、「自分」を中心に考えている。「自分」の思いどおりに動かない相手を見ると、まるでひどい侮辱を受けたように強い怒りを感じるのだ。ヘンリーの世界には「自分」しか存在しないのだった。




 それにもかかわらず、セシルとヘンリーの婚約はなかなか解消されなかった。


 この状況に胃が弱い父親のヒギンズ侯爵は、「王太子殿下のお心がわからない」と寝込むようになっていったのだ。


 学院でもつねにセシルとジャックは、ヘンリーのじっとりとした視線を感じていた。

 そしてその表情から、セシルとジャックが通じ合っていることに、確信を持っているようだった。


 ヘンリーにはわかるのだ。人が心の中に隠している秘密が。


 しかしさすがにセシルの愚かさに時間を割くのが、ヘンリーはばからしくなってきた。

 ジャックへの憎しみのためとはいえ、自分の結婚生活を犠牲にする気もなかったのだ。


 そしてそんな心の隙間に、クリスティーナは見事に入り込んで、勝ちどきを挙げた。



 ◇◇◇◇◇◇



 ヘンリー王太子とクリスティーナが十八歳になり、学院を卒業する年、セシルとジャックは第二学年の終わりを迎えた。


 そしてヘンリーから正式に、セシルとの婚約を解消したいという申し出があったのだ。


 学院の中ではヘンリーとクリスティーナの仲は公認となっており、その話をいまや多くのものが待ち望んでいた。


 王太子妃という重要なポストに、クリスティーナという爆弾を投げ込むのは良心が咎めるが、セシルもほっとする気持ちが強かった。




 王城に呼び出され、国王陛下夫妻、ヘンリー、妹のアン、弟ジョンとジョージが待っていた。

 ジョンは十三歳、ジョージは十一歳になり、すっかり威厳を感じさせる。


 ヒギンズ侯爵、セシル、クリスティーナが礼をとる。


 国王夫妻はセシルに対するこれまでの詫びから話し始めた。


 もともとは、優秀なブリンストン公爵令嬢か、次点でクリスティーナを婚約者とする予定が、ヘンリーの強い希望でセシルになったという。


 しかしクリスティーナの優秀さに、セシルがかなうとは思えないという意見が多く、ましてや次期王妃の重責を担うのは難しいだろう、と閣議で決まったそうだ。


 状況は最初から最後までなにも変わっていない。

 セシルの評価も、クリスティーナの評価も変わっていないのだ。


 要するに変わったのはヘンリーの『おこころ』だけだ。


 言葉を濁しながらも、言っていることはそうだった。




 話を聞いている間、ヘンリーは冷めた目でセシルを見ていた。


 ヘンリーは、この婚約者の変更がなにか問題になるとは思わなかった。

 しかし、のちのヘンリーの評価を大きく下げることにつながった。


 ヘンリーは周囲の強い反対を押し切って、「無能」なセシルという婚約者を選んだ。

 王子といえども人間だ。「恋は盲目」というからしょうがないだろうと、まわりに受け止められたのだ。セシルの身分が問題ない点も大きかった。

 またその時点ではヘンリーの評価は高かったため、ヘンリーがフォローすればいい、とも思われていた。


 しかしその直後から、学校でその姉クリスティーナを恋人のように扱い、最終的には結婚したのだ。

 ヘンリーが男性のため、あまり不実は問われなかったが、同時に姉妹二人と進行していた印象は強く残った。


 そしてブリンストン公爵令嬢という政治的本命を退けてまで、クリスティーナを選んだ。

