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前編

平気で嘘をつく姉とモラハラの王太子が結婚したら、という話です。

この要素に地雷がある方はお気をつけください。

 ヒギンズ侯爵家の次女セシルは長い間、長女のクリスティーナに心を蝕まれていた。


 クリスティーナは病的な嘘つきで、言葉巧みにセシルを陥れ、代わりにクリスティーナのやるべき仕事をやらせ、評価だけ奪って行った。セシルが刺繍したテーブルクロスを自分のだと偽って賞を取ったこともある。


 クリスティーナは天才的におしゃべりがうまく、すぐに人の心をつかむ。そしてそうやって心をつかんだ友人たちや、使用人はまるでクリスティーナの信奉者のようになり、なにを言われても頭から信じ込んでしまうのだった。


 両親は、クリスティーナがささやくセシルの悪評を、長年まるで毒のように吸収し、セシルがなにを言っても信じなくなってしまった。


 不思議なことに人々は、セシルが自室で刺繍をすることも知っているし、人々が褒めそやす「クリスティーナの美しい刺繍」を、セシルが目の前で刺しているのにもかかわらず、なぜか「セシルは刺繍なんかできない不器用者」「クリスティーナの刺繍の腕は素晴らしい」と言うのだ。


 父親に書くようにと指示された、領地についてのレポートを、クリスティーナが自分のものだと盗んだ時もそうだった。

 その一週間も前から資料を準備し、セシルの机には下書きが散らばっているのに、誰もセシルの言うことを信じてくれなかった。

 あまりにもおかしな状況に、セシルはその場にいた使用人たちに下書きを読ませて、セシルが書いていたこと、クリスティーナはそもそもレポートを書いていないことを、証拠と事実を並べて説明したが、なぜか使用人たちは怒り始めてしまった。


 彼らの中では、自分の気持ちをわかってくれる、お優しいクリスティーナ様の悪口を言う存在なんて、絶対悪なのだ。

 事実がどうかなんてどうでもいい。クリスティーナは善、セシルは悪であり、本当のことを指摘すると、まるで自分たちが攻撃されているようヒステリックに怒り出すのだった。



 やっかいなことにクリスティーナはそれなりに優秀だった。なにもできないなら、ぼろが出ることもあるだろうが、別にセシルから奪わなくても、自分でやればできないこともないはずなのだ。



 この状況に、当時まだ小さかったセシルは途方に暮れた。

 部屋でくさくさしていると、幼い頃から護衛をしてくれているテリーに、「護身術でもならって汗をかきませんか」と誘われた。


 セシルの家は侯爵家で、身を守るためには護衛をつければいいだけだが、その時は好奇心にかられてやってみようと思った。


 クリスティーナが両親に対して、セシルの信頼を落としていたこともよく働いた。


 セシルが危険そうなことをやることに、両親はそこまでの関心をもう持っていなかったのだ。これがクリスティーナだったら許されなかっただろう。


 頼もしいテリーは、セシルが小さい頃につけられた護衛で、四人の子どもの父親だ。子どもの扱いに慣れており、難しい立場にいるセシルも、テリーのことだけは信頼していた。


 テリーの指示に従い、体を動かしてみると、頭がすっきりして気分が良かった。


「初めて体を動かした割には良い動きですね」

「センスがあるんじゃないですか」

 テリーにほめられ気を良くした。

 テリーと二人で体を動かしていると、だんだん他の護衛や使用人も通りすがりに見に来るようになり、声援をもらえるようになった。


 一ヶ月もすると動きが様になり、テリーが武器を使った模擬演習を見せてくれたが、さすがに貴族令嬢のセシルが武器を使うのは許されなかった。だが護衛たちが目の前で演武を見せてくれるようになり、セシルはそれを目で学ぶようになった。


 他にもなにか挑戦してみたいというセシルに、テリーと護衛たちは乗馬に挑戦してはどうかと提案した。これもクリスティーナだったら許されなかったが、セシルは大丈夫だった。

 乗馬はとても楽しかった。少年用の乗馬服を着て、男の子のように走り回ると、行動範囲が一気に広がった。


 セシルは活動的になり、休みの日はテリーの家族と過ごすようになった。

 テリーの家は、テリーの妻と両親、子どもたち四人、テリーの弟夫婦とその子ども三人で小さな家に住んでいた。家は侯爵家の敷地内にあり、子どもたちと釣りに行ったり、ボート遊びをしたり、ジャムを作るためのベリー採り競争をしたりした。


