第三十七話 魔獣
「ケイハさん、サムズさんあれ!?」
広大なサゥクノ湿原。貿易の街アソルから渓谷の港アンプへと向かう旅の途中。
クロイツは荷車の上から、西に広がる地平線を指差した。
「ほぅ」
「おーすごい」
荷車の上にどっしりと座っていたケイハはそれを見て目を細めると、サムズに止まるように合図を出す。
サムズはロムヤークの手綱を引き、速度を緩めてゆっくりと荷車を止めた。
後ろを走っていたスクテレスもそれに続き荷車を止めると、丸みを帯びた眼鏡を軽く持ち上げるようにしてそれを眺め、感嘆の声を上げた。
「移流霧かな? 文献では読んだことはあるけど幻想的だね。まだ少し遠いけど……こちらに向かってきてるのかな?」
「さっきよりも濃くなって見えますから、たぶんそうですね」
荷車の上から身を乗り出して、クロイツは荷車の中で寛いでいた女性達に声をかけた。
「すごいのが西から来てるよ!!」
――西の地平線の彼方まで広がる大湿原。
大地と空の境界線に白い帯が見えたのは、エムラド隊とヤブンスたちと分かれてからしばらくしてのこと。
日が昇り、心が晴れ晴れとするような、ポカポカとした陽気につつまれていたクゥサノ湿原は、ようやく本来の姿を取り戻すかのごとく、本領を発揮し始めた。
目に見える視界、その両端一杯に姿を広げた霧の一団は、まるで巨大な白津波。
広大な湿原をなでるように、音もなくゆっくりとした速度でこちらに向かってきていた。
「わぁ、なによあれ?」
「すごいな」
「ふぉ~」
ホノカは、迫りくる白津波をみて瞳を輝かせた。
ルシャは、軽く片手を腰に当てながらそれに感嘆の声を漏らす。
ポルは、かわいらしいきつねを思わせる尻尾を激しく振った。
「あれに飲まれちまいそうだねぇ」
「そうですねぇ」
苦笑したケイトとのんびりとした声を上げたロトザーニ。
キャラバン一向は元気にスーセキノークへの旅路を進んでいた。
霧の発生原理はいくつかあるが、大体原理はすべて同じだろう。
湿り気を含んだ空気が何かしらの要因で冷やされると飽和水蒸気量に達し、余剰分が水となってあらわれるのだ。
霧と靄の区分はその視程(見通すことのできる水平距離)の差だ。1km未満の視界は霧といい、1km以上10km未満を靄という。
さらに詳しくいえば、陸上において視程が約100m未満の場合は濃霧ということが出来る。
「暖かく湿った空気が温度の低い湿原の上を移動して、冷やされて霧を発生させたものだね」
「移流霧って響きどおりですねぇ」
スクテレスの解説に、クロイツは相槌をうった。
霧は緩やかに、それでいて瞬く間にクロイツたちを飲み込んでいった。
空気と霧のあいまいな境界線が通り過ぎると、辺りの空気は少し冷たさを増して、湿原の土と草の匂いが鼻に届いた。
濃厚な霧を発生させる装置を四方から作動したかのように、霧の中に、さらに濃厚な霧が混じっていく。
あれよあれよという間に、現在の視界は50mほど。
吹き抜ける風のかすかなうねりにあわせて、霧が幾重にも重なりながら帯をつくって見える。
そんなひんやりとした空気を吸い込むと、濃い霧が体内に入るのを感じた。
「飲み込まれてしまえば……あとはあまり面白みはないね」
「まぁそれでも貴重な体験のような気もします
手綱を握るサムズの言葉に、同意するようにクロイツは苦笑した。
視界をさえぎられた街道はただ粛々とまっすぐ伸びているのみ。
周りを見渡しても霧きりキリ……白いぼんやりとした世界が360°広がっているだけと言っていい。
荷車のスピードは小走り程度にまで落ちてしまった。
濃い霧はさらに湿り気をまし、少しばかり服がぬれたようにも思える。
街道沿いに植えられたスルーザー返しのための植物。“シリスル”と呼ばれる鋭利な刃物を思わせる植物には、大きな露の玉ができ、それが深い霧の中で時折キラキラと光り道しるべのようになっていた。
○●○●○●