 それなのに、そのクリスティーナが後に王宮に入ると、どういう訳かそのまわりから次々と人が辞めていったのだ。クリスティーナの人望のなさが浮き彫りになった。


 セシルとの婚約がなければ、「運が悪かった」のだろうと、ヘンリーに同情が集まったはずだ。だがセシルと、クリスティーナと二人続けて「無能」を選んだのだ。

 ヘンリーには「まわりの意見を聞かない」、「人を見る目がない」という低い評価がついて回ることになるのである。




 広間には国王の声が響いていた。

 ヒギンズ侯爵がさりげなく胃をおさえる姿が、セシルの目に入った。


 国王夫妻の婚約解消についての戯れ言を聞いている間、セシルは涙をたたえた目で、うつむいていた。

 といっても、まわりにその涙が見えるように絶妙な角度を維持している。


 クリスティーナに育てられ、ヘンリーに鍛えられたセシルは、この二人には決して「勝ってはならない」と肝に銘じていた。


 ヘンリーとクリスティーナから、「哀れな女」と思われないといけないのだ。


 セシルの涙を見てなにか勝手に解釈したらしい国王夫妻が、申し訳なさそうな顔をしている。

 ヒギンズ侯爵家にそれなりの慰謝料を払おうにも、国庫はぎりぎりだ。


 なにか希望はあるかと聞かれたセシルは「侯爵領で冷害が起きた話」をし、神殿で研究されている「寒さに強いイネ」と「塩」をお願いした。

 侯爵はヒギンズ侯爵家のためだろうと思い込み、隣で「なるほど」とうなずいている。

 ブラックウッドは毎年豊作だが、だからこそ不作への備えや、品種改良の研究が足りないことがセシルには気がかりだったのだ。


 クリスティーナに「セシル、あなたは、本当は優秀なはずよ。自信を持って」と慰められた。

 ヘンリーもなにか素敵な言葉を言っていたが、内容がなかったため記憶に残らなかった。




 帰り際、アン王女殿下に呼び止められる。


「ごめんなさい、兄が……」


 暗い顔をしたアン王女殿下を見て、セシルはなんと言っていいか迷った。


「殿下。

 もしこれ以上耐えられないと思うことがありましたら……、

 逃げちゃってもいいと思うわ」


 アンは、別れ際にセシルに言われたその言葉の意味を、後で知るのだった。



 ◇◇◇◇◇◇



 ヒギンズ侯爵とセシルが自宅に戻ると、ブリンストン公爵からの使者が待っていた。


 ブリンストン公爵家が本来、王太子と縁組みをするところを、ヒギンズ侯爵家が横取りしてしまったことを責めにきたのだ。

 今後もブリンストン公爵家が、王太子とヒギンズ侯爵家の後ろ盾を続ける条件に、セシルを行儀見習いに寄越すことと告げられる。セシルの縁組みも公爵家に利することになったのだ。


 セシルになんら価値を見いだしていなかった侯爵は、公爵家とのいくつかの取り決めと引き換えに、セシルの身柄を引き渡すことにした。


 クリスティーナが王家に縁づき、セシルがブリンストン公爵家に縁づいたことで、父親のヒギンズ侯爵はがっくりと老け込んだ。

 クリスティーナが散々おとしめていたため、セシルの存在は侯爵にとっての胃痛の種だった。

 そのセシルが王太子の婚約者となったことは、侯爵にとって足下にいつ爆発するかわからない爆弾を投げこまれたのと変わりない。


 三年間、毎日、胃薬を手放せないほど苦しんでいたのだ。


 案じていた通り、セシルと王太子との仲はいっこうに進展せず、おまけに学院ではもう一人の娘クリスティーナが王太子と親密な関係になり、その件を王太子はいつまでたってもはっきりさせずに宙ぶらりんにしていた。

