表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~  作者: 虹湖
陽だまりのアトリエと、小さな麦の穂 〜守り神と育む、家族のレシピ〜
84/96

第84話 生命を宿す生地と、守護者の誓い

 フィオナは、師匠レオン・ブランシュールの店を後にすると、王宮から受け取った召喚状を固く握りしめ、まるで戦場に戻るかのように「アトリエ・フィオナ」の工房へと足を踏み入れた。


 マルセルは既に、薬品でひび割れた窯の石板を前に、修理の準備に取り掛かっていた。

「最高の熱効率を完全に再現できるかは……」

 彼の言葉は厳しかったが、その背中には、主人から託された使命を果たすという静かな決意が満ちている。


 フィオナは、レオンの教えを何度も反芻した。

「力で支配せず、寄り添って育む」。

 アカデミーがやろうとしているのは制御(支配)――陽光の酵母と同じ、自由な生命力そのもの。

 それを抑え込むのではなく、母の愛と知恵で、その力を最大限に引き出してあげること。


「……パンよ。私の心を聞いて」


 フィオナは、残された僅かな小麦粉と水を混ぜ合わせながら、生地に優しく語りかけた。

 それは、かつて公爵令嬢として感情を殺し、鉄の仮面を被っていた自分が、ようやく手に入れた心を、生地に注ぎ込む行為だった。


 彼女は、王宮の息苦しい檻へ戻る恐怖を、パン職人の誇りに変えて、生地にぶつけていく。


 その生地は、いつもよりも湿度が低く、粘り気が足りない。

 窯の熱源が不安定なため、最高のパンは望めないだろう。

 だが、フィオナは、その生地が今、戸惑いと、飢えの声を上げているのを、確かに感じていた。


「きゅう……きゅうう……」


 足元で丸くなっていたホズネが、苦しそうに鳴き、その小さな体を震わせた。

 王都全体の「生命力の低下」は、彼に直接的な影響を与えている。

 彼の黄金色の毛並みは、再びしおれ始め、全身からは、かすかな熱と暴走の兆候を示す「陽光の酵母」の光が、脈打つように散り始めた。


「ホズネ、大丈夫よ」


 フィオナが抱き上げると、ホズネは必死に首を振った。


(チガウ、ワタシジャ、ナイ……)


 ホズネの瞳の奥で、恐ろしい記憶が蘇る。

 人間の貪欲さが、自分が守ろうとした村を炎上させ、全てを奪い尽くしたあの日の絶望と罪の意識。

 そして、今、このアトリエを取り巻く毒と支配の匂い。


(マタ、クル。ココモ、シヌ……)


 ホズネは、フィオナの温かい腕の中で、再び大切な場所を失う恐怖に、全身を硬直させた。


 ---


 その時、店の表の扉が、激しく叩かれた。


「フィオナ・フォン・シルフィード殿!

 王立アカデミー特別査察団である!

 直ちに、工房の『清浄な水』を検査せよ!」


 アカデミー強硬派が、工房の心臓部への最後の妨害を仕掛けてきたのだ。


「くそっ、やっぱりだ!」


 ルーカスが、大剣を抜き、扉を睨みつける。

 彼は既に、工房の水差しに毒が仕込まれていた可能性を察知し、警戒を強めていた。


「ルーカス様、水の浄化は私が!

 フィオナ様、窯の火を落とさないで!」


 マルセルが、急いで清浄な水脈の確保と浄化法の発見のため、書庫に駆け込もうとする。


 だが、フィオナの頭の中で、全ての警告が一つに繋がった。

 窯の破損、毒水、そしてホズネの衰弱。

 これらは全て、アルトの能力を奪い取るための環境破壊だ。


 フィオナは、ホズネを抱きしめたまま、静かに決断した。


「もう、間に合わないわ」


 彼女は、扉を叩く音も、ルーカスの怒声も無視し、ホズネの琥珀色の瞳をまっすぐに見つめ返した。


「ホズネ。あなたは、このアトリエを守る家族だと言ってくれたわね。

 私は、このアルトを、誰にも渡さない。

 この家を、誰にも壊させない」


 彼女の瞳は、母の灼熱を帯びていた。


 ホズネの瞳に、その揺るぎない覚悟が流れ込む。

 彼は、フィオナが「自分の命と、そしてこの家族を守り抜く」という決意を理解した。


 ホズネは、全身から最後の力を振り絞った。

 しおれかけていた尻尾(麦の穂)が、眩い黄金色に逆立つ。


 そして、その穂の先端から、一粒の、凝縮された黄金の酵母の塊が、雫のように滴り落ちた。


 それは、ホズネが何百年もの命の循環を通じて貯め続けた、生命力そのものの結晶――

 フィオナの生地に託す、「陽光の酵母」の全てだった。


 ホズネは、この最後の種を託すことで、フィオナに「家族を守れ」と無言の誓いを立てたのだ。


 酵母の塊は、フィオナが捏ねていた生地の鉢の中に、静かに吸い込まれていった。


「きゅう……」


 力を使い果たしたホズネは、再びフィオナの腕の中で、ぐったりと意識を失った。


 ---


「ホズネ!?」


 フィオナの悲鳴が響くが、彼女はすぐに、この一瞬を逃してはならないと、理性を奮い立たせた。


 酵母の塊を吸い込んだ生地は、まるで太陽を浴びたかのように、熱を帯び、異様な速さで力強く膨らみ始めている。


「ルーカス! マルセル! エリィ!

 敵を止めながら、私の材料を集めて!」


 フィオナは、アカデミー強硬派が扉を破るまでの、命懸けの数分間を賭けることを決意した。


「フィオナ様の命だ! 行くぞ!」


 ルーカスは、扉を大剣で塞ぎながら、エリィに叫ぶ。

「エリィ! 砂漠の塩! ソルティスの塩だ!

 あいつらの毒なんかに負けねえ、力強い塩がいる!」


 エリィは、店の在庫棚へと身を滑らせ、ソルティスの「白塩」と「岩塩」の袋を掴み取る。


「マルセル! 浄化のハーブ! すぐに!」


 マルセルは、書庫から既に浄化のハーブ(カモミールやレモンバームなど、旅で得た知識)を抱えて戻ってきていた。

 彼は、それをフィオナの生地へと迅速に配合する。


 フィオナは、ホズネの生命力、ルーカスの物理的な守護、マルセルの知恵、エリィの献身、

 そして旅で得た全ての友情の証を、その生地に叩き込んでいく。


「これが、私たちの答えよ!」


 アカデミー強硬派が扉を破り、厨房へなだれ込んできた、その瞬間。


 フィオナは、ホズネの命と、家族の愛が融合した、生命力溢れる黄金色のパン生地を、渾身の力で、窯の開いた口へと投げ込んだ。


 彼女が今、焼き上げるパンは、アルトの能力に依存しない。

 それは、母の愛と、家族の絆、そして不屈の誇りが、ホズネの命の光を借りて形を得た、「陽だまりブレッド」魂だった。


 炎が、轟音と共に生地を包み込む。

 フィオナは、灼熱の窯の炎を背に、息子の前に立ち塞がった。


「さあ、始めましょう。私たちの戦いを」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