 栄光と称賛を浴びているクリスティーナの影にされることを気に病んでいたが、注目されないからこそ得られる自由を楽しむようになった。


 セシルは様々なことを学び身につけていった。


 クリスティーナはセシルの持ち物は、すべて自分のものだと考えているらしく、セシルの少ない荷物を持っていってしまう。しかし少年用の乗馬服や、男の子の服装、平民用の靴や帽子、防具、釣り具、どれもクリスティーナの気を引かなかったらしい。漁ったあとはあるものの荷物が持って行かれることはなくなった。


 セシルは行動も気持ちものびのびとできる時間を持てるようになった。



 ◇◇◇◇◇◇



 どうにもならないクリスティーナとの関係を、セシルがもがいて消化しようとしていた頃、筆頭公爵であるブリンストン公爵家の夏の別荘に招かれた。


 別荘は公爵家の領地にあり、近くに昔からある温泉と、神話に出てくる古い神殿があるため、一大観光地として栄えていた。


 その別荘には毎年著名人が招かれることでも有名で、クリスティーナが興奮している。


 なにしろ公爵はその立場から国王一家とたいへん親しく、毎年王子殿下王女殿下が招かれるのだ。


 クリスティーナは十五歳、セシルは十四歳になる。

 おそらく年頃になった王族の結婚相手を探しているのだろう。


 現国王には十五歳の王太子、十四歳の第一王女、少し年が離れて十歳の第二王子、八歳の第三王子がいる。

 道理で考えれば、王太子がお忍びで遊びに来ることはあきらかだ。おそらく同年代の身分の高い少年少女が他にも招かれているに違いない。


 情報に疎く、直前に聞いたセシルは体調不良の算段をした。

 クリスティーナと二人で、そんなところに赴けば、悪口とうわさ話の餌食にされるのは明らかだ。


 ひどい風邪をひいたことにしたが無駄だった。

 クリスティーナが言ったのだ。


「あんな素敵なところに滞在できないなんて、神様は不公平だわ。

 私にはわかるの、セシルがどれだけ行きたかったか。

 ねえお父様、駄目? ゆっくり移動すればなんとかならないかしら」


 父親は優しいクリスティーナの願いを叶えてやった。クリスティーナは足の速い馬車で先に行き、セシルはゆっくりと向かったのだ。


「クリスティーナってとことんクズよね」


 セシルは馬車に揺られながら言った。


 ブリンストン公爵家の領地に向かうにはかなりの移動が必要で、山を二つ、川をいくつも超えた後、肥沃な穀倉地帯をかかえた巨大な山脈がやっと見えてくるところにある。

 すべて舗装されていない道なのだからかなり揺れる。

 馬車に乗る時間はなるべく短くしたいのが普通だろう。それを表向き体調が悪い人間に「ゆっくり移動」とは、鬼畜の所業と言っていい。


 セシルは途中で体調が治ったことにして、馬車から降り馬に乗ることにした。

 道は昨日まで降り続いていた雨により、ぬかるんでいるが、空は明るく晴れていて木漏れ日がきらきらと降ってくる光のようだった。


「この森を抜ければコルム山脈が見えてきますよ」


 案内人の言葉に、護衛たちが顔を上げた。


 だが同時に、不穏な金属音が聞こえてきた。


 頭の上の崖から、雄叫びや、つばぜり合いの音、馬のいななきが聞こえたと思うと、地面が揺れ、大きな崖崩れが起きた。

 驚いた馬たちが人を乗せたまま、いっせいにいなないて散らばった。取り残された馬車だけが、大量に落ちてきた土砂に飲み込まれて倒れ、横を流れている川まで流された。そしてその上に降ってくるように、馬に乗った少年と護衛たちが落ちてきたのだ。


 少年たち三人はうまく手綱をさばき体勢を整えた。逃げていたのか馬が息を切らして頭を振っている。一頭は制止しているのに水を飲もうと川の方に向かっていこうとしていた。


 テリーはその場をまとめ、上から襲撃者が追撃してこないようだと判断すると、流された御者を拾い上げさせ、少年と護衛に簡単に話を聞いた。

 少年の名はジャックといい、この近くのブリンストン公爵家の客人だと答えたため、急ぎ保護し送り届けることにした。


「荷物は置いていくの?」

「襲撃者が十人はいるとのことなんで。避難を優先します。最低限の荷物だけ持ってください。人里は近いですから」


 テリーはセシルを守らないといけない。貴族令嬢は襲撃に遭ったという噂だけで価値が下がるのだ。その上、ジャックという少年も保護し、戦えない御者がいる状態ではとにかく安全な場所への移動を優先するほかなかった。