 それがやっと片付いたのだ。


 これでやっと一息つけると思った侯爵は、その晩、心労から血を吐いて倒れた。

 その結果、医師と周囲のすすめで、侯爵は田舎にこもることになったのだ。

 前から養子の選定を進めていたが、自分自身の体のこともあり、いっそ侯爵家を弟一家に引き継ごうと考えたからだ。


 侯爵が体を壊すほど心配したセシルの無能さは、クリスティーナが作り上げたものであり、実在しないものだった。

 この一件でクリスティーナは父親という権力ある庇護者を失い、なにかあれば迎えてもらえるはずだった暖かい実家を実質的に失うことになったのだ。



◇◇◇◇◇◇



 セシルは侯爵家を出ることになり、忙しく挨拶回りをしていた。

 時間がないため、駆け足だ。だが準備はとっくの昔にできている。

 親戚に、数少ない友だち、そしてこの家で自分を支えてくれた人たちの間を回った。


 確かに姉に悪評を流され、使用人にまで悪口を言われる始末だった。

 だが大勢いる使用人のすべてが、セシルに冷たい対応だったわけではない。

 護衛のテリーのように親切にふるまってくれる人もいたのだ。


 ただ誰が味方……敵というほどでもないのかは、わからない。

 セシルは家令に頼んで自分の財産から、使用人に一時金をだした。

 セシルの生活を支えてくれたことへの感謝の気持ちだ。



 テリーがばたばたと追いかけてきた。


「セシルお嬢様、どちらへ行かれるんですか」

「ブリンストン公爵家よ。そこで行儀見習いになるの」


「その後はどこへ行かれるんですか?」

「まだ言えない」


「いつ教えてくれますか?」

「どうしたの? テリー、そんなの聞いてきて」


 テリーはぐっと腰を下げると、セシルに目線を合わせた。


「俺たちがこんなくだらない家で働いていたのは、セシルお嬢様がいたからです。

 お嬢様がどこかへ行かれるなら、どこへでもついて行きます」


 とつぜんの申し出にセシルは困惑した。


「で、でもここはお給金もいいし、安全だし」

「どうだか。これだけ国が弱ければ王都の治安だってなんともいえませんよ。国境沿いだってきな臭いし。

 要するに命をかけるんだったら、信頼できる主人の下にいたいってことですよ」


 セシルはなにも知らされていないはずの庶民が、政治情勢を読み解く力に舌をまいた。

 確かにこの国の力は衰退している。各領地はそれぞれの防衛に手一杯で、いざ戦となっても、援軍を送る余力などどこにもないだろう。


 だがブラックウッドは国境沿いの危険な土地だ。

 だからこそテリーに気軽に打ち明けづらかった。

 しかしテリーがセシルの目をじっと見つめてくる。それを見て、小さい頃さびしがったセシルを、ごついテリーが優しくあやしてくれたのを懐かしく思い出し、胸が一杯になった。