湿原の中に存在する大小無数の木々の島々。
左右に木々が生い茂る街道に入ったのは、昼を少し過ぎた頃合であった。
キャラバンの歩みが止められたのは、それから少ししての事。
濃い霧の立ち込めた街道の中を、荷車はゆっくりと止まった。
止まった荷車の先には、赤い毛並みをした狼のような生物が倒れていた。
体長50cm程度の大きさだが、それが三十匹ばかりも……血を流すわけでもなく、周り一帯に散らばるように倒れていた。
狼たちの白く鋭い牙のある口元から、たてがみ、ピンとたった耳の後ろにかけてのラインから体に向かって、黒い炎を思わせるような毛並みが見受けられた。
「この魔獣は……“トゥーゲン”」
狼を確認したサムズは、それを見下ろしながら少し険しい表情を浮かべる。
「この狼は魔獣なんですか?」
狼に触ろうとしたクロイツを、サムズは止めるように制した。
「“火炎種”と呼ばれているものだね。こいつら自体はあまり危険じゃないんだけど。起こすと厄介だ。ケイハさんどうします?」
ケイハも険しい表情でそれを見下ろしていた。
「討伐の影響だろうな」
「湿原の“見回り役”が街道にまで出るとは、気絶しているようですが……森の奥まで引っ張っていきますか?」
ケイハは少し考え込むと首を横に振った。
「いや……早く森を抜けてしまったほうがいい」
「分かりました」
シトである二人は言葉少なめにそういうと、いそいそと狼たちを起こさないように、丁寧に街道のわきによけ始めた。
クロイツはそんな二人を手伝おうとしたが、大人しく荷車でまっているようにといわれてしまった……。
「トゥーゲンがいた。すばやく森を抜ける」
言葉少なめにケイハは指示をだして、キャラバンは少し足早にトゥーゲンが倒れていた場を後にした。
「俺は初めて魔獣を見たよ。本当に紋様が入っているんだね」
クロイツは少し興奮していた。
触ることができなかったのが少しばかり残念であったが、赤い毛並みに入った黒の炎を思わせる紋様。
まるで古の文字にも思われるセモゾ紋様が入った魔物は、予想以上にそれっぽかった。
「クロイツ。お前は襲われたい願望でもあるのか?」
「一応C+ランクに指定されてる魔獣なんだからね、あんたは少し緊張感を持ったほうがいいわよ!!」
少しあきれた様子のルシャは、ちらちらと荷車の後方を見ながら少し警戒していた。
ホノカはクロイツと同じく、少し楽しそうにしているから人のことは言えないだろう。
「バルも魔獣だって怒ってる」
ポルの脇で、普段のバスケットボール大からバランスボール大まで体を風船のように膨らましたバル。体をゆらし、自らの存在を見せつけていた。
バルのかわいらしい自己主張にクロイツは思わず苦笑する。
「あぁ……悪い。でもバルは魔獣らしくないからなぁ」
黒く丸い体に、ぴょこんと生えた黒猫の耳と悪魔のような尻尾、大きな一つ目とその下にある口から伸びる赤い舌。
バルは姿形だけでいけば魔獣そのものだが、いつもポルにくっついているだけなので、すでにアクセサリーのようなものに感じていた。
こうして火を扱うというトゥーゲンを見た後では、その存在を忘れてしまっても仕方がないだろうと思う……。
ホノカが膨らんだバルを抱き寄せながら言う。
「それにしても……トゥーゲンが出るなんてね。全部気絶させられていたの?」
「何か棒のようなもので殴打されて気絶させられていたらしい。相当の技量だってサムズさんが褒めてたな。普通は薬を使うんだってね?」
さわり心地の良さそうなバル。
それをホノカから奪い取ろうとしながら、クロイツはルシャを見た。
「トゥーゲンにあったら逃げるようにと私は聞いていた」
「……ルドキュ村長に?」
「ああ、小さな頃であったがそう父上が言っているのを聞いていた」
「へぇ」
少し緊張した面持ちのルシャ。それを見ていると、少しだけ魔獣というものを軽んじすぎてる自分がいるのかな? と思ってしまう。
