第95話 弟子たちの里帰りと、国境を超えたパン
師匠レオン親方の「静かな引退」を見届け、フィオナ・フォン・シルフィードは「愛する家族と共に歩む、永遠の日常」という「新しいレシピ」を胸に、路地裏のパン屋「アトリエ・フィオナ」へと帰還した。
彼女は、爵位も公的な褒賞も全て辞退し、この小さな陽だまりこそが、「全ての道が帰ってくる、俺たちの『永遠の居場所』だ」というルーカスの言葉を、日々のパンの温もりの中で噛みしめていた。
厨房では、今日も穏やかな時間が流れていた。
フィオナが生地を捏ねる横で、息子アルトはホズネの黄金色の毛並みを撫でながら遊んでいる。アルトの純粋な喜びに呼応し、ホズネの尻尾からこぼれる「陽光の酵母」は、穏やかな光のように工房全体を温めていた。
「フィオナ様! このミルクパン、今日はいつもより5秒長く焼いてみました! きっといつもの常連さんが喜んでくださいます!」
エリィが、太陽のような笑顔でカウンターから声を上げる。彼女は、王宮での騒動から戻った後、この店での日常を誰よりも愛していた。
「ああ。裏口の補強、もうすぐ終わるぜ」
ルーカスは、顔を真っ赤にしながら、約束の「家族が増えるかもしれない」日のための、ホズネの大きな寝床(家)の制作に没頭している。
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その日の昼下がり、店が落ち着きを取り戻した頃だった。
カラン! とドアベルが、まるで荒々しい砂漠の風を連れてきたかのように、けたたましい音を立てて開け放たれた。
「師匠! 見つけたぜ、やっぱここだ!」
飛び込んできたのは、日に焼けた肌と、好奇心に満ちた黒曜石のような瞳を持つ、砂漠の少年アシュラフだった。彼の背中には大きな革袋が括り付けられ、その身からは乾いた異国の香辛料の匂いがした。
フィオナとエリィが驚いて目を見開く中、今度は丁寧な、しかし少し緊張したノックの音が響く。
「……失礼いたします。フィオナ・フォン・シルフィード師匠。ご無沙汰しております」
入ってきたのは、旅装束こそ質素だが、その立ち居振る舞いに育ちの良さが隠しきれない、真面目そうな顔立ちの青年、セオドアだった。
彼は、どこかの王宮の書庫から持ってきたであろう、分厚い古文書を抱えている。
そして、二人の大きな影に隠れるように、ドアの隙間に半分だけ体を覗かせ、怯えた小動物のような瞳で店内を窺っている少女がいた。
森の香りがする薬草の束を、祈るように強く握りしめているのは、リリナだ。
「あ、あの……ご、ご無沙汰して、おります……」
三人の若者たちは、フィオナの目の前で、まるで示し合わせたかのように同時に深々と頭を下げた。
「みんな……!」
フィオナの瞳に、喜びの涙が溢れそうになる。
彼女が「パンは、離れても心を繋げるのね」と噛みしめた、愛おしい弟子たちが、遥かなる故郷から帰ってきたのだ。
フィオナは、マルセルから譲り受けた(そして今はマルセルが王立図書館の特別研究員として研究に没頭している)店の奥のテーブルに、弟子たちを招いた。
エリィが淹れた温かいハーブティーを飲みながら、弟子たちは口々に、故郷での奮闘を語り始めた。
「師匠から教わった『愛と知恵で、その力を尊重し、導いた』パンの焼き方を、俺の故郷の砂漠の村で試したんです」
アシュラフが、顔を輝かせて語る。
彼が持参した革袋から取り出したのは、見た目は粗野だが、中にドライフルーツとナッツが詰まった、生命力あふれる平焼きパンだった。
「乾いた土地じゃ、小麦粉は貴重だ。だから、師匠から教わった“感覚”と“理論”を合わせた知恵で、現地の穀物と果実を最高の形で利用するパンを開発したんです。今じゃ、砂漠の子供たちはみんな、俺のパンを食って、笑顔ですよ!」
「アシュラフ君の発想は、実に合理的だ」
セオドアが、珍しく彼を評価するように頷いた。