「どこに行くかは言えないけど、どこに行きたいかは決まっているの。

 ブラックウッド辺境伯領よ」

「遠いな。王都より守りが堅いって噂ですから、なんなら先に行って待ってますよ」


 セシルは公爵家までの馬車の手配をし、少ない荷物をまとめた。

 一週間後、馬車は出発したが、途中の道で盗賊に襲われ、馬車は川に落ち、乗客の死体も上がらなかった。



 ◇◇◇◇◇◇



 テリーは家令に辞職を願い出た。


「辞めてどうします?」

「ブラックウッドに家族で移住しようと思って」


 正直に告げると、厳格な家令がふっと笑みを浮かべた。


「それならもう少し待ってほしいですな。今月は辞めるものが多くて。みなさん、あなたと同じ所に行くでしょう」

「どういうことですか?」


 セシルが侯爵家を出されたと聞いた使用人たちの何割かが、魂が抜けたようになり、「辞めたい」と言いだしたのだ。

「唯一の癒やしが」

「もう嘘つくの嫌」

「ずっと気を張ってるなんてできない」

 など、わけのわからないことを呟いているらしい。

 とくに下級使用人と呼ばれるものに多かった。


 またテリーを始め護衛の兵士たちは、セシルとともに過ごした時間が長い。

「俺たちのセシル様が」

「推しの成長を見届けたい」

 など、意味のわからないことを呟いているらしい。


 テリーは辞めたいという人々を集め、ブラックウッドに移住することにした。

 結構な人数に登り、その家族も含めるとなると、一大キャラバンを組むことになった。


「金が足りねえ」

「これだけの人数で移動されるなら、お金をだしあえばいいと思いますよ。それにセシル様からいくらか預かっています。

 あ、ブラックウッドに行くなら、防寒着が必要だそうです。また移住者は最初の冬は重い風邪をひくと聞きますから、薬も持って行ってください」

「金がいくらあっても足りねえな」


 テリーと家令はどうやって工面するか、節約するかを話し合った。


 その結果、テリーたちは、ブラックウッドに向かう行商人と契約し、彼らを護衛することで安く薬や日用品を手に入れ、旅を楽に運んだ。

 また王都では革製品は高価なため、旅の間に自由猟が保証されている場所で積極的に狩りをし、素材の売買を行った。


 行商人が情報や経験を提供する代わりに、テリーたちは労働力を提供した。


 簡単な旅ではなかったが、目的がはっきりしていたため、協力し合い乗り切ることができたのだ。


 ブラックウッドに着くと、多めに購入しておいた薬や日用品を売ることで、当面の生活はしのげたし、求人が多くほとんどのものがすぐに仕事が見つかった。


 のちに連絡を受けたセシルはとても喜び、移住者に声をかけて回った。


 ブラックウッドのセシルは自信を持ち、とてもほがらかな性格に変化していて、「良かった」と涙ぐんで再会を喜ぶものが多かった。


 ブラックウッドは王都に比べると活気がある街で、陽気で明るい人々が多い。


 王都からの移民と言うことで色眼鏡で見る人もいたが、元護衛が多くいたテリー一行は割とすんなり溶け込んだ。

 強さに敬意が払われる土地だからだ。


 しかし地元の人と仲良くやろうとすると、一つだけ問題があった。

 この土地では酒に強いのが一人前という風潮があり、よそ者の多くは手痛い洗礼を受けた。晩年のテリーも「これさえなければ」と何度もこぼすほどだったという。



 ◇◇◇◇◇◇




 ヒギンズ侯爵家を出発したセシルは、公爵家の護衛二人だけを連れて、馬でブリンストン公爵家についていた。

 男装して着の身着のまま、街道を駆け抜けてきたのだ。

 すっかり様になった手つきで、馬丁に馬を渡し、公爵のいる部屋に入ってきた。


 公爵は満面の笑みで迎えてくれる。

「女性の成長は早いね。すっかり女らしくなって」

 言外に「たくましくなって」と言いたくて、うずうずしているのが伝わってきた。


 遅れてジャックが部屋に飛び込んできた。


「心配してたよ。今迎えに行こうと」


 それまで平然とまわりに対応していたセシルが、急に真っ赤になって、両手で距離をとった。


「お風呂入れなかったから。側によらないで。ジャック」

「そんなのぜんぜん気にしなくていいのに」


 公爵家の侍女がさっと割って入り、セシルを風呂場に連れて行った。

 セシルは侍女の手を握って、「救世主様」と言っている。


「気にならないのに」


 置いて行かれてしょんぼりしていたジャックを、公爵はたしなめた。


「いいですか。夫婦の片方が気になるなら合わせないと。今のは距離を取って、風呂に行かせる場面です」


「でも……」


「あなたに対しては距離を取り、侍女の手を握って感謝を述べていましたよね。どちらになりたいですか」


「う……、ごめんなさい」


 公爵の叱責にジャックはすぐに従った。


 その後、ジャックは窓の外を眺めながら、部屋の中をうろうろし始めた。冬眠明けの熊でもそこまで歩かないというほどに。


「学院での生活はどうでしたか」

「楽しかったよ。話しかけられなくても、同じ教室にセシルがいるんだもの。見ないようにするのが大変だったよ」


「王太子殿下はどうでしたか?」

「セシルとのこと、やっぱりなんか感づくんだよね。だから毎日セシルとは鷹便で連絡を取り合ってた」


 公爵は実娘や、学院に送り込んでいる様々な“目”を通して、情報を得ているが、総合してあまり思わしくない。


 もしこの国がもっと国力があれば、問題を抱え込んでいるヘンリーではない、別の王太子を立てることができたかもしれない。

 しかしあらかじめ決まっている予定を却下して、別の案をねじ込むと抵抗され、よけいな労力がかかるものだ。

 お金も兵力も食料も人材も、すべてぎりぎりで選択肢を選ぶという余裕がなかった。

 もし国王夫妻にもっと力があれば。首脳部に優秀な人材がいれば。特出すべき特産品があったら。考えてもしょうがない。

 まるで水面ぎりぎりを飛ぶ疲れた鳥のようだ。


 ヘンリーは確かに問題が大きい。しかし王太子の座を下ろすほどではない。まわりが十分に補佐すれば一代乗り切ることは可能だろう。公爵はいまや次の世代を期待するほどになっていた。