「ジャック、怪我は大丈夫なの?」

「たいしたことない、手首をひねっただけだ」


 ジャックは身分を明かさなかったが、言葉遣いや発音で高貴な身分なのはあきらかだ。なぜ襲われたのか不思議に思ったが、ジャックの口は重かった。

 人里について警らに報告し、テリーたち一行は近くのブリンストン公爵邸に、セシルとジャックを送り届けた。


 公爵邸は石造りの土台に、大きな木造の建物だった。見通しのいい芝生と川を効果的に配置し住みやすさと攻めにくさを両立させている。


「無事に送り届けてくれてありがとう。感謝する」


 ブリンストン公爵は、一介の護衛であるテリーに丁寧に礼を述べると、ジャックを引き取った。


「ヒギンズ侯爵令嬢もようこそ。よく来てくれたね。お姉さんはもうついているよ。怖かっただろう。部屋になにか甘い物を持たせるよ」


 公爵は目下の者にまで親切な人柄のようだ。


 セシルはチャンスとばかりに飛びついた。ここは他人の家で、クリスティーナからの攻撃をどうやってかわせばいいのかわからないのだ。駄目で元々だ。緊張で汗ばんだ手を固く握りこんだ。


「お願いです、公爵閣下。

 実は私と姉はあまりうまくいっておらず、部屋を離して欲しいのです。一緒にいると、周りの方々にまでご迷惑をおかけしてしまうでしょう。姉から離れていれば、使用人の部屋でも構いません。むしろそちらのほうがどれだけいいか」


 公爵は突然の申し出にぷっと吹き出した。

 姉妹の悪口を言うなんてと怒られるか、面倒なことを言う小娘だと迷惑がられるかと思っていたセシルは拍子抜けした。


「そんなに苦手なのかい」


 公爵はちょっと肩をふるわせている。

 セシルはなんと説明したらいいのかわからなかった。セシル自身、自分がなにに巻き込まれているのか言葉で説明できなかったのだ。

 公爵は暗い目をしたセシルを気の毒そうに見た。


「深刻そうだね。ところで君、馬に乗ってここまでやってきたと聞いたけど、いつから習っているのかな」


 セシルは公爵に問われるままに答えた。

 不思議なほど丁寧に話を聞いてくれて、いつしかセシルは護身術を習い始めたきっかけや、クリスティーナのことを話してしまった。


「ジャックと会った時は怖かったかい?」

「そうですね。すごく緊張しましたけど、護衛のテリーが冷静だったので」


 公爵はふむふむと頷いていた。なにか考えるような仕草をした後、決心したように顔を上げた。


「君を公爵邸の別邸に泊めてあげよう。お姉さんはそこに入れないよ」


 セシルは気分が浮き立った。


「ありがとうございます」

「でもそこは要人警護に使っていてね。だからどれだけ厳しく警備しても、襲われる危険がある場所だ。それでもいいかな」


 公爵は少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。セシルは元気よく返事した。


「構いません。あ、私もお手伝いできないでしょうか。もし女性がいらしたら、私でもできることがあるかもしれません」


 公爵は本格的に吹き出し、我慢できないというように笑い出した。


「はっはっはっ、いやあ頼もしいなあ。でも危険なことはしては駄目だよ」



 ◇◇◇◇◇◇



 セシルが案内されていくと、別邸にはジャックと、アメリアという少女がいた。


「セシル、改めて自己紹介するね。

 私はジャック・ブラックウッド、ブラックウッド辺境伯の次男だ。そしてこちらは妹のアメリア」


 セシルはその説明でなんとなく、ジャックとアメリアの立ち位置がわかった。


 ブラックウッド辺境伯家では、当主と政略のために嫁いだ妻マーガレットとの間に、次男のジャックと長女のアメリアがいる。そして元々当主と付き合っていた幼なじみの第二夫人エレノアとの間に長男のジョセフがいる。


 正妻は他の領地の出身で、辺境伯家は当然その子どもジャックが後を継ぐ予定だ。


 しかいまだ十三歳のジャックより、地元出身の第二夫人エレノアとの間に生まれた、二十歳のジョセフを跡継ぎに押す勢力がいる。よそから来た人間というのはブラックウッドではそれだけ反発が強いのだ。


