影喰らいのフィルター
夏の盛りを過ぎたというのに、アスファルトに溶け残った夕陽の残滓がじっとりと肌を焼く。
そんな気怠い放課後だった。
「ねえ、結奈。これ見てよ」
教室の自分の席でぼんやりと窓の外を眺めていた私は、親友の麻沙美に声をかけられて我に返った。
麻沙美は興奮を隠しきれないといった表情で、自分のスマートフォンを私の目の前に突きつけてくる。
画面に表示されているのは、最近クラスの女子たちの間で爆発的に流行している写真加工アプリ、『エリアル・フィルター』の起動画面だった。
「またそのアプリ?麻沙美、最近そればっかりだね」
少し呆れたように言うと、麻沙美は「まあまあ、そう言わずに」と私の肩を揺する。
このアプリが流行っている理由は、どんな写真でも、まるでプロのカメラマンが撮ったかのように幻想的で美しく加工してくれるからだ。
何気ない通学路の風景も、このフィルターを通せば、映画のワンシーンのようにドラマチックに生まれ変わる。
女子たちはこぞって自分のSNSに、このアプリで加工した自撮りや風景写真をアップしていた。
もちろん、私もいくつか試したことはある。
けれど、元々あまり自分を飾ることに興味のない私は、すぐに飽きてしまっていた。
「普通のフィルターじゃないんだって。裏技があるの」
麻沙美は声を潜め、悪戯っぽく笑う。
その笑顔は、夏のひまわりのように快活で、私の沈みがちな心をいつも照らしてくれる。
「裏技?」
「そう。都市伝説みたいなので、知る人ぞ知る、みたいな?このアプリ、本当はホラー系の会社が作ったっていう噂でさ」
麻沙美は慣れた手つきでアプリを操作する。
設定画面の奥深く、開発者情報のクレジット表記を特定の順番でタップすると、画面が一度ブラックアウトし、不気味な深紅色で『スペクター・モード』という文字が浮かび上がった。
「うわ…」
思わず声が漏れる。
いつものキラキラしたアプリの雰囲気とは全く違う。
「このモードで人物写真を撮るか、既にある写真を読み込むとね…」
麻沙美は自分のスマホに保存されていた、先日の夏祭りで撮ったツーショット写真を選んだ。
浴衣姿の私たちが、少しはにかみながらピースサインをしている、ごく普通の写真だ。
「被写体を一人選んで、実行するだけ。ほら、結奈。私のほうを選んでみて」
促されるまま、私は画面に表示された麻沙美の顔を指でタップした。
すると、画面に『ゴーストを生成しますか?』という不穏なメッセージが表示される。
心臓が少しだけ、どきり、と鳴った。
「…いいの?」
「いいからいいから!ただの遊びだって」
私が『はい』をタップした瞬間、スマホが一度、微かに振動した。
そして、画面に表示された写真を見て、私は息を呑んだ。
写真の中の私は、何も変わらない。
けれど、その隣で笑っていたはずの麻沙美の姿が、まるで陽炎のようにぐにゃりと歪んでいた。
顔のパーツは辛うじて麻沙美だと認識できるが、その表情は能面のように感情が抜け落ち、黒いはずの瞳は、何も映さないガラス玉のように白く濁っている。
浴衣の色も、鮮やかだったはずの藍色が、まるで色褪せた遺影のようにくすんだ灰色に変わっていた。
何より異様なのは、麻沙美の身体の輪郭が、ノイズがかったテレビ画面のように不規則に明滅していることだった。
「…すごい、でしょ?」
麻沙美は満足げに言った。
「すごい、けど…気味悪いね、これ」
「でしょ?肝試しみたいで面白くない?この写真、結奈にあげる。お守り代わり」
麻沙美はそう言って、加工された心霊写真もどきの画像を私に送信した。
スマホがぶるりと震え、受信を知らせる。
私はその不気味な画像をすぐに削除しようかと思ったが、麻沙美の楽しそうな顔を見ていると、そんな気も失せてしまった。
まあ、ただの遊びだ。
そう自分に言い聞かせ、私はその画像をスマホのフォルダの奥底にしまい込んだ。
空虚な蝉の声だけが、西日の差す教室に響き渡っていた。
◇◆◇
その日から、私の日常は少しずつ、しかし確実に軋み始めた。
最初の異変は、その日の夜に訪れた。
自室のベッドで寝転がり、スマホをいじっていると、ふと部屋の隅にある姿見に、何かが映り込んだ気がした。