「ヘンリーが王太子として本格的に王宮を支配することになった今、ジャックはもう王都から撤退した方がいいでしょう」


 公爵がそう言うとジャックは頷いた。

 国力が弱まったことで、国境がきな臭くなっている。

 ジャックはそれを理由に、学院を退学して辺境伯領に戻ることにしていた。




 廊下が騒がしくなり、セシルが戻ってきた。

 動きやすいよう侍女服に着替えており、旅の疲れを落とした姿は、すっかり見違えるようだった。


 ジャックはセシルの元に飛んでいき、すぐに腕の中に閉じ込めた。

 セシルは照れて離れようとするが、びくとも動かない。


「そういえば、ブラックウッド辺境伯閣下は、王太子殿下を敵に回している件について、なんと仰っているんだい?」

「『やるじゃねえか』って誉められました」

「君たち親子は……」




 しばらく談笑していると、部屋の外で荒々しい足音が響き、飛び込んできたものがいた。

 セシルが乗っていたはずの馬車が、襲撃を受けたという知らせが届いたのだ。

 室内は緊張に包まれた。


「状況を報告しろ」


「セシル様を乗せたとして、王都をたった囮の馬車ですが、途中で十名ほどの盗賊に襲われました。場所はヤーレン山渓の一角で、複数の領地にまたがる所です。

 崖の上から岩を落とされ、強い衝撃を受け馬車は壊れ川に。乗客がいたらまず助からなかったでしょう。護衛が弓で反撃したところ、盗賊はすぐに逃げ去りました」



 公爵は指でとんとんと机を叩いた。


「犯人は誰だと思う? 直感でいいから答えてみなさい」


 セシルは口を開いた。

「お父様もクリスティーナも、殺そうとするほどの関心を私に持っていません」


 ジャックも口を開いた。


「ヘンリーだと思う。あいつはたとえ勘違いだったとしても、一度俺から取り上げたセシルを元に戻すのは許せないんだ。

 三年前の俺への襲撃も、ヘンリーの可能性が高いと、少なくとも俺は確信している」


 ジャックは狙われる立場だが、セシルは誰からも狙われていない。

 「無能」な令嬢なのだ。

 それが理由で王太子との縁談も解消されたのに、誰が狙うというのだろう。


 ジャックが続けて言った。

「俺が襲撃された時、とどめを刺す前に逃げ出したのが気になっていた。

 手練れに見えたし、だからこそ死を覚悟したのに。今回のセシルもそうだ。

 確実にとどめを刺すことより、正体を悟られないことのほうを大事にしている。

 そもそもブリンストン公爵家とブラックウッド辺境伯家の二つが調べても、犯人がわからないことこそが証拠だと思う。

 ヘンリーが黒幕だという」



 それはブリンストン公爵も考えていたことだった。

 しかし実際に言葉にされると、重い現実として受け止めざるを得なかった。


 ジャックは宣言した。

「万が一を考えて、セシルに囮の馬車を用意したけど、こうなった以上、セシルは連れていく。

 これじゃあブラックウッドのほうが安全だよ。俺が全力で守るから」

「私には、セシル君もずいぶんたくましくなったように見えるけどね」

「そうよ。毎日テリーに鍛えてもらったわ」


「知ってる。でもブラックウッドではまだまだだ。

 まあブラックウッドのやつらは素人には手出ししないから」

「素人って……、私そんなに頼りない?」


「うーん、そういうことじゃなくて。

 ブラックウッドの護衛の奴らが、セシルにメロメロだったでしょう。

 強くなりたいって真っ直ぐ努力する姿に、ブラックウッドの連中は弱いんだよ。

『それなら手伝ってやる』、『俺たちに任せておけ』って気持ちになる。

 セシルはそうやって、人間の良いところを引き出す面があるよね。

 ブラックウッドの土地柄に合っていると思うよ」


「つまりジャックは、セシル君のそういうところに惹かれたのかね」


 公爵にそう言われたジャックは、突然静かになった。

 めずらしく長く考え込んでいると思ったら呟いた。


