第84話 生命を宿す生地と、守護者の誓い
フィオナは、師匠レオン・ブランシュールの店を後にすると、王宮から受け取った召喚状を固く握りしめ、まるで戦場に戻るかのように「アトリエ・フィオナ」の工房へと足を踏み入れた。
マルセルは既に、薬品でひび割れた窯の石板を前に、修理の準備に取り掛かっていた。
「最高の熱効率を完全に再現できるかは……」
彼の言葉は厳しかったが、その背中には、主人から託された使命を果たすという静かな決意が満ちている。
フィオナは、レオンの教えを何度も反芻した。
「力で支配せず、寄り添って育む」。
アカデミーがやろうとしているのは制御(支配)――陽光の酵母と同じ、自由な生命力そのもの。
それを抑え込むのではなく、母の愛と知恵で、その力を最大限に引き出してあげること。
「……パンよ。私の心を聞いて」
フィオナは、残された僅かな小麦粉と水を混ぜ合わせながら、生地に優しく語りかけた。
それは、かつて公爵令嬢として感情を殺し、鉄の仮面を被っていた自分が、ようやく手に入れた心を、生地に注ぎ込む行為だった。
彼女は、王宮の息苦しい檻へ戻る恐怖を、パン職人の誇りに変えて、生地にぶつけていく。
その生地は、いつもよりも湿度が低く、粘り気が足りない。
窯の熱源が不安定なため、最高のパンは望めないだろう。
だが、フィオナは、その生地が今、戸惑いと、飢えの声を上げているのを、確かに感じていた。
「きゅう……きゅうう……」
足元で丸くなっていたホズネが、苦しそうに鳴き、その小さな体を震わせた。
王都全体の「生命力の低下」は、彼に直接的な影響を与えている。
彼の黄金色の毛並みは、再びしおれ始め、全身からは、かすかな熱と暴走の兆候を示す「陽光の酵母」の光が、脈打つように散り始めた。
「ホズネ、大丈夫よ」
フィオナが抱き上げると、ホズネは必死に首を振った。
(チガウ、ワタシジャ、ナイ……)
ホズネの瞳の奥で、恐ろしい記憶が蘇る。
人間の貪欲さが、自分が守ろうとした村を炎上させ、全てを奪い尽くしたあの日の絶望と罪の意識。
そして、今、このアトリエを取り巻く毒と支配の匂い。
(マタ、クル。ココモ、シヌ……)
ホズネは、フィオナの温かい腕の中で、再び大切な場所を失う恐怖に、全身を硬直させた。
---
その時、店の表の扉が、激しく叩かれた。
「フィオナ・フォン・シルフィード殿!
王立アカデミー特別査察団である!
直ちに、工房の『清浄な水』を検査せよ!」
アカデミー強硬派が、工房の心臓部への最後の妨害を仕掛けてきたのだ。
「くそっ、やっぱりだ!」
ルーカスが、大剣を抜き、扉を睨みつける。
彼は既に、工房の水差しに毒が仕込まれていた可能性を察知し、警戒を強めていた。
「ルーカス様、水の浄化は私が!
フィオナ様、窯の火を落とさないで!」
マルセルが、急いで清浄な水脈の確保と浄化法の発見のため、書庫に駆け込もうとする。
だが、フィオナの頭の中で、全ての警告が一つに繋がった。
窯の破損、毒水、そしてホズネの衰弱。
これらは全て、アルトの能力を奪い取るための環境破壊だ。
フィオナは、ホズネを抱きしめたまま、静かに決断した。
「もう、間に合わないわ」
彼女は、扉を叩く音も、ルーカスの怒声も無視し、ホズネの琥珀色の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「ホズネ。あなたは、この家を守る家族だと言ってくれたわね。
私は、この子を、誰にも渡さない。
この家を、誰にも壊させない」
彼女の瞳は、母の灼熱を帯びていた。
ホズネの瞳に、その揺るぎない覚悟が流れ込む。
彼は、フィオナが「自分の命と、そしてこの家族を守り抜く」という決意を理解した。
ホズネは、全身から最後の力を振り絞った。
しおれかけていた尻尾(麦の穂)が、眩い黄金色に逆立つ。
そして、その穂の先端から、一粒の、凝縮された黄金の酵母の塊が、雫のように滴り落ちた。
それは、ホズネが何百年もの命の循環を通じて貯め続けた、生命力そのものの結晶――
フィオナの生地に託す、「陽光の酵母」の全てだった。
ホズネは、この最後の種を託すことで、フィオナに「家族を守れ」と無言の誓いを立てたのだ。
酵母の塊は、フィオナが捏ねていた生地の鉢の中に、静かに吸い込まれていった。
「きゅう……」
力を使い果たしたホズネは、再びフィオナの腕の中で、ぐったりと意識を失った。
---
「ホズネ!?」
フィオナの悲鳴が響くが、彼女はすぐに、この一瞬を逃してはならないと、理性を奮い立たせた。
酵母の塊を吸い込んだ生地は、まるで太陽を浴びたかのように、熱を帯び、異様な速さで力強く膨らみ始めている。
「ルーカス! マルセル! エリィ!
敵を止めながら、私の材料を集めて!」
フィオナは、アカデミー強硬派が扉を破るまでの、命懸けの数分間を賭けることを決意した。
「フィオナ様の命だ! 行くぞ!」
ルーカスは、扉を大剣で塞ぎながら、エリィに叫ぶ。
「エリィ! 砂漠の塩! ソルティスの塩だ!
あいつらの毒なんかに負けねえ、力強い塩がいる!」
エリィは、店の在庫棚へと身を滑らせ、ソルティスの「白塩」と「岩塩」の袋を掴み取る。
「マルセル! 浄化のハーブ! すぐに!」
マルセルは、書庫から既に浄化のハーブ(カモミールやレモンバームなど、旅で得た知識)を抱えて戻ってきていた。
彼は、それをフィオナの生地へと迅速に配合する。
フィオナは、ホズネの生命力、ルーカスの物理的な守護、マルセルの知恵、エリィの献身、
そして旅で得た全ての友情の証を、その生地に叩き込んでいく。
「これが、私たちの答えよ!」
アカデミー強硬派が扉を破り、厨房へなだれ込んできた、その瞬間。
フィオナは、ホズネの命と、家族の愛が融合した、生命力溢れる黄金色のパン生地を、渾身の力で、窯の開いた口へと投げ込んだ。
彼女が今、焼き上げるパンは、アルトの能力に依存しない。
それは、母の愛と、家族の絆、そして不屈の誇りが、ホズネの命の光を借りて形を得た、「陽だまりブレッド」魂だった。
炎が、轟音と共に生地を包み込む。
フィオナは、灼熱の窯の炎を背に、息子の前に立ち塞がった。
「さあ、始めましょう。私たちの戦いを」