黒くて、細長い影。
はっとして顔を上げたが、鏡にはベッドに座る自分の姿が映っているだけだ。
気のせいか。
私はそう結論付け、再びスマホに視線を落とした。
しかし、一度気になり始めると、もう駄目だった。
部屋の電気がチカチカと瞬くような感覚。
誰もいないはずの背後から、冷たい視線を感じる。
気のせいだ、と何度も頭の中で繰り返す。
あの不気味な写真を見てしまったから、神経が過敏になっているだけだ。
私は無理やり目を閉じ、眠りに落ちようと念じた。
翌日、学校に行くと、麻沙美はいつもと変わらない笑顔で私を迎えてくれた。
「おはよ、結奈。昨日の写真、待ち受けにした?」
「するわけないでしょ!っていうか、昨日の夜、なんか変な感じがして…」
私が言いかけると、麻沙美はきょとんとした顔で首を傾げた。
「変な感じ?」
「うん…部屋に誰かいるみたいな…」
「えー、怖がりすぎだって。ただの画像データだよ?」
麻沙美はからからと笑った。
その屈託のない笑顔を見ていると、自分の感じた恐怖が馬鹿馬鹿しいもののように思えてきた。
そうだ、麻沙美の言う通りだ。
ただの遊び。
そう思おうとした、矢先だった。
麻沙美の背後、教室の窓ガラスに映る姿に、私は釘付けになった。
窓の外の景色と重なって不鮮明ではあるが、そこに映っているのは、昨日見た、あの写真の麻沙美だった。
陽炎のように歪んだ輪郭。
白く濁った瞳。
それは一瞬だけ、確かにそこに存在し、にたり、と口の端を吊り上げたように見えた。
「…っ!」
私は息を呑み、もう一度窓に目を凝らす。
しかし、そこに映っているのは、いつも通りの親友の姿だけだった。
「結奈?どうしたの、顔真っ青だよ」
心配そうに私の顔を覗き込む麻沙美。
私は「ううん、何でもない」と力なく笑うことしかできなかった。
それからというもの、怪奇現象はエスカレートしていった。
誰もいない廊下の角から、歪んだ麻沙美がこちらを覗いている。
授業中、教科書の文字の隙間から、白濁した瞳が私を見つめている。
自宅に帰る道、電柱の影、駐車している車の窓、あらゆる場所に、あの『スペクター』は現れた。
それは決して、私に何かをしてくるわけではない。
ただ、そこにいる。
じっとりと、私を観察している。
その事実が、私の精神をじわじわと蝕んでいった。
食欲はなくなり、夜もまともに眠れない。
目の下には隈がくっきりと浮かび、自分でも顔色が悪くなっていくのが分かった。
「結奈、本当に大丈夫?最近、変だよ」
麻沙美は心から私を心配してくれているようだった。
その優しさが、逆に私を苦しめた。
この恐怖を打ち明けても、彼女は信じてくれないだろう。
それどころか、頭がおかしくなったと思われるかもしれない。
私は麻沙美に心配をかけたくなくて、「ちょっと夏バテ気味なだけ」と嘘をつき続けた。
ある日の放課後、私は一人、図書室にいた。
少しでもあのスペクターから逃れたくて、人の気配がある場所にいたかったのだ。
静寂の中、ふと、あのアプリのことを思い出した。
『エリアル・フィルター』。
全ての元凶は、あれだ。
私は震える手でスマホを取り出し、ネットでそのアプリについて検索を始めた。
『エリアル・フィルター 裏技』
『スペクター・モード 呪い』
思いつく限りの単語を打ち込んで検索する。
すると、いくつかの匿名掲示板のスレッドがヒットした。
その中の一つに、私の目を引く書き込みがあった。
『絶対にあのフィルターを使ってはいけない。あれは、本物を喰らう』
『友達に試したら、友達がおかしくなった。いや、おかしいのは俺なのか?あいつは、本当にあいつなのか?』
『影が、こっちを見てる』
書かれている内容は、支離滅裂だった。
けれど、そこに綴られた恐怖の断片は、今の私の状況と酷似していた。
スレッドを読み進めていくと、ある書き込みに辿り着いた。
『スペクターは、元になった人間の影を喰って実体化する。影を全て喰われた人間は、いずれ…』
その書き込みは、そこで途切れていた。
続きが投稿されることはなかったようだ。
全身から、さあっと血の気が引いていくのが分かった。
影を喰う?
