第三話 旅の始まり
はじめは清々しい旅を予想していたが、歩く度に現実を思い知らされる。
黒沢樹。もといクロイツは、額に大粒の汗をかきながら、薄茶色の落ち葉を踏み締め森の中を歩いていた。
生命力溢れる新緑の木々からは光の筋が煌めきながら差し込み、風になびく葉は、さわさわと音をたてていた。小鳥の囀りが、そこかしこから絶え間無く聞こえている。
自然として広がる森は、クロイツが知っている世界での森とあまり大差は無い。
そう、この森にトレッキングが出来るような“道”があれば文句の付けようはない。
道さえあれば……と何度も思いつつ、少しでも前にと心では思っていたが、体はついてこなかった。
『手伝いましょうか?クロイツさん』
黒沢とこちらの世界で契約した風の精霊、キュアラがいう。
『もうすぐ日が暮れます』
クロイツは空を見上げ、呻いた。
この世界を訪れて七時間程。歩き始めてからは二時間経っていた。森はただひたすら続いている。
歩き始めた時は、自分の体力を過信していた。
一番近い村までクレイ湖から歩いて五日程で着く距離と聞いたので、それならば一日で着いてやる、と意気込み走ったのが失敗だった。
すでに息も絶え絶えだ。
ここは石碑峠から南を見下ろしたところにあった大きな湖。
クレイ湖と呼ばれる湖へと向かう、森の中だ。
湖から南南東へ森を抜けて五日程歩くと、土地が拓け、そこには“ファルソ村”があると聞く。
ファルソ村は花の村としても知られ、四季折々の花々を特産としているらしい。
初夏のこの時期は、特に多様な花が期待できるそうだ。
しかしながら、今は当初の目的地であるファルソ村どころか、スタート地点であるクレイ湖すら……日が暮れるまでに到着出来るか微妙なところだった。
クロイツは己の無力さ、自然の偉大さを思い知らされていた。
早々に野垂れ死にしてバッドエンドのパターンが頭に浮かび笑えてしまう。
ここで意地を通して、やり抜くのも一つではあるが、そうはいかなかった。
クレイ湖周辺には“緋猿”と呼ばれる魔獣が棲んでいるらしい。
体長3mほどの巨大な猿で、名前の如く緋色の毛並みに、鋭い牙と爪を持つと聞いた。
非常に賢く、集団生活をするのは猿の習性そのままだが、縄張りに不用意に踏み込めば人など命はないという。
緋猿は現在、クレイ湖の東側近辺を縄張りとしているらしい。湖の北側にいるクロイツは、多少なりそこに近い。夕方になれば縄張り確認の緋猿に出くわす可能性もあった。
なので、日が出来るだけ高いうちに湖の西側をすばやく抜けていこうと考えていたのだが、道無き森を歩くのがいかに困難かを身をもって体験していた。 マジできつい。
「よろしく頼むキュア」
旅の前にキュアラはクロイツに、話しやすい言葉で結構ですよ。と言われていた。
だから、無理な敬語は止めた。親友と話す口調にした。
相変わらずキュアラは敬語なのが、お嬢様という自分の直感が当たっていたな、とクロイツはほくそ笑む。
キュアラはクロイツの心の底で、ざわざわとした言葉を紡ぎながら何語かを発した。
するとクロイツの体から疲れがキレイさっぱり無くなり、ついで全身に力が満ちた。
目には見えないが、何かに覆われていると感じた。
「これは?」
『癒しの魔法と、風の鎧です』
初めて体感した本物の魔法、正確には精霊魔法と呼ばれるものだそうだが、クロイツは素直に感激した。
クロイツは疾風の如く翔け出した。体が軽い。一度の跳躍でかなりの距離が稼げた。まるで重力を無視した月面の宇宙飛行士のようだった。
しかし、変わり行く景色のスピードを見れば、それはゆっくり進んでいるのではなく、自身がすさまじく早く移動していると教えてくれる。
過ぎ行く風景がやけに遅く感じるのは反射神経も強化されているからだろう。
さらに、木々の合間を縫うように駆けるクロイツは、空間把握を前方に向けることで、安全に走行が可能だった。
これは毎日バイクで鍛えた技術の応用だ。
調子に乗っているとうっかり巨木に突っ込んでしまったが、問題はなかった。巨木は巨大な鉄球をぶつけられた様に粉々に粉砕されてメキメキと音を立てて崩れた。
どうやらこの風の鎧。クロイツが想像するよりも遥かにチート仕様らしい。
魔法の凄さに驚嘆しながら、木々をすり抜けるのを楽しんでいると、前方に煌めく湖面が見えた。クレイ湖だ。
あまりの速さに、今までの苦労はなんだったのかと笑ってしまいそうになった。
しかし、あの苦労が無ければ旅の辛さを感じることもなかっただろう。
魔法が無ければ大変なのだ。
それを胸き刻みつつ、湖に沿って西側へと向かった。
