第十六話 黄色いお花 ~ポル~
「ポル――やく起き――い」
自分を呼ぶ優しい声が聞こえた。
ふわりと鼻をくすぐる香りが心地良い。
うっすらあけた瞳を流れに任せてそのまま閉じようとすると、暖かな手がほっぺに触れた。
むぎゅ。
自分の顔がゆがまされ、自分の上から幸せそうな笑い声が聞こえた。
「うふふ」
女性の優しい声だった。
「早く起きなさい。今日はバルーンと遊ぶ約束しているんでしょ。さっきから外で膨れて待ってるわよ?」
それを聞いた少女はハッと目を覚ます。
目の前には一人の女性が立っていた。窓からの日差しが明るいせいか、女性の顔は逆光となってぼんやりとしか見えなかった。
ただ、その日差しに照らされてきらきらと輝いて見える黄金色をした綺麗な髪が、まるで陽だまりに咲く黄色いお花のように生彩を帯びて見えた。
そんな女性の頭の上にはぴんと尖ったキツネのような耳が生えており、お尻からはふわふわとした尻尾も覗いて見える。耳も尻尾も先っぽのほうになるにつれて黄色から白みを帯びた色へと美しく変化しており、特に耳の尖った先には、少しばかり黒い色が混じっていた。
その姿形は全体的なバランスが巧く調和していてとても綺麗だと少女は思った。
「私の子供の頃にそっくりなのはいいけど、お寝坊さんだけは治さないとね」
くすくすと笑う女性は、少女の頭をそっと撫でる。少女はうれしい気持ちがいっぱいになって甘えるように女性に抱きついた。
「あらあら」
女性はこの上なく楽しそうな笑みを少女に零した。
初夏の風が吹き抜けるとある丘の上、……少女は友達と共にそこで眠りについた。
少女はそこでひどく酷い夢を見る。
「起きたか?」
ガタゴトとゆれる音にまじって、渋い男の声が耳に届いた。どこだろう、ひどく嫌な汗のにおいが鼻に届く。そして、先ほどから目を開けているはずなのに外は真っ暗だった。いつの間にか夜になってしまったのだろうか?
「これを食べろ。噛んで飲み込むんだ」
口に無理やりねじ込まれた硬い食べ物。味からすると何かの肉の燻製のようだ。はっきり言っておいしくなかった。
「おい、食い終わったら薬草でもう一度眠らせとけ。その後……分かってるな?」
その男の声に、別の若い男の声が答えた。
「はいよ、わかってますっと。でもいいのですか?」
「いいんだ。今回の客はそれが望みのようだからな……俺には理解できんが、そういうのが好きなんだろうさ」
少女は言われたとおり、一生懸命硬い肉を噛んで必死に飲み込んだ。
飲み込もうと頑張っていたせいで、自分が置かれた状況を考えるまで頭はいたらなかった。
ようやく飲み込んだと思ったら、今度は甘い香りが鼻をつくと同時に、急に眠気が襲ってきた。
そうか夢なんだこれ………………。
少女は再び真の夢の世界へと戻っていった。
次の起きたとき、少女は抜け殻となっていた。
何も分からなかった。
何の感情も湧かなかった。
「とりあえず出来うる限り過去の記憶は消しときました。感情も消えてしまいましたが……それも許容されてるんですよね?」
「ああ、人形が欲しいということだからな」
目の前で行われている男達の会話も理解できなかった。
すると、渋い男の声が少女の耳に響いた。
「嬢ちゃん。これからお前をお客様の元へ連れて行く。お前は何もしなくていい、ただ黙って座ってろ」
いいか? と訊く男の声に少女は黙ってこくんと頷く。男は少女に本当に伝わったか疑問に思ったが、どうせ自分が世話するわけでもないしと気にしないことにした。
「これは奴隷ってやつなんですかねぇ?」
まるで状景反射に近い反応しかしなくなった少女をまじまじ見ながら若い男は哀れみの表情を浮かべた。
「さてな、奴隷よりもしたがあるとすりゃ、この子のことかもしれんな。奴隷になるって言ってやったほうが幾分ましというものかもしれんが……もう、この会話も理解できてねぇだろうな」