まさか。
私は恐る恐る、自分の足元に目をやった。
図書室の窓から差し込む西日が、床に私の影を長く伸ばしている。
それは、いつも通りの、私の影だ。
…いや、本当に?
じっと見つめていると、自分の影の輪郭が、ほんの少しだけ薄くなっているような気がした。
まるで、水彩絵の具を水で薄めたかのように、その黒さが頼りない。
心臓が早鐘のように鳴り響く。
まさか、私の影が?
いや、違う。
あのフィルターで加工されたのは、麻沙美だ。
だとしたら、喰われているのは、麻沙美の影…?
もし、あの掲示板の書き込みが本当なら、麻沙美は今、どうなっているのだろう。
私はいてもたってもいられなくなり、麻沙美に電話をかけた。
数回のコールの後、彼女は電話に出た。
『もしもし、結奈?どうしたの、珍しいじゃん』
電話の向こうから聞こえてくるのは、いつもと変わらない麻沙美の声だ。
「麻沙美…!今、大丈夫?」
『うん、大丈夫だけど…』
「あのさ、変なこと聞くけど…自分の影、見た?」
私の言葉に、電話の向こうの麻沙美が、くすくすと笑う気配がした。
『影?何それ、新しい占い?』
「違う!いいから、見てみて!」
私の必死な声に気圧されたのか、麻沙美は『はいはい、分かったよ』と少し面倒そうに答えた。
数秒の沈黙。
私は固唾を飲んで、彼女の言葉を待った。
『…うん、あるけど。ちゃんと。それが、どうかしたの?』
あっけらかんとした声だった。
私は、全身から力が抜けていくのを感じた。
そうか、やっぱり気のせいだったんだ。
掲示板の書き込みなんて、誰かの悪趣味な悪戯だ。
私はすっかり安心して、麻沙美に「ごめん、何でもない」と謝った。
『ふーん?まあ、いいけど。あ、そうだ。結奈、今から会えない?ちょっと渡したいものがあって』
「渡したいもの?」
『うん。私の家まで来てくれないかな』
麻沙美の家は、私の家から歩いて十分ほどの距離だ。
断る理由もなかった。
私は「分かった、すぐ行く」と答え、電話を切った。
図書室を出て、夕暮れの道を麻沙美の家へと急ぐ。
あれは全部、私の思い過ごしだった。
そう思うだけで、世界が少しだけ色鮮やかに見えた。
◇◆◇
麻沙美の家に着くと、彼女は玄関先で私を待っていた。
「ごめんね、急に呼び出して」
「ううん、大丈夫だよ。それより、渡したいものって?」
私が尋ねると、麻沙美は「これ」と言って、小さな紙袋を私に手渡した。
中を覗くと、可愛らしい猫の形をしたクッキーが入っていた。
「この前、結奈が美味しいって言ってたお店の。たまたま近くを通ったから」
「え、わざわざ私のために?ありがとう…!」
私は素直に嬉しくなって、お礼を言った。
麻沙美はやっぱり、優しい。
私のことを、いつも気にかけてくれる。
あんな恐ろしい妄想を抱いてしまった自分が、恥ずかしくなった。
「結奈、顔色、まだ悪いよ。ちゃんと休めてる?」
麻沙美は心配そうに私の顔を覗き込む。
その距離の近さに、私は少しだけ戸惑った。
夕闇が迫る中、彼女の顔には影が落ちていて、その表情がよく読み取れない。
「うん、大丈夫。もう平気だから」
私がそう答えた、その時だった。
麻沙美の背後、彼女の家の玄関の磨りガラスに、何かが映った。
それは、陽炎のように歪んだ、人影。
白く濁った瞳が、ガラスの向こうから、じっと、私を見つめている。
スペクターだ。
まただ。
私の妄想は、まだ終わっていなかった。
「…っ!」
私は恐怖のあまり、後ずさった。
「結奈?どうしたの?」
麻沙美が不思議そうに私を見る。
違う。
見るな。
私を見るな。
後ろに、あれがいるんだ。
私は声にならない悲鳴を上げそうになるのを、必死で堪えた。
そして、あることに気が付いて、全身が凍り付いた。
おかしい。
スペクターは、麻沙美を元にして作られたはずだ。
なのに、なぜ、麻沙美本人のすぐ後ろに現れる?