今こうしてホノカに抱きしめられているバルが、“Aクラスの魔獣”だという事実が、妙にこちらの気概をそいでしまうのだが……。
柔らかなさわり心地は確かに、最高級Aクラスの癒し効果を発揮している。
クロイツたちの和気藹々とした様子を見て、ケイトは笑みを浮かべた。
「トゥーゲンは湿原の見回り役といわれていてねぇ。血を流さず倒すのが掟だと昔から言われているのさ」
「見回り役……サムズさんもそう言ってましたね? 血というのは?」
「トゥーゲンの血には不思議な力があってね。その血に呼び寄せられるように、森の奥から次から次へと仲間が現れるのさ」
「仲間を呼ぶ?」
クロイツは闇夜の湿原にうごめいていたスルーザーたちを思い出していた。
あれも血に呼び寄せられて集まっていた……トゥーゲンも似たような性質を持っているのだろうか。
「呼び寄せられる仲間というのは、湿原に住む魔獣のことでねぇ。たまに危険なやつも混じることがあるのさ。……それが“クドーク”。トゥーゲンの親玉と言われていてねぇ」
「クドーク?」
ホノカからバルをようやく奪い取り、滑らかな毛並みをした風船を抱きしめた。ふわポヨとしつつも適度な硬さ。予想以上に温かい。
「クドークはバルと同じAランクの魔獣なのよ! もう、返しなさいよ!!」
ホノカにあっさりとバルを奪われた。思いっきりバルの尻尾を引っ張ってくるので、クロイツは手を離すしかなかったのだ。
Aランクを舐めてるのはホノカだと思えてならない……バル怒っていいぞ!
「お前たちは……もう少し緊張感をだな……」
「といいつつ顔に触ってみたいと出てるよ。ルシャ……」
バル争奪戦は、ポルのストップが入るまで続けられた……。
「早く森を抜けることが出来るといいんだけどねぇ」
ケイトは荷車の後ろから霧の深い森を見て、そう呟きをこぼした――。
○●○●○●
カザキの村は盗賊団のアジトから少しばかり離れた場所にある街道沿いの小さな村である。
“非道なる盗賊団から守り続けることが赤の団の誉れ”と言われていた村は、今はその面影を残していなかった。
霧で村の全体をつかむことが出来なかったが、村があったと思われる広い焼け野原の中央には、白い布で作られた簡素なテントが複数個あり、テントの前には真紅の下地に金のきらびやかなグリフォンの模様がまぶしい、大きな三角旗が立っているだけであった。
「これはこれは、よく無事にここまでたどり着けたね」
そんなクロイツたちを出迎えてくれたのは、人のよい笑顔を浮かべた色男のアラクである。
朝方、親切にもグリフォンを提供してくれた声の主は、相変わらず銀の小奇麗な鎧をまとい、騎士のような格好をしてそこにいた。
霧に覆われた街道を進んでいたクロイツたちは、案の定。付近の街道を巡回していた赤の団につかまり、ここまで取り調べのために連れてこられたのだった。
「私がいるってばれないようにしなきゃ」
数刻前。ホノカは荷車の中であわてていた。
赤の団の騎士たち、複数名に囲まれた時にはどうなるかと思ったが、その場で手荒に調べられなくて済んだのは幸いであった。
これはケイハとシトの力である。騎士である彼らもシトに強引に手を出すことを躊躇ったのだ。
しかし、調べさせてもらえないとなれば通すわけにもいかない。という彼らの仕事上の事情を汲んだ上で、村についたときに調べることをケイハは許可してしまった。
「盗賊団の残党が逃げ出さないように厳重にチェックさせてもらう!」
と、荷車を引率している騎士たちが意気込んでいたのだ。
ホノカ――貴族がここにいるということがわからないほど無能ならば、盗賊など見極めできるはずもないのだが……
「どうしよう。ここでばれたら絶対面倒なことになるわ!?」
「あきらめて素直に説明すればいいんじゃ?」
「い・や・よ!!! それにあんただって逆上したあいつに攻撃されたくないでしょう!?」
赤の団が現在陣を張っている場所……カザキの村にはホノカの元許婚者のアラクがいる可能性があった。