「そういうこと?」


 冷静になって考えると、セシルはジャックにとって、なにからなにまで好みの女の子だった。


 だがその中でも特に、コツコツと努力し手を抜かない、誠実であろうとするあまり損をしてしまう健気さが、ジャックの心を捉えて放さなかった。

 そして気がついたのだ。セシルの良さはブラックウッドで好まれる性質で、そんなセシルを連れていったら……。


「セシル。絶対に浮気しないでね。

 他の男を見ないでね。

 そんなことになったら……。俺、泣くから!」


 急に叫んだジャックを、セシルはヨシヨシとなだめ、落ち着かせた。

 なんの取り柄もないセシルを拾ってくれたのはジャックで、そんな心配いらないのにと思った。


「『泣く』なのか……」


 公爵が小さく呟いた。



 ジャックが落ち着いたのを見計らって、公爵は言った。


「ヘンリーを見誤っていたということか」


 ヘンリーは確かに難しい子どもだったが、それでも王位に就いたらうまくやっていくだろうと思っていた。しかしただの戯れで殺人を犯すような人間が国の舵をとることができるとは思えなかった。


「私も立ち上がらなければならないなあ」


 部屋の中にいた人間たちがごくりとつばを飲み込んだ。


「ああ、今すぐの話じゃないよ。獲物が元気な内はいろいろ面倒だ。弱るまで待とう」



 ◇◇◇◇◇◇



 公爵は王都に赴き、娘のキャロラインと、その従姉妹のパウネス伯爵令嬢の報告を聞いた。

 王都は、それなりにうまく回っているようだが、さっそくクリスティーナの下で働いていた女官の一人が辞めたそうだ。

「家族の介護」が必要になったそうだが、辞める時に残念な顔をするどころか、すがすがしい顔で去って行ったという。


「人が足りなくなるな」

「引き留めますか?」

「いや……、意味はないだろう。それより辞めたくなるような人の下で、働ける体制を作った方がいい。情報共有を徹底するように」


 クリスティーナには確かに問題があるが、クリスティーナのおかげで、セシルという駒を手に入れられたのも確かなことだった。

 セシルは公爵にとって天から遣わされた者だった。

 まさしく天の配剤なのだ。


 最初に会った時は、襲撃に遭っても冷静な少女という印象だった。それでいて高位の令嬢という希有な駒だ。

 アメリアの側に置いた時は、扱いの難しいブラックウッドの、姫君に献上する品になればと思っていた。しかしセシルはその魅力で次期当主の若君の心を手に入れてしまったのだ。


「侯爵令嬢セシル」という、使い方によっては強力な政治の駒の評価を、実姉のクリスティーナが手ずから落としたのも都合が良かった。

 ブリンストン公爵は評判が落ちきるのをじっと待ち、まんまとセシルを手中におさめたのだ。

 ブラックウッド辺境伯領は、豊かで、凶暴で、よそ者が大嫌いだ。いつ寝首をかいてくるかわからない恐ろしい土地の、将来の当主の妻、その後見人の座を公爵は手に入れたのだ。


 この先、波瀾万丈な人生になるだろうセシルを、公爵は誠実に支えるつもりだ。


 しかし公爵がもし、「セシルをブラックウッドに巻き込んだ」などと言ったら、セシルは腹を立てるに違いない。

 きっぱりとこう言うだろう。

「私がブラックウッドを選んだのです」と。


 そしてジャックはすねるだろう。

「そこは『ジャック』を選んだと言ってよ」と。



 ◇◇◇◇◇◇



 セシルはジャックについて、ブラックウッド辺境伯領に入った。


 辺境伯領では当主を始め、民たちが歓待してくれた。

 セシルの後ろ盾はブリンストン公爵家だったからだ。これ以上、強力な後ろ盾はなかった。


 ブラックウッドではよそ者に対する風当たりは強い。

 セシルも同じような扱いを受けることを覚悟したものの、ジャックの護衛にあたっていた兵士から、「健気なセシル」の噂が出回り、思ったよりも受け入れてくれる人が多かった。


