第94話 レオン親方の最後の教えと、静かな引退
マルセルの新たな門出を見届けたフィオナ・フォン・シルフィードは、「愛する家族と共に歩む、永遠の日常」という名の「新しいレシピ」を胸に、王都の庶民街へと馬車を走らせていた。
向かう先は、パン職人としての魂を育ててくれた、唯一無二の師匠の店「ブランシュール」だった。
王宮での公開実験と討論会を経て、フィオナは王家特別賞を受賞し、王都一のパン職人として公的に認められた。その栄誉と褒賞を全て辞退し、路地裏の小さなパン屋を選んだこと。
「管理された秩序(科学)」に「分け合う温もり(愛)」が勝利したこと――その全てを、最も大切な師に伝える必要があった。
ブランシュールの店内は、相変わらず穏やかな麦の香りに満ちていた。奥へ進むと、レオン親方はいつものように小麦粉まみれの作業台で、生地を叩きつけている。
「あん? 何だ、嬢ちゃん。随分と派手な噂を撒き散らしおってから、今頃どの面下げて来やがった」
振り返りもせず、レオンはフィオナを迎えた。
「親方」
フィオナは誇り高きパン職人の作法で、深々と頭を下げる。
「この度、王宮での催しにて、王家特別賞を頂きました。この栄誉は、親方からの『力で支配せず、寄り添って育む』という教えの賜物です」
「フン。大馬鹿弟子が、随分と上手いことを言うじゃねえか」
レオンは作業の手を止め、フィオナの顔をじろりと見た。その瞳には、もう弱さはない。
そこにあるのは、揺るぎない「パン職人の誇り」だった。
「で、その王家特別賞とやらになったパンはどこだ。どうせ、王宮の猿回しに合わせた見栄っ張りなパンだろうが」
フィオナは持参した陽だまりブレッドを、恭しく作業台に置く。
素朴で不格好だが、森の土や太陽の種の色が混じり合った、力強いパンだ。
レオンは黙って手に取り、香りと重さを確かめ、儀式のようにちぎって口に運ぶ。
その瞬間――レオンの表情が変わった。
(……なんだ、この温かさは……)
口いっぱいに広がる、愛と絆の滋味。
それは「最も温かい記憶」を呼び覚ます力を持っていた。
レオンの脳裏には、亡き妻マリーが若いころ、不格好なパンを焼いてくれた日の情景が蘇る。
主の強面の目尻に、一筋の涙が滲む。
慌てて手の甲で拭い、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「……ちっ。相変わらず、感傷的なパンを焼きやがって。パンは感傷だけじゃ焼けねえと、何度も言ったはずだ、この大馬鹿弟子が」
しかし、もう悪態を続けることはできなかった。
レオンはまっすぐにフィオナを見て、静かな声で言う。
「フィオナ」
それは師匠としての、真剣な呼びかけだった。
「てめえがあの王宮で、『管理された秩序(科学)』に勝ったのは、てめえのパンが『分け合う温もり(愛)』という根源的な真実を証明したからだ」
そして、かつて伝えた教えの言葉を、もう一度口にした。
「力で支配せず、寄り添って育む」
「てめえは、それを自分の『新しいレシピ』にした。アルトの力も、ホズネの力も、支配しようとすれば必ず枯れる。だが、てめえは愛と知恵でその力を尊重し、導いた」
レオンは深呼吸をして――
作業台を、ぱんっと叩いた。
「お前は、もう俺から教わることは何もない」
フィオナは息を呑んだ。
それは、彼なりの最大限の「合格」宣言だった。
「王都一のパン職人として、その小さな灯りを消さずに守り続けろ。二度と王宮の猿回しになんて付き合うんじゃねえぞ」
レオンは、フィオナの「路地裏のパン屋」という選択を、心から尊重していた。
その時、奥からマリーさんが顔を出した。
「あら、フィオナちゃん! おめでとう! さっきからおじいさん、ずっと泣いてたんだよ! 『マリー、フィオナのパンは太陽の味がする』なんて言ってさ」
「お、おい、マリー! 余計なこと言うな!」
レオンは顔を真っ赤にして慌てる。
マリーさんは優しく笑いながら、フィオナの肩に触れた。
「フィオナちゃんのおかげで、この頑固親父も、やっと肩の荷が下りたみたいだよ」
レオンは腕組みをして遠い目をした。
「……フン。まあ、これからはマリーと二人で、好きなパンでも焼いて暮らすさ。てめえという最高の弟子に、パンの魂を託したんだ。もう、思い残すことはねえ」
それは、レオン親方の「静かな引退」の宣言だった。
フィオナは、師の長年の重責と深い愛情に胸が熱くなった。
「親方……マリーさん……」
師匠からの「合格」。
それは、彼女の「伝説のパン職人としての誇り」を何倍にも大きくしてくれる宝物となった。
フィオナは愛と叡智を胸に、
「全ての道が帰ってくる、永遠の居場所」である陽だまりのアトリエへと帰っていった。
師の叡智は、彼女の「永遠のレシピ」の一部となった。