それを聞いた若い男はヤレヤレと身をすくめると冷めた笑いをした。
「では報酬をもらいましょうか」
「ああ、そうだったな少し待っててくれ」
渋い男はそういうと、あまりにもさりげなく腰の刀をすらりと抜いた。
「なにヴぉ……――――――」
それが若い男の最期の言葉となった。
「悪いな。関係者はすべて消すように言われてるんだ」
不気味な笑みを浮かべた男は「くくくっ」と笑った。
男は理解していた。関係者とは自分も含めた話であることを。それゆえにそれをどうやって乗り越えるか……それが男の歪んだ楽しみだった。
とらわれた少女は、何の感慨もなく男達のやり取りを眺めた後、そのまま意識を失うように眠りについた。
闇にとらわれた少女の唯一の幸運は、若い男が殺されたことだった。
抜け殻のようになった自分の心の中に、断片的な記憶がまだかろうじて残っていた。
完全に消されなかった少女の記憶。少女はそれが何であるかは理解できてはいなかったが、きっかけさえあれば彼女は人に戻れる可能性を残していた。
少女の記憶を消去する際、若い男は自らが特別に調合した薬を用いていた。しかし、記憶というものは早々簡単に消えるものではなく、薬は本来ならば定期的に複数回かけなければならなかった。しかし、渋い声の男はそれを知らなかったようだ。若い男はそれをあえて黙っていたのかも知れない。
続く暗闇。ガタゴトと響く音。目を覚ませば定期的に口に押し込まれる食事…………
少女はただそこにあった。
そしてある時、ふいに目の前に光が満ちた。
「生きてるか?」
目の前のいた男はひどく醜い顔をしていた。声はいつもの渋い男のものではなかった。
少女はそのひどく醜い顔をした男の表情を見ても何も思わなかった。ただ無表情のままそれにこくんと頷き返した。
「俺達が今からお前を逃がしてやる。黙ってついて来い」
そういった男は瞬く間に自分を拘束していたベルトを外していった。
それを見ていた少女の瞳に、丸い、ボールのようなものを包んでいるような布が見えた。その布には紫色に光る魔鉱石がいくつもくくりつけられていた。
「……あれも」
少女は無意識に指差し、そう言っていた。
「これか?」
それをぞんざいに持ち上げた男は少し眉を上げたが、すぐに先ほどと同じくその布切れをテキパキと剥がし始めた。途中、男の指に魔鉱石からバチバチとした衝撃が走り、オレンジ色の光を発したが、男は声を上げることも無く作業を続けた。
そして、ごろんと現れたそれは、まん丸で真っ黒の毛むくじゃら。
よく触れば猫のようなしなやかな肌触りをした毛並みをしていて、男は上質の毛皮かと訝しんだ。
しかし、次の瞬間、そのまん丸の毛むくじゃらからに、ピンと伸びた猫のような黒耳と悪魔のような形をした尻尾が生え、大きな一つ目とその下に小さく開いた口からは赤く長い舌がベロンと垂れ下がった……………………。
男は驚きのあまり幸か不幸か叫び声を上げることすら出来なかった。
毛むくじゃらから伸びた長い舌が、ベロンと男の顔を舐めた。
『klhj;あうysf;;g』
男が生涯で一番驚いた瞬間であり、同時に声を上げなかった自分を褒め称えた瞬間でもあった。
「バル、それ……いい人」
少女は自然と口に出してそう言っていた。夢のお友達の名前……少女は今この場にいながら、半分眠ったようなぼんやりとした意識の中を漂い始めていた。
「――いくぞ!」
男の言葉に従って、半覚醒状態の少女は音も無く荷車から出る。すると、そこにはもう一人の男がいた。
「親分っ」
小声で返したその男はひどく怯えていた。
「いけっ! 俺が陽動をかける。ニクルの作戦通りに」
暗がりの森の中へ、男二人と少女、そして黒い毛むくじゃらが消えていった。
それから数日ほど、少女は森の中で過ごすこととなった。
醜い顔の親分と呼ばれている男とその子分のアフとニクル。
彼らは甲斐甲斐しく自分の世話をしてくれた。
少女は森での生活を、どこか懐かしく感じ始めていた。
