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笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~  作者: 虹湖
陽だまりのアトリエと、小さな麦の穂 〜守り神と育む、家族のレシピ〜
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第82話 燃える石窯と、毒の囁き

 公開討論会への参加を宣告されてから、「アトリエ・フィオナ」は一時的に喧騒を失っていた。

 フィオナは、王宮という過去のトラウマの舞台へ戻るプレッシャーと、アルトを奪われかねない危機感の間で、精神を研ぎ澄ましていた。


 その張り詰めた静けさを破ったのは、早朝、フィオナが仕込みのために工房に入った時の、異様な焦げた匂いだった。


「これは……」


 フィオナは、店の一番奥、自分の大切な相棒である薪窯に駆け寄った。

 窯は冷え切っており、まだ火が入っていない。だが、窯の扉の隙間から、まるで何かの薬品を無理に燃やしたかのような、鼻につく異臭がかすかに立ち上っている。


 彼女が窯の内部を恐る恐る覗き込むと、窯の奥の、熱源となる石板の一部が、不自然に黒く変色し、ひび割れていた。


「窯が……破損している?」


 その窯は、マルセルとルーカスが苦労して探し出し、フィオナが魂を込めて火入れをした、このアトリエの「心臓」だ。

 パン職人にとって、窯の破損は致命的だった。アカデミー強硬派が、パン屋の生命線を断つために、巧妙に薬品を仕掛けていったのだろう。


「きゅう……きゅう……」


 フィオナの足元にいたホズネが、不安そうに低く鳴いた。

 その黄金色の毛並みは、最近の王都の生命力の低下と連動して、再び、わずかにしおれ始めている。


 ---


「チッ、卑劣な真似を!」


 工房の状況を確かめたルーカスは、怒りに顔を真っ赤にし、大剣の柄を叩きつけて唸った。


「火事にして、証拠を隠滅するつもりだったんだろう。俺の巡回が早すぎたか。だが、この窯のヒビ……修理には時間がかかるぞ」


「修理の問題だけではない、ルーカス」


 マルセルが、冷静に、しかし険しい表情で工房の水差しを手に取った。


「窯の周辺、そしてこの水差しの内側に、ごく微量の金属塩が検出されました。これは、酵母の働きを決定的に阻害するものです。奴らは、公然と『管理』を訴えながら、裏では卑劣な『毒』を使っている。卑怯千万ですな」


 フィオナの頭に、以前ホズネが弱った時の記憶が蘇る。王都の水脈に毒が混入していたあの事件。アカデミーの敵は、あの時の手口を再び、今度はフィオナの工房に直接持ち込んできたのだ。


「このままでは、パン生地はまともに膨らみません。仮に水だけ浄化しても、窯の熱源が不安定では、フィオナ様のパンの『魂』は宿らないでしょう」


「じゃあ、どうするんだ! このままじゃ、奴らの思う壺だぞ!」


 焦燥するルーカスを尻目に、フィオナは静かにホズネを抱き上げ、彼を優しく撫でた。


「大丈夫よ、ホズネ。あなたの力が弱ったのは、私のせいじゃない。彼らの毒のせいよ」


 ホズネは、フィオナの温かい手の中で、安心したように小さく鳴いた。

 フィオナの心の中で、「あなたは守り神じゃなくて、家族だ」という、ホズネに伝えた言葉が、確かな決意へと変わる。


 ---


「マルセル。窯の修理は、あなたに任せてもよろしいでしょうか」


 フィオナは、マルセルに頼んだ。


「この窯の構造を最も理解しているのは、もうあなたしかいません。そしてルーカスは、引き続き警戒を。彼らは必ず、アルトを狙ってまた来る」


「心得ております」マルセルは眼鏡を押し上げた。

「窯の修理には時間がかかりますが、私にできる限りの手を尽くしましょう。ただし、最高の熱効率を完全に再現できるかは……」


「それは、私が何とかします」


 フィオナは、王都の喧騒が聞こえる窓の外を見た。

 その先には、婚約破棄を告げられた、あの屈辱の場所、王宮がそびえ立っている。


(また、貴族社会の人間が、私を馬鹿にする。パンなどという庶民の餌で、何ができると嘲笑う……)


 だが、彼女はもう、かつての「悪役令嬢」ではない。


「彼らは、私が窯も水も失って、絶望すると期待しているのでしょう。そして、王宮での公開実験を辞退すると」


 フィオナは、静かに、しかし力強く宣言した。


「いいえ。私は、彼らの卑劣な手段に屈しません。パン職人は、どんな状況でも、最高のパンを焼くのが誇りですわ」


 彼女は、マルセルが持っていた王宮での討論会の召喚状を、きゅっと握りしめた。


「最高級の小麦粉も、完璧な窯も、清浄な水も、今は無いかもしれない。でも、私には、この手と、旅で得た知恵と、そして……あなた方がいる」


 彼女の瞳には、涙も諦めもなかった。

 そこにあるのは、我が子と家族、そしてパン職人としての誇りを守るため、どんな卑劣な手にも屈しない、母の灼熱のような静かな闘志だけだった。


「必ず、王宮へ行きます。そして、私たちのパンの真実を、あの貴族たちの前で証明して見せます」

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