グリフォンをけしかけたアラクを痛烈に思い出したクロイツは、荷車の中で顔をひくつかせた。
少なくともアラクはホノカが気に入っていたようだから、逆上した挙句に攻撃されるという可能性は十分にありうる。まぁやられたらぶっとばしますけど。
息を潜めつつ戦々恐々のホノカは、鋭い目でクロイツを睨みながら打開策を考えろ! と命令してきた。
「髪の色落とせば?」
なので、クロイツは最高のアイデアを提供した。
ホノカはなるほど、と妙に納得したようにうなずくと「リークシィ」と唱えた。
すると、なんということでしょう。黒かった髪が夕日が最後に見せる鮮やかな赤に変わったじゃありませんか………………。
「――それって染料じゃなかったのか? 魔法だったの?」
「髪の色を染めるのは染料よ? それを落とす魔法をしただけじゃない」
ほぅ。とクロイツは目を細めてホノカを眺めた。便利な魔法もあったものである。
どうやらホノカは一旅人として押し通るつもりらしい。
あとは、いつもの喧々とした態度を出していれば問題ないだろう! といったら殴られた。ここでやられても迷惑ではあるが、いい調子である。
それにしても、こうして昼間に赤い髪に戻った彼女を見るのは非常に稀だ。
ちょくちょく朝と夜にその姿を見慣れているせいか、あまり違和感を感じることもなくなったが……。
黒が高貴なる気品というならば、赤は鮮やかなる気品というべきか。
「ああ、そうだな。服も変えないとダメだな」
さすがに有名私立高校のようなブレザー姿はまずいだろう。
「そうね……旅衣装じゃないと目立つわね。ケイトさん衣装お借り出来るかしら?」
「買ってもらってもかまわないけどねぇ」
ケイトが商売人らしくニヤリと笑うと、ホノカはクスリと笑った。
「それならアクセサリーも頂くわ。……あんたはそこでぼけっと何してるのよ!!」
「えっ?」
「着替えするから出ていきなさい!!!」
と。
半ば荷車から蹴りだされ、そして現在のアラクとの遭遇に至る訳である。本当にカザキの村にいました……。
“フオードゥル家”と呼ばれる貴族の名家。
武芸に秀でたネイ−ラリューシユ家に対して、鉱石の取引を牛耳ってきた家柄であるとホノカに聞いていた。
年は20歳前半であろうか。少しクセっ毛を思わせるふわりとした髪に、透き通った赤い瞳をしていた。
容姿でいけばかっこいい部類に入ってしまうのはホノカも認めるところでもある。
クロイツと比べれば……当社比三ポイント分くらいアラクのほうが上であるだろう。悔しいけど。
銀の甲冑には汚れはなく、霧の中であっても白銀に輝き、少しばかりまぶしく感じる。
「この辺りに現れた魔獣に手を焼いていてね。霧も出てきてたし、盗賊の掃討がなかなか思うように進まないのだよ」
「トゥーゲンですか? 先ほど街道で見かけましたね」
話しかけてくるアラクに、クロイツは頑張って相槌をうっていた。
「トゥーゲンは“湿原のハイエナ”と呼ばれていてね。普段はもっと湿原の奥地にいて、めったに出会うことはないはずなのだが……今回の掃討作戦で縄張りを侵されたと勘違いしたのだろう。街道にまで現れてしまったんだ。強さはそれほどではないのだが、そのしつこさが問題なのだよ。倒せば倒すほど数を増して追ってくるのさ」
「ほぅ」
ケイトたちは“湿原の見回り役”と言っていたはずなのだが……
「倒す分には問題はないが、殺してしまうとまた問題でね。君知ってるかい? トゥーゲンの親玉の話を」
「いや。詳しくは知らないです」
クドークと呼ばれるAランク魔獣のことだよな。
「そうかい。ならば僕が教えてあげるよ。C+ランクにすぎないトゥーゲンだが、その血は不思議な力を持つと言われていてね。血に呼び寄せられるように湿原の奥地に棲む通常のトゥーゲンとは一線を画する親玉が現れるそうなのだよ。ランクにすればAランク! とても君たちごときが相手に出来るものではないのだ」