 第二夫人を寵愛している当主すら、正統なジャックを跡継ぎにと押しているが、地元利権で固めたい勢力は目の前のことしか見ていなかった。


 もしジャックが暗殺され、長男のジョセフが当主になったら、辺境伯領は周囲を巻き込んで荒れるだろう。

 近接しているブリンストン公爵領では、それを防ぐためにジャックとアメリアを保護しているのだ。


 そしておそらくは、同年代の子どもと会えないのを、気の毒に思いセシルを派遣したのだろう。アメリアはまだ十一歳だ。期待を込めた目でセシルを見ている。


「ヒギンズ侯爵家のセシル・ヒギンズです」

「私はアメリア。アメリアと呼んで」

「セシルとお呼びください」


 にかっと笑ったアメリアは、すぐに打ち解けセシルを側に置くようになった。ジャックはそれを見て、にこにこと喜んでいる。


 セシルは、相手は令嬢なのだと最初は気を遣ったが、驚くことにアメリアは一人前に武器を使い、戦えた。

 セシル、ジャック、アメリアの三人は、まるで少年のように外で遊び回り、楽しい思い出を作った。





 ある日、騒がしくなったと思ったら、三人とも本邸に招かれた。


 お忍びで王太子のヘンリー殿下が到着したのだ。


 招かれていた少年少女たちは色めき立った。


 本邸にはブリンストン公爵令嬢と、その従姉妹のパウネス伯爵令嬢。クリスティーナ・ヒギンズ侯爵令嬢に、側近にと考えられているシモンズ伯爵令息、ギギ侯爵家令息らがいた。


 ヘンリー王太子殿下はまわりに鷹揚に接し、それぞれとで話をしたり、複数でおしゃべりや遊びに興じたり、親睦を深めていた。


 ジャックがそこに行くと、ヘンリーは妙な笑い方で迎えた。笑おうとするが顔がこわばってしまうようにぎこちなかった。要するに口元には笑みを浮かべているが、目にはどう隠しても嘲りが浮かんでしまうのだ。

 セシルはそれを見てなんだか落ち着かなかった。


「久しぶりだな、ジャック」

「お久しぶりです。妹のアメリアを紹介します」


 アメリアが挨拶すると、ヘンリーは笑顔だが興味がなさそうに受け流した。


 しかしジャックがセシルを「アメリアの侍女をさせている」と紹介すると、一瞬固まった後、まるで値踏みするかのように、じっとりとした目つきでセシルを見た。そして下を向いて考え込んだと思うと、ちらりとジャックを見た。

 その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。


 ヘンリーは急に立ち上がってセシルの手を取った。セシルはおそろしさを感じ視線を合わせられなかった。


「君がヒギンズ侯爵令嬢の妹のほうだね。なんてかわいらしい人だ」


 ジャックもアメリアもこわばった表情をしていた。セシルもこれがクリスティーナに聞こえたらと面倒なことになると思いそわそわした。

 ヘンリーはセシルの手を取ったまま、あいまいな笑みを浮かべた。


「今日は一日横にいてくれるかな」


 ヘンリーがそういうと、周りの侍従や侍女が止めようとした。おそらくヘンリーの婚約者候補は絞られているのだろう。そしてヘンリーの態度はなにかの悪ふざけのように思え、このまま放置しておくのは危険だと受け止められているようだった。


「殿下」

 侍従の一人がたしなめるように言った。


「セシルって言うのか。僕のことはヘンリーと」


 それでも止めようとする侍従に、ヘンリーははっきりと言った。

「うるさい。セシル、別の部屋で話そう」


 部屋の前では声をかけてもらおうと少女たちが待ち構えていた。開いていた扉のところでヘンリーに手をとられたセシルを目にする。


 クリスティーナが気色ばんだようにセシルを見る。ブリンストン公爵令嬢とパウネス伯爵令嬢も、値踏みするような目でセシルを見ていた。


 ヘンリーはその三人も誘い、詩集を読もうと読書室に集まった。ろくに紹介もされず、高位の令嬢と王子殿下その人に囲まれ、心細く息が詰まる時間だった。


 しかしもっと不思議だったのは、先ほどまでセシルに執着しているように見えたヘンリーが、今はブリンストン公爵令嬢とパウネス伯爵令嬢、そしてクリスティーナにだけ話しかけ、セシルのことはまったく無視していることだった。

 そしてそれぞれと内緒の会話でもするように目配せをし合っていた。


 それをじっと耐えていたが、まるで離すのを忘れたとばかりに、ヘンリーに手を握られたままなのも冷や汗が絶えない原因だった。時折秘密の合図でも送るかのように、ヘンリーはセシルの手をぎゅっと優しく握った。


