第9話 初めてのお使いと、怪しい粉と執事の影
夜明け前、フィオナは小さな革袋を握りしめ、店の前に立っていた。隣町の朝市へ、初めての「買い出し」。その顔には緊張と、ほんの少しの武者震いが浮かんでいる。
「フィオナ、本当に一人で行くのか? 俺も…」
「お嬢様、せめて私が荷物持ちだけでも…」
ルーカスとマルセルが、まるで戦地に赴く娘を見送る父親のように(一人は幼馴染だが)、心配でたまらないといった表情で口々に言う。特にマルセルは、いつの間にか手製の「護身術マニュアル(令嬢向け・挿絵付き)」やら「万能解毒薬(試作品)」やらを取り出し、フィオナに持たせようと真顔で迫ってくる始末だ。
「だ、大丈夫ですわ! レオン親方も『てめえで考えろ』と仰っていたのですから!」
フィオナは二人の過保護な申し出を(マルセルの怪しげな薬は丁重にお断りしつつ)振り切り、マルセルが結局手配してくれた最も安い乗り合いの荷馬車へと乗り込んだ。それは、鶏や豚の鳴き声と、屈強な農夫たちの汗の匂いが充満する、なかなかにワイルドな乗り物だった。
隣町への道中は、まさに珍道中だった。
荷馬車の御者が近道と称して入った森で一時迷子になりかけたり(フィオナが前世の記憶の断片で方角を当てて事なきを得た)、同乗したお喋りな行商人のおばあさんから延々と孫の自慢話を聞かされたり、挙句の果てには、フィオナのぎこちない貴族言葉が面白かったのか、粗野だが人の良い農夫たちに「お嬢ちゃん、パンでも焼いてくれるのかい?」と絡まれ、なぜか将来の店の宣伝をする羽目になったり。
それでも、車窓から見える初めての風景や、人々の飾らない生活感は、フィオナにとって新鮮な驚きに満ちていた。
ようやくたどり着いた隣町の朝市は、目も眩むような活気に溢れていた。
色とりどりの野菜や果物、新鮮な魚介類、そして香ばしい焼き菓子の匂い。人々の喧騒と呼び込みの声。フィオナはその熱気に圧倒されながらも、レオンから託された使命を胸に、ライ麦粉を扱う店とハーブを売る店を探して奔走した。
「最高のライ麦粉…最高のライ麦粉はどこかしら…」
ぶつぶつと呟きながら歩くフィオナは、いかにも「カモがネギを背負ってやってきた」といった風情である。案の定、怪しげな目つきの行商人が「お嬢さん、素晴らしい粉があるよ! これは伝説の魔法使いが育てたライ麦から作った『奇跡の粉』! これを使えばどんなパンも絶品に…」と声をかけてくる。フィオナがその口車に乗りかかり、「き、奇跡の粉ですって…!?」と目を輝かせた瞬間、どこからともなく現れたマルセルの影が、行商人の首筋にスッと冷たい視線を送り、行商人は「ひっ!」と悲鳴を上げて逃げていった。フィオナが振り返った時には、もうマルセルの姿はない。
(…今のは、気のせいかしら?)
首を傾げつつも、気を取り直して店を探す。
ようやく見つけた粉屋の頑固そうなおやじには、「そんな若いお嬢ちゃんにライ麦の味が分かってたまるか」と鼻で笑われ、ハーブ売りの老婆には「うちのローズマリーは王侯貴族御用達だから、お前さんの予算じゃ葉っぱ一枚も買えんよ」と追い返されそうになる。
それでもフィオナは諦めなかった。レオンやマリーさんから聞いたヒント――ライ麦粉は色が濃く、香りが強いものが良い。ローズマリーは葉の色が濃く、茎がしっかりしているものが新鮮――を頼りに、予算内で買える最高のものを求め、一軒一軒丁寧に見て回った。
値段交渉では、貴族令嬢らしからぬ天然の図太さを発揮した。
「このライ麦粉、もう少しだけ…ほんの少しだけお安くなりませんこと? 私、これで美味しいパンを焼いて、いつかおじさまにもご馳走したいのですけれど…」
上目遣いで(本人はそんなつもりはないが)そう言われた頑固おやじは、なぜか顔を赤らめ、「しょ、しょうがねえなあ!今回だけだぞ!」と少しだけ値を引いてくれた。
なんとか予算内で、自分なりに「これだ!」と思えるライ麦粉と、香り高いローズマリーを手に入れたフィオナ。だが、次なる問題はその重さだった。特にライ麦粉の袋はずっしりと重く、非力なフィオナ一人で運ぶのは困難だ。
途方に暮れていると、先ほどの荷馬車の御者が通りかかった。フィオナは咄嗟に声をかけ、帰りの荷馬車に乗せてもらう代わりに、「この町の美味しいものでお礼を…あ、いえ、私が焼いたパンではいかがでしょう?」と、まだ見ぬ自分のパンを担保に交渉成立。その機転には、フィオナ自身も驚いた。
夕暮れ時、埃と疲労にまみれ、髪には藁くずをつけ、それでもどこか誇らしげな表情でフィオナは「ブランシュール」の店の扉を開けた。
レオンは、カウンターで腕組みをして待っていた。その顔は相変わらず仏頂面だ。
フィオナが差し出したライ麦粉の袋とローズマリーの束を、レオンは無言で受け取ると、厳しい鑑定眼で吟味し始める。粉を指ですくい、色と手触りを確かめ、香りを嗅ぐ。ローズマリーの葉を一枚ちぎり、指で揉んでその香りを確かめる。
長い沈黙。フィオナはゴクリと唾を飲み込んだ。
やがてレオンは、ふん、と鼻を鳴らした。
「……まあ、埃と汗の味はしそうだな。おまけに、どこぞのじじいを誑かした色恋沙汰の匂いも混じってやがる」
「た、誑かしてなどおりません!」
フィオナが顔を真っ赤にして抗議する。
レオンはそれを無視して続けた。
「だが、悪くはねえ。このライ麦は、あの頑固者のタチバナのところのだろう。ローズマリーも、あの口うるさい婆さんの店のやつか。よくぞまあ、あの二人からまともな値段で仕入れてきたもんだ」
その言葉には、ほんの少しだけ、感心したような響きがあった。
「明日、こいつでパンを焼いてみろ。それで本当の評価だ。もし、この材料を台無しにするようなパンを焼いたら……分かってるな?」
レオンの目が、鋭くフィオナを射抜いた。
「はいっ!」
フィオナは、力強く頷いた。初めて自分で選び抜いた材料で焼くパン。その挑戦に、胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
その夜、フィオナは自分の店の片隅で、買ってきたばかりのライ麦粉の袋をそっと撫でた。それは、彼女の小さな冒険の確かな証だった。