「……そうですか」
いや、そこまでは知っていることです。
「なんだい。感想はそれだけかい? いいや君は分かってないのだね? Aランクというものはそもそもだね、僕が率いる赤の団でも指折りの精鋭たちが束になって戦うような相手なんだよ。……それがどれほど危険か、無知なる君に理解できないのは当然として無理からぬことかもしれないけど。あ、僕が率いる部隊はそんなAランクの魔獣が出ても大丈夫なんだけどね」
あえて自分がいれば大丈夫と誇張しないあたり、彼の正直さが見えた気がした。
いや、自慢されてもどう反応していいのか困る。だから何? とほんとは言いたい。
「ではトゥーゲンの撃退法でも教えていただければありがたいのですが?」
「そうだね。自らの力の無さを認めることは大切なことだからね。いいかい? トゥーゲンにあったら絶対に殺してはならないんだ。出来れば動きを封じて逃げるのが一番なのだよ。もっとも、僕たちが有しているグリフォンの速力には到底追いつくことが出来ない相手だから、特に気にしたことは無いのだけどね」
「アラク……さんはトゥーゲンに実際に会ったことは?」
「きみぃ、貴族である僕にさん付けはいただけないな。アラク様! と呼ぶほうが今後の君のためだと僕は思う。礼儀というのは相手を敬う心が大切なんだよ」
「……アラク様」
「残念ならが僕は見たことないね」
こぉの貴族のボンボンがーーーーーーーーという衝動を必死に押さえ込む。
そう。珍獣と思えばいいんだ。人生で一度あるかないか未知との遭遇。そう思えばいいんだ。
「それにしても、君は髪も瞳も黒なんて珍しいよね。それは地毛なのかい?」
「え……ぇ、まぁ」
「僕としては黒も好きだけどね。やはりクエイス公国民たるこの赤が一番だろう? 君はどう思う」
「あーそうですね。赤もいいですね」
クロイツは赤の団から隠れるように距離をおくホノカをちらりと見た。
旅人風の格好をしているホノカは新鮮である。
美しい顔立ちが少しばかり目立つが、ルシャやポルと三人で並んでいればそれも軽減されるというものだろう。
いやしかし、アラクには感心してしまう。ホノカの存在にまったく気がつかないなんて……。
まさか彼もこんなところに元許嫁がいるとは思っていないのだろうが、それにしても大したものである。
しかしそれでもアラクがホノカと直接対峙してしまえば、さすがにそれも怪しい。
クロイツがかなり嫌々ながらも、アラクとしぶしぶ会話をつなげているのにはそういった理由があるのだ。
要はアラクの注意を引き付けるスケープゴート、生贄としてクロイツは彼と会話しているのだ。
「ほぅ……」
流し目をしたアラクが、クロイツから視線をはずして荷車の方角を見やった。
『あ、やばい……』クロイツは焦る。
「君たちは美しいお嬢さん方を連れているね」
「そ、そうですね」
セーフセーフ。ばれてない。ばれてないよ。
「一匹は亜人のようなのが残念だけど」
「一……匹?」
さすがのクロイツも我慢の限界だ。聞き流すに耐えない言葉である。
「いや、失礼。彼女もかわいらしい容姿をお持ちだ」
こちらの臨界点ぎりぎり……で軌道修正をする男アラク。
策士なのか天然なのか少し迷うところではあるが、黙っていたほうがいい人種であるのは疑いようがないだろう。
クロイツはケイハに目配せし、荷車のチェックが終わったらすぐに出立しましょうと伝えた。
ケイハもそれにうなずきで返してくれた。クロイツはほっとする。あと少しの我慢だ。これ以上はぶっ飛ばさない自信がない。
「アラク様、荷車のチェック終わりました。盗賊らしき者はおりませんでした」
「ご苦労」
騎士の報告に仰々しく頷くアラク。クロイツにとってそれがどれほどうれしいことか、彼には理解出来ないだろう。
ホノカの存在に気づかなかった騎士たちにもう何も言うまい。仕事は迅速なほうが喜ばしいからな!