 もしセシルが王子様に憧れ、姉と仲良く、他の令嬢に敬愛を持っていたら、無視されたまま過ごすのは耐えられないほど苦痛だったろう。

 そのためヘンリーに手を握られるたびに、孤独がまぎれて安心しただろう。きっとヘンリーにはなにか意図があるのだと良いように解釈しただろう。


 しかし敵に囲まれて生きてきたセシルは、他人がしめす好意に警戒心が働いた。害意を見せてくれる相手のほうがセシルにははるかに安心だった。




「今日の晩餐会を楽しみにしているよ」


 ヘンリーにそうささやかれたセシルは、ヘンリーの侍女に別邸に送られた。


「大丈夫ですか、よくやりましたね」


 侍女の立場はわからないが存外優しい言葉をかけてくれた。


「晩餐会はどうされます?」


 セシルにはなにも言えなかった。

 ヘンリーはなにかおかしかった。

 できれば出たくないが、そんなわがままは言えない。

 そこへ一足遅れて帰ってきた、アメリアとジャックが部屋に入ってきた。


「セシル、大丈夫だったか?」


 アメリアが心配したようにセシルに飛びついた。

「セシル……」


 侍女は急に言った。

「今日の朝は冷え込みましたね」


 それを聞いたジャックはすぐに反応した。

 アメリアを乱暴に後ろから抱き寄せ、額に手をあてる。


「アメリア、具合が悪いならなんで言わなかったんだ。

 セシル、これでも一応女だから、セシルがついてくれないか。すまない。

 アメリアもセシルがいいだろう?」


 ジャックのわざとらしい発言に、侍女は満足そうにうなずくと本邸に戻っていった。

 セシルもほっとしてアメリアの手を取った。


 体調不良を訴えたところで今日の流れでは仮病を疑われるだけだろう。

 それにセシルは十四歳、多少のことは無理をしないといけない。ましてや今回は王太子殿下との晩餐会なのだ。

 しかしアメリアはまだ十一歳。子どものアメリアが、精一杯のわがままでセシルに側についてほしいと訴えれば、王太子も文句を言えなかった。アメリアは王太子にこびへつらう立場でもないのだ。




 晩餐会は行われ、ジャックはそれに出席するために出かけていった。


 セシルの姿がないまま食事は進み、ヘンリーは終始ご機嫌のままだったが、ジャックはその姿を見て嵐の前の静けさだと感じた。

 ヘンリーは場を取り持つのがとてもうまく、盛り上げる話題、その場の人々の望む回答をし、とても「いいやつ」として振る舞っていた。

 まわりで給仕している人、晩餐会に参加している人、みなにこにこと笑みを浮かべている。

 ヘンリーを「好ましい」と思っているのは明らかだった。


 しかしジャックの目には、小娘の分際で自分の思いどおりに動かなかったセシルに、機嫌を損ねているヘンリーが丸見えだった。このまま自室に戻った後、ものにあたる姿を見ても驚かない。