 当主とその正妻マーガレットに紹介され、アメリアと嬉しい再会を果たす。



 その日の広間で、大勢の領民にセシルは直接紹介された。


 次々に乱暴な握手を求められ、いかつい男たちがほがらかな笑い声をあげたが、すぐにたくましい女たちに抱えられて保護された。

 セシルは別に小柄ではないし、鍛えてもいるのだが、辺境ではか弱く見えるらしい。



 しかしその宴会に姿を見せないものがいた。


 当主の第二夫人エレノアと、その息子で長男のジョセフ、夫人の実家に連なるトール家の面々だ。


 当主のブライアンは大声で命令した。


「全員ここに連れてこい」


 命令された兵士たちは、真っ青になった。


 なぜならエレノアたちは地元の有力者で、今まで大抵の我が儘は許されてきた。

 正妻筋のジャックを狙うようになって、ようやく当主が筋道を正すようになったところだ。


 死にそうな顔で兵士たちが連れてきた面々を、壁に並べて立たせた。


 当主ブライアンは第二夫人エレノアに話しかける。


「エレノア、俺はお前を愛している。だがこの地を乱すような真似をするなら切り捨てねばならん。死ぬのと従うのとどちらがいい」


 エレノアは鼻で笑った。この地の有力者の姫に生まれ、当主の最愛として生きてきたのだ。誰かに譲るぐらいなら死んだ方がましだった。


「ジョセフ、お前はどうする? ジャックに従順を誓え」

「そんなのおかしいだろう。俺はこの地でもっとも強い家柄の生まれだ。軍にも領民にも認められている。そんなよそ者に従う道理があるか」


「ジャックはマーガレットとの間の子だ。この地を統べる力を持っている。長く王都や公爵領にいて政治にくわしいし、きっと立派な戦士になるであろう」


 ジョセフが吐き捨てた。


「ただそこに生まれただけだろう」

「お前もそうだ」


 ジョセフは噛みついた。

「俺は違う。俺は強くて……」

「ただエレノアの息子に生まれただけではないか。確かにお前は強い。だが生まれが違ったらそこまで認められたか」


 ブライアンは悲しそうに語りかけた。

「協力し合えば、より大きな敵、より大きな困難に立ち向かうことができる。家族で争ってなにが残るのだ。――お前たちはどうだ、ゴザ」


 エレノアの父親ゴザは、おもしろくなさそうな顔をしている。


 ブライアンはゴザをはじめとする面々を見つめ口を開いた。


「三年前、ジャックがブリンストン公爵領で暗殺されそうになった。あの時まだ十三歳だった。邪魔だからと言って、ずいぶんな横暴だな」


 突然物騒な話が飛び出し、多くのものが目を見張った。

 大勢がぱっとゴザを見る。


 それを聞いて、それまで押し黙っていたゴザが「は?」と間抜けな声を出した。

 さっと娘のエレノアを見る。

 エレノアは夫のブライアンを睨んだままだが、眉根をひそめていた。ジョセフはぽかんと口を開けている。


「なんだそれは」


 ゴザの口から低い声がもれた。本心から驚いているようだった。。


「おいエレノア、お前がやったのか?」


「私がやるなら面と向かって血祭りにあげるか、証拠一つ残さないかだわ。逃げられるなんてそんな恥ずかしいことはしない」


 エレノアによく似た息子のジョセフも同じ気持ちだろう。だからもしブラックウッドの人間がやったとしたら、ゴザだろうとブライアンは思っていたのだ。


「おい。この中でやったやつはいるか! 俺に黙って暗殺を企んだのか!」


 ゴザは広間で叫んだ。大勢つめかけているブラックウッドの人間たちを一人一人ねめつける。


「やったヤツは出てこい! よくやった! 誇りに思ってるなら雄叫び上げろ。だが俺に黙っていたことは許さねえ。言い訳くらいはさせてやる」


 しかし誰一人動かなかった。

 ゴザはブライアンに顔を向けた。


「おい、ブライアン。お前は誰だと思っているんだ」


 ゴザではなさそうだ、そうすると。


「王宮にジャックを憎んでいる人間がいる」


 ゴザは青筋を立てた。血管が切れそうなほど声を荒げる。


「王都のやつらにブラックウッドの人間が殺されそうになったのか?