直後――
「トゥーゲンが現れたぞーーー!!!」
見張りをしていた騎士が叫んだ方角から、赤い毛並みをした狼の群れ、五十匹ほどがかけてくるのが見えた。
当然だろう。赤い狼たちが倒れた場所からここはそれほど離れていないのだ。気絶から目が覚めて追ってくることは容易に想像できる。
「追ってきたか! 逃げるぞ! 乗れ!!」
ケイハが声を張り上げると同時に、クロイツは荷車に逃げ込んだ。すかさず風の鎧を発動させ、その場から離脱をはかる。
「なんだい。君たちは逃げ出すというのか!!?」
去り際になにやら聞こえた気がするが、全開モードのヤンとマーが走り出すと、それは遥か後方へと消えていった。
「あのままあいつ等に襲い掛かってくれれば!!」
ヤンの手綱を握るサムズがクロイツの気持ちを代弁するかのごとくそう叫んでくれた。
だが、後方を見れば二手に分かれた一方の群れの狼たちがこちらに向かってきていた。
「しばらく走り続けろ!!」
ケイハは少し険しい表情のまま指示をだす。
一人荷車に突っ伏したクロイツ。
「お、おつかれ?」
言い寄ってきた赤髪の少女のほっぺを摘んで横に引き伸ばした。
「ひゃにするの!?」
「もう二度と、二度とあいつと顔を合わせたくない!!」
ホノカの代わりにアラクを引き付けたクロイツは精神にふかいダメージを負った……。
○●○●○●
トゥーゲンと呼ばれるC+ランクの火炎種魔獣は、距離を保ったまま荷車のあとを付いてきた。
深い霧の中、金の瞳が無数に揺れて見える。
時折咆哮とともに火炎放射をしてくることはあるが、それ以外はおとなしかった。
クロイツは本物の魔獣による攻撃を見ることで心の癒しを得て、少し前のアラクショックから立ち直りつつあった。
「まいったねぇ」
ケイトが荷車の後方を追いかけてくるトゥーゲンを見てため息をこぼした。
放たれた炎をルシャが水魔法で相殺させる。
「どうするのだろうな?」
「気絶させるか、薬で足止めすればいいと言っていたような?」
「私の炎じゃ丸焼けにしちゃうわね……」
襲い掛かってくるわけでもなく、ただつけてくるだけのトゥーゲンを放ったまま、ケイハはひたすら街道を進むように指示を出していた。
クロイツは炎の迎撃をルシャとホノカに任せて、ひらりと荷車の上にあがった。
「ケイハさん、トゥーゲンを気絶させますか?」
「いや、出来れば森の中にもどしてやりたい。でないと街道に危険な魔獣が来ることになるからな……」
ケイハは霧に霞んだ街道を見据えて、表情を動かさずそういった。
ヤンの手綱を握っていたサムズが叫んだ。
「赤の団のやつらが事態を悪化させると思いますけどね? っと、前方からも来たようだ!!」
荷車の前方。白く深い霧の先に狼たちが群れていた。その数二十匹ほど。
サムズは前方に新しく現れた狼たちから距離とるようにゆっくりと荷車の速度を落とす。
ケイハが荷車の上からドシンと飛び降り、その前方の狼たちを威圧するかのごとく槍を構え、覇気を狼たちにぶつけた。
二台の荷車は深い霧につつまれた森の中で前と後ろ。トゥーゲンの群れに囲まれてしまった。
トゥーゲンたちはクロイツたちを取り囲むと、咆哮とともに口から火炎を吐き出した。
ポケモンの火炎放射を思わせるそれは、なかなかかっこよかった。
「おぉ!?」
「何をしているんだ!!」
近くで様子を伺っていたルシャが、少し怒りながらも水壁を形成し炎から守ってくれた。
クロイツは狼を攻撃するでもなくただそれを見て喜んでいた。
ケイハ、サムズ、スクテレスとロトザーニは荷車を守るように展開し、ケイハとサムズはそのまま槍で狼の魔獣に襲い掛かる。しかし、トゥーゲンたちはすばやく身を翻すと荷車からもかなりの距離をとり、両者は街道の中で互いに睨み合った。