 ジャックは子どもの頃ヘンリーと仲が良かった。


 よそ者の実母の下に生まれたジャックは、地元のブラックウッドにいると命が狙われるため、近接しているブリンストン公爵によく預けられていた。

 筆頭公爵家には、ヘンリーも顔を見せ、二人は子どもの頃から一緒に過ごすことが多かった。


 ヘンリーは二歳年下のジャックの話によく耳を傾けてくれた。

 鷹揚で面倒見のいい兄貴分だったのだ。


 そんな関係が変わったのは、十二歳になった頃だった。

 ジャックが運動した後に、井戸の横で汗をふいていると、急にまわりで相撲が始まったのだ。


 取り組んでいる人を見て、ジャックもヘンリーに笑いかけ、お互いに組み始めた。


「本気でかかってくれるのはお前だけだよ」


 ヘンリーがいつもそう言うので、ジャックは本気で組んだ。

 ところがヘンリーはあっという間に負けてしまったのだ。


 ジャックは自覚してなかったが、ここ一二年で身長も体重も伸び、驚くほど力が強くなっていた。

 また辺境伯領では肉体労働が日常だ。王都で訓練の時にしか体を動かさないヘンリーとは鍛え方が違った。

 ジャックもヘンリーも気がつかないまま、ジャックは追い越していたのだ。


 この時、ジャックはヘンリーが自分のことを誉めてくれるだろうと愚かにも思っていた。


「手加減はしないでほしい」

「対等に扱われたいのだ」


 そう言っていたのはヘンリー自身だった。


 しかし起き上がったヘンリーは、嫌な笑顔を浮かべ、言った。


「ちょっと手加減しすぎたな。ジャック、あんなに小さかったのに大きくなったなあ」


 そういって注目を集めるように拍手し始めた。ヘンリーはあくまでも笑顔だった。だが皆なにか嫌な雰囲気を感じて目をそらした。


「皆のもの、この小さき辺境伯の次期当主殿に拍手を送れ。私に勝ったのだ」


 いまやヘンリーは嘲りの表情を浮かべていた。まるで寛大な次期国王陛下が、ジャックの成長を見守り、ずっと手心を加えていたように。


 この時、ジャックが未熟な子どものままだったら、おそらくこう言い返しただろう。

「なにを言っている。ヘンリーだって本気だったじゃないか」と。


 そして手加減してくれた君主につっかかる愚かな子どもと思われただろう。

 今ならわかる。それも正解の一つだった。


 ジャックはこう返事した。

「お褒めをありがたく。私のこの身も、剣も、この国に捧げています」


 ヘンリーと正面から向かい合うのは危険と察知したジャックは、さらっと受け流し、忠誠心の言葉で話題をそらした。

 それでも今までなら、その文章に「我が君に捧げます」と入れただろう。だがどうしても言えなかった。


 ところが、それまで余裕があるように見せていたヘンリーは、ジャックの大人な対応を見て、顔を真っ赤にした。


 力の限りジャックの頬を打ち据え、ジャックは体勢を崩し、口の中で最後の乳歯が折れたのがわかった。


「何様のつもりだ! 甘く見てやったらいい気になりやがって。こっちは手加減してやっていたのだ」


 ジャックはまっすぐ立っていた。唇が切れて血がにじんだ。


 ヘンリーが二発目を打とうとしたところ、すぐに近くにいた侍従と護衛が腕をおさえた。


「行け、ジャック」

 護衛に言われて急いでジャックはその場を後にした。



 ◇◇◇◇◇◇



 その一件はジャックが今まで感じていた違和感の裏打ちになった。

 ヘンリーのまわりにいる、侍従や侍女、護衛や使用人たちのなかで、特に年かさの用人が、妙に用心深いことに前から気がついていた。

 つねにぴりぴりと緊張し、時にはびくびくしていることも。


 今までは力でもかなわない、頭脳でもかなわない。年下の子どもだから可愛がってもらえたのだ。体格が追いつけば難しい関係を強いられるだろう。

 ジャックが辺境伯領に根を下ろせば、儀礼的な付き合いになる。だが実際は辺境伯領ではジャックの命を狙う勢力が大きい。もう少し大きくなるまで、ヘンリーと上手くやっていかないといけないのだ。