しばらく進み、日がまだあるうちに、巨大なくすの木と思われる植物の根本で休みをとることにした。
小さな崖を覆うように生える巨木は、直径が10mをゆうに越えていた。太い幹から伸びる枝は、天高くそびえ立ち、あたりの木々より頭ひとつ飛び出してみえる。あまりの重さに耐え切れなくなったのであろう、巨木から折れた枝が近くに転がっていた。枝の直径すらも、クロイツの身長をゆうに越えている。
湖を統べるが如く佇む巨木の下には、小さな窪地があり、クロイツはそこを寝床に決めた。
さてと、小休止を終えたクロイツは辺りを見渡し食糧を探すことにした。
湖には魚がいるだろうが捕まえたとして、火を起こすのは面倒だ、湖魚の刺身など聞いたことが無いし包丁も無い。
そういえば、この世界に醤油はあるのだろうか? 考えて思い出すたびに、無くしたものに気が付いた。
うなだれつつ、森へと向かう。食べれそうなモノを見つけては、キュアラに片っ端から食べれるかどうかを聞いた。
キュアラも何でも知っているわけではなかったが、分かる範囲で答えてくれた。
見たことが無い白いきのこ。松茸によく似た形をしたそれが今晩の主食。
湖で汚れを落とし噛り付く。
筍の先端を生で食べたような、思ったより甘い味がした。これはいける。
昼ご飯を食べなかったクロイツは、異世界での最初の晩餐を、白いなぞのキノコで祝った。
明日は早めに起きて、キュアラに風の鎧をもらい、一直線にファルソ村へ向かってしまおうと考え、その日は早めに就寝した。
○●○●○●
夜の闇の中、湖の水が静かに打ち寄せ、小さな波を幾重にも重ねながら、どこか心地の良い旋律を森に刻んでいる。
空には満天の星々が輝き、目視でもクレーターがくっきりと見える程大きな月が、まるで他の星々を威圧するかの如く空の中央に居座り、世界を見下ろしていた。
湖の畔の崖に生えた巨大な木。木の根は岩肌を割るように二股に別れ、下には横穴のような小さな窪地があった。
茶色みを帯びた星明かりに照らし出されたそこには、不自然な程高く積まれた落ち葉の山があった。
落ち葉の山は小刻みに震え、カサカサと音をさせていた。
「寒い……」
まるで、大きな蓑虫のようになりながら、クロイツは異世界での初めての夜と戦っていた。
バイクのレザージャケットを盾にして、必死に寒さを耐え忍んだが、さすがに耐え切れなかった。
寝床として轢いた落ち葉に体を滑り込ませ、ただひたすら寒さを忘れようと目を閉じ、夜が明けるのを待っていた。
ようやく、東の空が明るみはじめ、湖面や森の木々からあがる朝霧が、薄く辺り全体を包み込み始めた頃、クロイツは寒さに震えながら外に出てきた。
「おはよう。キュア」
朝霧に霞む湖面を見渡して、冷えた体を温めるように伸び運動をしながら、クロイツは挨拶をした。
『おはようございます。クロイツさん』
物腰の良いお嬢様のような、爽やかな声が頭に響く。
声を聞いたクロイツは、心が温かく感じる。独りでは無いことが心強かった。
太陽が顔を出すまでは、まだまだ時間がかかりそうだったが、クロイツは朝食を食べる事にした。
昨晩見つけた白いキノコ(松茸エリンギ。キュアラも名前は分からないらしいので勝手に名付けた)を湖の水で洗う。冷たさに顔をしかめつつ、ついでに、持っていたハンカチを浸して顔を拭いた。頭の奥までシャキッとした。
窪地の前に戻ると、腰を下ろし、湖を眺めながら生のまま松茸エリンギに噛りついた。
クロイツは松茸エリンギを食べながら、今後の計画を考えていた。
昨晩から考えていたように、今日は初めからキュアラに風の鎧を貰い、一気にファルソ村まで駆けていく予定とした。
時間をかければ自力での走破は可能だろうが、山中で知識も無くうろつくのは得策ではないと悟った。夜の寒さにも堪えた。
短い朝食を終えたクロイツは、キュアラにこの先の予定を相談しながら、日が差し込むのを待った。
温かな日差しが辺りを照らし出した頃、クロイツは行動を始めた。おもむろに重ね着していたシャツを一枚脱いだ。
まだ肌寒い空気を我慢しながら、脱いだシャツの胴の部分を縛り、袋状にした。
「よしよし」
村でのお金稼ぎとして立てた計画。それは、松茸エリンギを村まで持っていって売ることだった。
クロイツは昨晩見つけた松茸エリンギの群生地までいくと、シャツの首もとからキノコを放り込んでいった。
これだけ大量にあれば少なくとも他の食べ物と交換するくらいはしてもらえるだろう。
異世界生活を満喫しているクロイツの空間把握内にいやな影が映りこむ。そいつはスルリと音も無く近寄ってきていた。