 俺たちのジャックが?」


 静かにしていても騒がしいブラックウッドの民がめずらしく言葉を失った。

 誰かがつぶやいた。


「許せん」


 それをきっかけに雄叫びが上がった。王都のへなちょこどもを血祭りに上げろと。その声は城の壁をびりびりと震わし反響した。


 ブラックウッド辺境伯領は、ブリンストン公爵領に近接しているが、実際は黒い森と呼ばれる人が踏み入ることができない広大な森の一部を挟んでいる。そのため王都や公爵領からは特別に整備した街道を通らないと行き来できなかった。

 そこを抜けると肥沃な大地が広がり、長大なコルム山脈が見えてくる。

 黒い森とコルム山脈が天然の要塞となり、ブラックウッド辺境伯領は他国からの侵入を簡単に許さないと同時に、自国の他領からの侵入も容易ではなかった。

 独立独歩の気風が強く、王国への忠誠心などどこ吹く風であった。


 強さがすべてのブラックウッドでは、お城にこもっている王国民など足手まといと下に見る気風が強く、そんなやつらに「俺たちのジャック」が暗殺されかけたなど、誇りにかけても許せないことだった。自分たちが殺すのはよくても、他人にされるのは許せないのだ。


「おいブライアン、今から王都、落としにいくぞ」


 ゴザは愛用の剣の握り皮をチェックした。隣ではエレノアも、太ももに下げている長ナイフの刃を眺めている。


「いや行かない。皆のもの静まれ」


 ブライアンは、全員からねめつけられた。

 これが当主でなければ、その場で首を落とされただろう。


「そいつをどうにかしようとずっと前から動いている人間がいる。

 ブリンストン公爵だ。

 公爵は責任を取ろうとしている。そいつはあちこちに手を出していて、遊びの延長のつもりなんだ。

 今回来たセシル嬢もここにくる途中、殺されそうになった。

 ジャックの妻になるからだ」


 広間にどよめきが走った。


 セシルはその時の人々の顔を見て、ヘンリーに感謝しそうになった。


 余所から来たセシルという、「ジャックの妻」に、多くの人々は距離を置いていた。このまま過ごせば、ジャックの母親のように「よそ者」として扱われたかもしれない。

 しかし「ジャックの妻」が「よそ者」に殺されそうになったというのは、ブラックウッドの人たちには許せないようだった。

 セシルのためにいきり立っている。


「ブリンストン公爵がどう始末をつけるのかはわからない。だが俺たちが手を出すのは筋違いだ」


 その場の全員を代表してゴザが言った。


「納得いかねえ。

 ジャック、お前はどう思うんだ」


「公爵はその獲物が弱るまで、待つおつもりのようだよ。

 公爵が仕留めたら、――ここに連れてきてもらう予定だ」


 ゴザは口笛を吹いた。


「おいおい、おっかない性格になっちまったな。エレノアと気が合いそうだ」

「よしとくれよ。まだまだ可愛いもんさ」


 エレノアは否定したが、ジャックの発言に満足そうに笑った。


 辺境伯領は、ヘンリーという外部の敵の存在を知り、まとまりつつあった。



 ◇◇◇◇◇◇



 王都では、ヘンリー王太子とクリスティーナ侯爵令嬢の結婚式が挙げられた。


 「完璧な王太子妃」との呼び声が高いクリスティーナは、あらゆる面で称賛をあびたが、どういう訳かクリスティーナを支える周囲の人々に、失態が続いた。

 しかしそれらの失態を、王太子妃は「完璧」にフォローし、評判はますます上がった。


 ところがそれから二年ほどたった頃、とつぜん第一王女アンが隣国に嫁いでしまったのだ。

 アンは国王一家に愛されており、気難しいヘンリーもアンのことは溺愛していた。


 外交手続きが済んでいないにもかかわらず、まるで逃げるように出国してしまったアン。

 クリスティーナ王太子妃は、動揺のあまり「無責任だ」と声を荒げてしまったという。


 クリスティーナ王太子妃が、アン第一王女殿下をつねに側から離さなかったのは有名な話。

 きっと悲しみのあまり感情を表に出してしまったのだろうと、同情するものが多かった。


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