 この後、国王陛下にことの顛末についてのお言葉をいただき、ジャックは肝を冷やした。絶対にこのことでヘンリーに逆恨みされるだろう。




 ジャックはブリンストン公爵領で、今回命を狙われた件についても考えていた。


 犯人はヘンリー王太子だという考えが、どうしても打ち消せなかったのだ。


 確かに政治情勢から考えると、下手人は第二夫人やその父親、兄のジョセフの勢力だと考えるのが自然だ。

 ジャックを殺せば後継者問題は片付いて、すべての旨みが手に入る。


 だがブラックウッドの辺境の民は戦いに命をかけている武人だ。

 一度狙った獲物を取り逃がすようなへまはしない。


 そして弱いものをなぶり殺すことも好まない。

 ジャックが一騎当千な武人たちを相手に、十三歳の今まで生き延びたのは、強いものを倒してこそ誇りと考える気風があるからだ。


 一方ヘンリーのほうはジャックを殺す利点はまったくない。

 むしろ辺境の地に混乱を起こし痛手を被るだろう。

 幼い頃からの腹心の部下を亡くし、ブラックウッドの民を敵に回せば、それこそ国を割るほどの被害がもたらされる。


 それでも犯人はヘンリーだという確信を、自分自身ですら壊せなかった。



 ◇◇◇◇◇◇



 ジャックとアメリアと過ごす時間は、セシルにとって楽しいものだった。


 彼らは日夜体をきたえていることが多く、別邸を警備している兵士たちもよく加わってくる。


 ブラックウッドから来ている人々は、あけすけで口が悪かったが、明るい人が多かった。

 身分に関係なく連帯感が生まれ、セシルは初めて過去のことを忘れ、初対面の人々を信頼できるかもしれないと感じていた。



 しかしある日、アメリアの剣舞を見ていたセシルは近づきすぎ、間違って飛ばしてしまった小剣があたりそうになった。

 横にいたジャックはセシルの体を抱き寄せ、さっとかばったが、令嬢セシルに剣をかすりでもしないようにと全身を使ったため、受け身がとれず、小剣がまともに腕にあたった。


 セシルは何をしても責められる環境で育ったため、自分の失態に過剰に反応しパニックでうまく息ができなくなった。


 部屋に運び込まれたあとも「ごめんなさい」「私がいなければ」と何度も繰り返した。


 休めと言われても、手当を受けているジャックのところに行こうとし、合わせる顔がないと引き返す。

 その繰り返しだった。アメリアが抱きつき背中をさする。


「そんなに気にしなくていいのよ。セシル」


 何度も優しい言葉をかけてくれるアメリアを見て、セシルは涙がこぼれた。

 胸の内をこぼす。


「アメリア。わたしあなたのその言葉が信じられないの。

 あなたの言葉、全部が信じられないの」


 セシルは本当の気持ちを言葉に出すのがとてもつらかった。

 人を信じられない環境で育ったセシルは、小さなアメリアの言葉すら信じられないのだ。

 そんな自分が情けなくて恥ずかしかった。

 アメリアが言葉を失っていると、それを聞いたジャックが入ってきた。


「俺が気にしなくていい、もう平気だって言ってもか?」


 セシルは泣きながらうなずいた。


「きっと私に気を遣っているんだろう。内心では迷惑なんだろうって。

 そうよ、みんなの言葉がなにひとつ信じられないの。わたし最低だわ」


 ジャックは自分を責めるセシルの頭をなでた。


「わたし誰のことも信じられないの。家族のことも、身近な使用人も、あなた方のことも。

 ……ジャックは命を狙われているんでしょう。みんなが怖いって思わないの」


 問われたジャックは、自分の心の中でセシルの役に立てるものはないかと探した。

 セシルに泣き止んでほしかったのだ。


「確かに怖いよ。周りの誰かが裏切るかもしれないし、すでに裏切っているかも。でも守ってくれるみんなを見ていると信じたいと思う」


「強いのね。わたしも、そうしたい。でもできないの」


 セシルはぽろぽろ涙を流した。

 自分が弱虫で情けなかった。


 その姿を見たジャックは胸がぎゅっと強くつかまれたように感じ、心の底からどうにかしてやりたいと思った。


「違う。強いからじゃない、ただ信じたいからそうしているんだ。

 セシルはどう。俺たちのこと信じたい? 信じたくない?」


「信じたいってずっと思っている。ずっとずっとみんなのこと信じたいって。

 でもできないの。

 私なんてなんの価値もない。そんな人間にみんな偽物の優しい言葉をかけているだけだって思うの」


「信じたい」と言うセシルの強い言葉を聞いて、ジャックはいたずらっぽく笑った。


「それなら簡単だよ。

 セシルは俺たちのこと好きなんだよ。

 だから信じたいって思うんでしょ。

 信じるか信じないじゃなくて、好きか嫌いかで考えて」


「……」


 そんなことを考えたことなかったセシルは、しばらく混乱して立ち尽くした。

 ジャックが顔を寄せてささやいた。


「俺が、『こっちのほうがおいしいよ』って言ったら、信じてよ。俺が好きなら」


 愚直なセシルはそう言われて、律儀に想像する。

 もしジャックにそう言われたら、確かに信じるだろう。

 だってジャックを信頼しているし、なにより……。


「ジャックが好きだから」という言葉を頭に思い浮かべたとたん、セシルはその場にへなへなと崩れ落ちた。

 横から抱きついているアメリアが、おかしな方向に行っているジャックとセシルのやりとりを、興味津々に見ている。

 ジャックはまるでなにかの勝負に勝ったかのように、にっこりと笑顔だった。

 セシルの顔が泣いたからではなく、ただ真っ赤になった。


 つまり今までのことは「ジャックのことが“好きだから”信じたいのに、信じられなくて苦しんでいる」と、大声で宣伝していたようなものだと自覚したのだ。

 落ち込んだ気分もどこへやら、逃げ出しかけたセシルだが、アメリアがしっかりとつかまって離さない。

 セシルは必死で顔を両手で隠し、ジャックに背を向けた。


「ジャック、部屋から出て行って。私ひどい顔をしているから」


 さんざん泣いてひどい顔になったセシルは、顔を洗いたいと訴えた。

 すると控えていた侍女は、すでに一式用意をして待っていた。


「俺は気にしないのに」


 ジャックはそう言ったが、アメリアと侍女に部屋を追い出され、中々入れてもらえない。

 やっと入れたと思うと、セシルはぬれタオルで冷やしたまま、顔を見せてくれなかった。

 駆け寄って抱きしめ、顔をのぞこうとすると、セシルが嫌がって背中を向こうとする。


「俺は気にしないのに」


 ジャックがまたそう言うと、アメリアと侍女に厳しく「駄目だ」と怒られたのだった。



 その日から「ジャックとアメリア、そして付き人のセシル」ではなく、「セシルにべったりのアメリアとジャック」になった。

 ジャックはセシルを、今までは友人を見るような目つきで見ていたが、その中に弱さや不安を抱えるセシルを「守ってやりたい」という気持ちが混ざるようになり、ジャックの表情や考え方がぐっと大人びたものになった。