「私も、王宮に戻ってすぐに、師匠の『分け合う温もり』のレシピを実践しました」
セオドアは、自分が焼いたという、完璧に幾何学的な美しさを持つ、小さな王冠型のパンを差し出した。
「これは、『貴賎が分け合う、黄金の約束』です。王室の最高級小麦と、庶民の安価なライ麦を、敢えて半々に混ぜる。そして、発酵時間を一グラム、一秒の狂いも許されない精密さで管理した結果、どちらの味も殺さず、互いを高め合う、最高の食パンが生まれました。今、私の国では、貴族も平民も、このパンを一つのテーブルで分け合って、対立が収束し始めているんです」
「リリナは……?」
リリナは、恥ずかしそうにフィオナを見上げた。
彼女が差し出したのは、森で採れる薬草を練り込んだ、素朴で優しい香りのするパンだった。
「私……『泣いている心』を持つ人を、パンで癒やしたくて。森で学んだハーブの知識と、師匠から教わった『ただ寄り添う』気持ちを込めたパンを、街の病院に届けたら……。パンを食べた患者さんが、心の安らぎを得て、元気になったんです。『森と街を繋ぐ、癒やしのパン』だって、呼んでもらえました」
フィオナは、成長した弟子たちの報告に、胸が熱くなった。
彼らは単に技術を学んだのではない。フィオナが王宮での戦い(公開実験/討論会)を通じて証明した、「愛と絆の力」を、それぞれの故郷の厳しい現実に持ち帰り、実を結ばせていたのだ。
「みんな、素晴らしいわ!」
フィオナは、感極まって、三人を力強く抱きしめた。
「師匠!」
アシュラフが目を輝かせる。
「俺たち、この再会の記念に、師匠の窯で、国境を超えた一つのパンを焼きたいんです! 俺たちの故郷の食材を使って!」
その提案に、厨房の空気は一気に熱を帯びた。
フィオナの導きのもと、四人のパン職人、そしてエリィとルーカス、アルトとホズネまでが、一つのパンのために力を合わせる。
アシュラフが持参した砂漠のスパイスの「香り」が、工房に満ちる。
セオドアが、そのスパイスの「最適温度」を精密に計算し、窯の火を管理する。
リリナは、故郷の「浄化のハーブ」を、清浄な水脈と共に生地へと練り込み、全体のバランスを調和させる。
フィオナは、その生地に、ホズネの「陽光の酵母」を優しく呼び込む。
ルーカスは裏口で金槌を振りながらも、時折大きな声で弟子たちを叱咤し、その場の熱気を盛り上げる。
エリィはテキパキと材料を運び、アルトは楽しそうにホズネを撫でながら、生地の膨らみを温かく見守った。
窯の炎が、フィオナの顔を赤く照らす。
(なんて温かい光景……)
それは、フィオナが王宮の「きらびやかなシャンデリアの光」の中で味わった、「息苦しい檻」の記憶とは対極にある、「愛と絆」の結晶だった。
やがて、焼きあがったパンは素朴な丸いカンパーニュだったが、その断面には、国境を超えた様々な穀物とスパイスが、まるで夜空の星々のように美しく散りばめられていた。
「さあ、みんな、食べましょう」
フィオナがパンをちぎると、その香りが、温かい風となって工房を満たした。
一口食べた弟子たちは、その味わいの深さに、再び目頭を熱くする。
「うめえ……俺のスパイスと、セオドアの小麦が、こんな味になるなんて……」
アシュラフが声を詰まらせる。
「パンは、離れても、こうして心を繋げるのね、師匠……」
リリナが涙ぐむ。
フィオナは、弟子たちと、そしてルーカスとエリィと、一つのパンを分け合いながら、静かに、しかし力強く頷いた。
「ええ。パンは、誰かを支配するための『資源』じゃない。国境を越え、地位を超え、分け合う温もりそのもの。それが、私たちみんなの『永遠のレシピ』です」
彼女の心の中には、「伝説のパン職人としての誇り」と、「愛する家族と共に歩む、永遠の日常」が、完全に一つになっていた。
弟子たちとの再会は、フィオナの「永遠の居場所」が、世界と繋がっていることを改めて証明してくれたのだ。