それと同時に、三人があの手この手で自分に接してくれていると分かるようになると、少女は自分が何者だったのか考えるようになる。
しばらくして、……夢の中の温かく優しいあの女性が自分の母なのだろうと少女は思うようになり、そして、その中で呼ばれていた名前が自分の名前なのだろうと思い至る。自分の名前はポル……であり、友達の黒いのがバルーン。
自分の名と思われることを思い出したと告げたとき、三人の喜びようは今でもポルの記憶に鮮明に残っている。
この頃を境に、ポルは表情こそ無表情のままではあったが、人間らしい感情や言葉を少しだけ取り戻し始めていた。
しかし、不幸にしてその安らいだ時間も長くは続かなかった。
とある昼下がり、突如として叫んだ親分の声に、気がついたら自分とバルはアフに担がれて森を疾走していた。
しばらく走って、走って……ポルにはここがどこか分からない場所までやってくると、アフはようやく立ち止まり、自分を下ろしてこう言った。
「ポル、ここで大人しく寝ててくれねぇか?」
ポルはそれにこくんと頷いた。
「すぐ戻るからな」
そう言い残してアフはその場を離れていった。
ポルは大人しくその場で寝始めた。
夢の合間に声が聴こえる…………
「ヤブンス親分は……?」
「いあぁわからねぇ。逃げろって言われてそのままここ(落ち合い場所)まで走ったんだ」
「囮に?」
「おらぁ自分がなさけねぇよ」
「そうか……。ポルとバルを無事にここまで連れてくる使命を果たしたんだ。胸を張って待とう」
しばらくして、鼻に届く香りがポルの過去の記憶を呼び起こした。
それは捕らわれていたときに、若い男が切られたときに嗅いだものだった。
『やだな』
心の奥底で小波のような小さな思いがポルの中で沸いて、消えた。
次に目を覚ましたときには、ポルの目の前には嬉しそうなアフとニクルが立っていた。
「ポル? 起きれるか?」
「ヤブンス親分が呼んでるんだ? 眠いなら背負っていこうか?」
ポルは眠い瞳を必死にあけて、首を横にふると自分で歩いていくという意思を示した。
ポルがついていった先には、親分と見たことが無い人たちがいた。
最初に目に入ったのは、真っ黒な髪と瞳をした友達のバルーンに良く似ていた人物。そして、銀髪が美しい女性の人と、緑の鎧をきた派手なお兄さんだった。
「……眠いよぉ」
元気そうな親分を見つけ、安堵した少女は呟いた。
「起こして悪かったな。ポル。バル。悪いがここでお別れだ」
親分のその一言がポルの耳に響いた。
「……」
少女は無表情にヤブンスを凝視する。心が沈んでいく。
「ルシャにクロイツ。あの赤い服がサムズだ。これからお前達を行きたい場所へ連れて行ってくれる」
その声はポルには届かなかった。
「……親分さんは?」
ふいに出た言葉。
「俺は行かない。他にやることがあるからな」
蘇る記憶。
「……私はこの人たちの奴隷になるの?」
少女は無表情にそういった。
それを聞いた親分が少し悲しそうな表情を浮かべた後、またいつものような笑顔をとり戻してポルはほっとした。
「奴隷なんて言葉忘れていいんだ。…………これからはこの人たちのことは仲間と呼べばいい。もちろん俺達もポル、バルの仲間だぞ」
「……」
少女は表情を変えることなく、こくんとそれに頷いた。
仲間――この人たちは親分の仲間なのだ。
「俺達はこれから離れ離れになっちまうが、いつでも。お前達のことを思っている」
寂しいという感情が乏しく芽生え、すっと消えていく。
その後に湧き上がってきたこの気持ち、温かくポカポカするようでじんわりとしている。
嬉しいとも楽しいとも違う感情を、ポルは思い出していた。
「ルシャさん、クロイツさん、サムズさん。ポルとバルをよろしく頼みました」
深く深く頭を下げた親分とアフとニクル。ポルはその脇で、他の誰にも聞き取られること無く密かに呟いた。
「ありがとう」