「なんかジャック坊、男になったな」

「わかるー、やっぱ女できると変わるよな」

「ちょっと寂しいな」


 ジャックを護衛する男たちは、兄貴分として感想をもらした。

 そこへセシルが話しかけてきた。


「あの、私のこともっと鍛えてください。強くなりたいのです」


 その場にいた、ごつくて、いかつい男たちが、なぜか全員赤くなってもじもじし始めた。

「甘酸っぺえ」

「覚悟を決めた女の顔だなあ」

「セシルの嬢ちゃん、いやセシル様。俺たちみんな、ついて行きますから」




 ジャックは、セシルがヘンリーに目をつけられたことを、いまだに後悔していた。

 セシルを侍女として紹介するまでは、ジャックを暗殺しようとしたのがヘンリーだと確信を持っていなかった。

 だからヘンリーは自分を強く憎んではいるが、なにかしてくるとまで思っていなかったのだ。


 しかしセシルに執着したのを見て、そこで暗殺犯はヘンリーではと思い始めた。

 ジャックにそこまで執着しているのなら、セシルを自分の関係者だと紹介したのは悪手だった。

 セシルを姉の元に戻すか、それとも表に出さないか、どんな手を打てばよかったのだろうと、ジャックは思い悩んだ。


 しかし実際はそのどれも無駄だ。


 王太子ヘンリーは、獣なみに鼻がきき、人の弱みを嗅ぎ当てる。

 セシルを紹介された時、ヘンリーは、ジャックとセシルがまだ当人たちですら自覚していない、お互いへの恋心を嗅ぎつけたのだ。例えセシルが姉の元にいたとしても、目をつけただろう。





 ヘンリーの出立が近づき、夜会が開かれることになった。


「クリスティーナの人柄を、自分の目で確認したいから」


 公爵はそう言って本邸に支度部屋を用意した。


 ジャックの襲撃に巻き込まれ、荷物の大半を失ったことになっているセシルは、公爵邸で一式借りることになった。

 実際はクリスティーナに盗まれてしまうため、ろくなものを持っていなかっただけだ。


 支度部屋にはセシルとアメリアの衣装が準備された。

 アメリアはブラックウッドの正式な民族衣装、セシルはブリンストン公爵領で貴族女性が着る地方色の強い衣装を準備してもらった。


 セシルが準備のためにその部屋に出入りしていると、クリスティーナは時間をおいてやってきた。

 係の者に話しかける。

「妹に頼まれて衣装の点検に来たの」

「そういったことはこちらでいたします」


「そういうわけにはいかないの。妹に恥をかかせる気」

「お引き取りください」


「このままではあなたは責任を取らされて大変なことになってしまうわ。首になりたくないでしょう」


 クリスティーナは、時には恫喝し、中に入ろうと長時間粘った。


 報告を受けた公爵は途中から見ていたらしく興味深そうだった。

「聞きしに勝るとはこのことだな」


 クリスティーナがなんの目的で近寄ってきたのかはわからない。だがその執着こそが異常だった。

 公爵にとっての問題は、クリスティーナが王太子妃候補だということだった。



 王太子や王太子妃候補、将来を担う少年少女たちを直接見て、ブリンストン公爵はこれから長い間、冬の時代が続くだろうと考えていた。


 この国にはとにかくいろいろなものが足りていなかった。そんな国を動かしていく時、最も必要とされるのは、カリスマ性ある指導者だと公爵は考えている。


 ヘンリー王太子にはカリスマ性があると大勢のものが言っているが、公爵にはどうしてもそう見えなかった。

 率直に言って、小賢しく小手先で生きているように見えるのだ。


 それでも選択肢がなければ、臣下として支えなければならない。

 だが今回起こったジャック襲撃事件、そしてセシルへの態度がどうしても気になってしょうがなかった。



 ◇◇◇◇◇◇



 翌年、十六歳になった王太子ヘンリーは、セシルと婚約した。


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