「……森を荒らしたって。そう怒ってる」
魔獣に囲まれた中、クロイツに寄ってきたポルが少し切なそうにポツリとそう言った。
獣人であるポルは魔獣と心を通わせることが出来る唯一の存在。
クロイツは元気のないポルに問いかけた。
「おとなしく森に帰ってもらうことは出来そう?」
「ポルの声は届かない」
ポルはよりいっそう耳を前にたれた。
ルシャは短刀を引き抜くと水の刃を発生させ、それを棒状に変化させる
「どうする? 戦うか?」
「炎中毒の魔法やってみる?」
詠唱を開始しようとしたホノカをポルが制した。
「――バルが説得する」
緊張した空気が漂う中、ポルは黄金色の尻尾をふりふり振りながら、クロイツを見上げて何かの同意を求めてきた。
先ほどまで垂れていた耳が、今はピンとたち、何かやる気に満ちている……ようにも感じる。
「やってみな」
ポルの頭をポンポンとたたいた。最悪の場合は風の魔法で全部ぶっ飛ばしてやろうと思っていたところだ。
平和的な対話という解決法があるならばそれはそれでよいだろう。
クロイツたちが見ている中で、ポルはバルを無造作に狼たちへと放り投げた。
孤を描きながら飛ばされたバルを、クロイツたちは少し唖然とした面持ちで見送った……。
バルの黒いしなやかな風船のような体が、見る見る内側から大きくねじれるように変化していき、あっという間にケイトの荷車に匹敵する獣へとその姿を変えていく。
「!!?」
一同は目を見開いてそれを見た。突如として現れた赤い毛並みを持つ一匹の獣を……。
トゥーゲンと同じように見えるが少しばかり違う。
トゥーゲンは赤い毛並みに黒い炎を思わせる黒い紋様が入っている狼だ。
それに比べればバルが変化したこの獣は、狼と言うよりもたてがみを持ったジャガーに近い。
赤というより紅と表現するにふさわしい毛並みは滑らかで美しく、体には黒い蛇が巻きついたような紋様が見受けられた。
少し横平になった大きな口の両脇から下に向かって生える鋭い二本の牙。大きな金色の瞳。ピンとたった耳の間には、ふさっとした黒い鬣が背中まで続いている。
大地に食い込んだ鋭い足爪。
特に前足は五本指に分かれており、その気になればものも掴むことが出来そうなほど人間的だが、指の先にある鋭い爪がすべてを切り刻みそうだ。
そんな大きな体から伸びる尻尾は、太い鞭を思わせる。尻尾の一振りだけでも十分に人を殺せるだろうと予感させた……。
獣の呼吸音が静かなその空間に響く、獰猛な獣の息遣い。
誰も声をあげることなくそれをただ見守った。
巨大な赤い獣は、金色の大きな瞳でポルを軽く見据えると数度まばたきをした。
そして再び前を向き遠吠えをあげた。
――ボボォォォォォォォッ!
次いで、象を思わせる野太い足をドシンッと一歩踏み出し、大地に少しばかり亀裂をいれながら鋭い爪を地面に食い込ませると、荷車の周りを囲んでいた狼たちを睨み付けた。
狼たちはその一睨みで一目散に逃げ出していった――。
正式な魔獣区分けで、変幻種、種族名ポルヴォーラ。
バルーンと呼ばれるAランクの魔獣はポルの親友である。
本来のポルヴォーラは、対峙したものの心に反応して姿かたちを変える生き物で、生来としては穏やかな性格の魔獣であるという。
しかし、こうして能力の一端を垣間見ることが出来ると、やはりAランクは伊達ではないなとクロイツは認識を改めた。
赤く巨大な毛並みをした獣は、ポンッと音を立てると再び元の黒いまん丸であるバルーンに戻り、ふわふわとポルの手元に戻ってきた。
「ありがとう」
ポルがバルをなでると、バルはうれしそうに目を細め、そして唖然としたクロイツたちに大きな一つ目を上に湾曲させて、どや顔をして見せた……。