『キュア!』
クロイツが心の中で叫ぶと、一瞬で風の鎧が全身を覆った。
しばしおいて、タイミング良く後ろへ飛びのき、持っていた袋を脇に放り投げて身構える。
クロイツが先程までいた所に、「ドハン」と音をたてて上から何かが落ちてきた。それは首を持ち上げこちらを見下ろす。
『ユングです』
簡潔に、しかし少し驚いたように生物の名をキュアラが述べる。
巨大な白蛇。白く長い胴体は全長10mといったところか。大きく開かれた口は毒々しい赤色をしており、その上あごからは二本の白く鋭い牙が生えていた。
クロイツを余裕で飲み込みそうだ……。
念のため、空間把握能力を50m程度広げておいたのが役にたったとクロイツがそう思う暇もなく、ユングは大きな口を開けて、牙を突き立ててきた。
この世界、クロイツを捕食する生物がいると分かった嫌な瞬間でもあった。
風の鎧の効果か、ユングの攻撃はゆったりとして見えた。が、どうやらそれは淡い観測だったようで、自分に向かってくるにつれて当然加速し、最初の一撃は辛うじて避けることが出来た程度であった。
ユングと呼ばれる大蛇も少し警戒したようだ。距離をとったままこちらを凝視してくる。
選択肢は二つ。戦うか逃げるか。
蛇はピット感覚なるものを持っている。それは熱センサーといって、体温を見ることができる感覚だ。
逃げたとしてもどこまでも追ってくるだろう。この世界の蛇も持っているかは不明だが……。
ならば戦うしかないだろう。
精霊により強化されたクロイツは、襲い掛かってくる蛇に負ける気がしないと、そう信じることが出来た。
巨木をぶち破るこの力の真価を試す良い機会だ。
クロイツの強化された反射速度でも、蛇の一撃それなりに早い。が、止められないほどでもなかった。
二度目の攻撃で向かってきた二本の牙をガシッと掴み、下顎を片足で押さえ付けて蛇の一撃を受け止めた。
驚いたユングは一瞬たじろぎ動きが止まる。それを見逃さず、クロイツは力の限り牙に力を篭めた。
「んぐっ」
ばきばきっと二本の牙が根元から上に向かってへし折れた。
感覚としては発泡スチロールで出来た置物を壊す感じだ。
牙を折られたユングは縮こまるようにクロイツから距離をおくと、一目散に森へと消えていってしまった。
ふう……、と一息つく。
嵐のような出来事があっという間に終わった。
手に持った牙二本が無ければ夢としか思えない。
クロイツは自然と笑ってしまっていた。
「――風の鎧万歳だなぁ」
無事生き残った喜びがじわじわと巡ってきていた。
緋猿に注意していた所に、大白蛇のユングが来て戦闘。無事勝利。
ユングの情報はキュアラから聞いてなかったが、相手がゆっくりと頭の上に回り込んできたので、冷静に対処できる時間を得られた。
風の鎧は予想以上にチートらしい。
『ユングはガンデス地方の生き物で、本来この辺りにはいないはずなのですが……忠告出来ず申し訳ありません』
「キュア、それは謝る必要はないよ」
クロイツは苦笑するように笑った。
魔法を使えないクロイツであったなら最初の一撃。いや、この湖にたどり着く前に死んでいただろう。
それがまだ生きてここにいるのはすべてキュアラのおかげだ。感謝こそすれなぜ教えなかったんだと怒るわけがない。
聞けば、現在いるクエイス公国はオシル大陸の北東に位置する国であるそうだ。
タトバ山は、クエイス公国の東下に位置し、そこから更に下へと行くとガンデスと呼ばれる地方となる。
タトバ山からならば、歩いて一月ほどかかるガンデス地方は、温暖な気候で豊かな自然があり、農業が盛んな場所だそうだ。
そんなガンデス地方において、ユングは危険な生物として知られているらしく、一対一ならば、魔獣である緋猿すらも倒すらしい。
牙には神経毒があり、くらうと感覚を麻痺させられ身動きがとれなくなるのだそうだ。
いや、聞けば確かに危なかったと背筋が凍る。
そんなユングだが、実は攻略法もあるらしく、それはある種の音を聞くと眠ってしまうことだそうだ。
だから、かつては人に捕らえられ戦争にも使用されたこともあるらしい。
クロイツは松茸エリンギをシャツに詰め込みながら、話を聞いていた。
詰め込み終わると、パンパンに膨らんだシャツと戦利品のユングの牙を毒に注意しながら持った。
「なんで暖かいガンデス地方にいるユングが、こんな所にいたんだろうね?」
『分かりません』
村へ行けば詳しい情報が分かるかもしれない。クロイツは先を急ぐことにした。
「じゃぁ行こうか! キュア!」
クロイツは森の中へと駆け出していった。