まるで、彼女を守るように。
いや、違う。
まるで、彼女に何かを伝えようと、必死に訴えかけているように。
スペクターは、歪んだ輪郭の腕を、ゆっくりと持ち上げた。
そして、震える指で、目の前に立つ麻沙美を、指差した。
その瞬間、スペクターの白濁した瞳と、私の目が、確かに合った。
その瞳は、恐怖を訴えていた。
助けて、と叫んでいるように見えた。
そして、その口が、音もなく動いた。
『に・せ・も・の』
私の頭の中で、その声がはっきりと響いた。
偽物?
誰が?
まさか。
そんな、はずは。
私は恐る恐る、目の前に立つ親友の顔を、もう一度、よく見た。
いつもと変わらない、麻沙美の顔。
優しい笑顔。
けれど。
けれど、何か、決定的に違う。
そうだ。
麻沙美は、右目の下に、小さな泣きぼくろがあるはずだ。
チャームポイントなんだと、いつも自慢げに話していた。
なのに、今、目の前にいる彼女の顔に、そのほくろは、ない。
ぞわり、と鳥肌が立った。
目の前にいる、この女は、誰だ?
「結奈」
偽物の麻沙美が、私の名前を呼ぶ。
その声は、先ほどまでと同じはずなのに、今はまるで地の底から響いてくるかのように不気味に聞こえた。
「どうして、そんなに震えているの?」
偽物は、ゆっくりと私に歩み寄ってくる。
一歩、また一歩と、距離が詰められる。
逃げなければ。
警鐘が、頭の中でガンガンと鳴り響く。
でも、足が、鉛のように重くて動かない。
「ねえ、結奈。あの写真、まだ持ってる?」
偽物は、私の目の前で足を止め、にっこりと笑った。
その笑顔は、私が知っている麻沙美の笑顔ではなかった。
口角だけを吊り上げた、ひどく無機質な、作り物の笑みだった。
「あのフィルター、すごいでしょ。ただゴーストを生成するだけじゃないんだよ」
偽物は、私の耳元で囁いた。
その声は、蛇のように冷たかった。
「本物と、入れ替わることができるの」
全身の血が、凍り付く。
じゃあ、本物の麻沙美は?
私の親友は、どこに行った?
私の思考を読んだかのように、偽物は背後の玄関を親指で示した。
磨りガラスの向こうで、スペクターが絶望的な表情で、何度も何度も、かぶりを振っている。
あれが、本物の、麻沙美。
あのアプリによって影を喰われ、存在を奪われ、ゴーストにされてしまった、私の、親友。
そして、私をずっと追いかけてきていたのは、呪うためじゃない。
危険を、知らせるためだったんだ。
この偽物の存在を、私に教えるために。
「あ…あ…」
声が出ない。
恐怖で、喉が完全に塞がってしまっている。
「大丈夫だよ、結奈。私、もう結奈を一人にしたりしないから」
偽物はそう言うと、そっと私を抱きしめた。
その身体は、氷のように冷たかった。
「ずっと、ずーっと、一緒だよ。親友、だもんね?」
偽物は私の髪を優しく撫でながら、言った。
玄関の磨りガラスの向こうで、本物の麻沙美のスペクターが、音もなく崩れ落ち、消えていくのが見えた。
もう、彼女は、どこにもいない。
私の腕の中には、猫のクッキーの入った紙袋と、親友の顔をした、得体の知れない『何か』の冷たい感触だけが残されていた。
夕闇が、私たち二人を、完全に飲み込んでいった。