第80話 家族のパンと、陽だまりの再生
「……あのおじちゃん、こころが、まっくろで……ずっと、ずっと……ないてる」
アルトの、幼く、しかし残酷なまでに真実を突く言葉が、壊れた厨房に響き渡った。 その瞬間、グレイの全身を支えていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。
ルーカスが拘束しようと伸ばした手は、もう必要なかった。 グレイは、その場に膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。完璧な科学者の仮面も、冷徹な復讐者の狂気も、全てが剥がれ落ち、そこにいたのは、ただ、声を殺して泣きじゃくる、一人の「父親」だった。
「……ああ……ああ……」
娘の名を呼ぶ、その嗚咽。 何年も前に失ったはずの温もりを、忘れていたはずの悲しみを、目の前の、敵であるはずの小さな子供が、いとも容易く暴き立ててしまった。 彼は、敗北したのだ。ルーカスの力でも、フィオナの覚悟でもない。アルトの、あまりにも純粋な「共感」の力に。
「……ルーカス」 フィオナが、静かに夫の名を呼んだ。 ルーカスは、大剣を握る自身の手に、どれほどの力がこもっていたかに気づき、そっとそれを鞘に納めた。そして、泣き崩れる男の前に、音もなくしゃがみ込んだ。
「……お前の気持ちは、分からねえ」 ルーカスは、ぶっきらぼうに、だが静かに言った。 「だがな。もし俺が、アルトやフィオナを失ったら……お前と同じか、それ以上に、この世界を呪っただろうよ」 「……!」 グレイが、顔を上げた。彼が予想していたのは、断罪の言葉だったからだ。
「でもな」ルーカスは、泣き顔の息子を抱きしめるフィオナを一瞥し、続けた。「俺たちは、そうならなかった。……運が、良かった。ただ、それだけだ」 それは、勝者の言葉ではなかった。同じ「親」として、紙一重の場所に立っていた者としての、率直な告白だった。
フィオナは、アルトを抱きしめたまま、泣き続けるグレイの前に、ゆっくりと膝をついた。 「グレイさん。あなたは、私たちに問いかけましたね。『お前たちだけが幸せでいいのか』と」 彼女の瞳は、穏やかだった。 「……その答えは、私にも分かりません。世界には、あなたの娘さんのように、救われなかった命が溢れている。それは、どうしようもない事実です」
彼女は、厨房を見渡した。戦いの残骸。眠るホズネ。駆けつけた仲間たち。 「でも。だからこそ、私たちは、この陽だまりから目をそらしてはいけないんだと思います」 フィオナは、グレイに、そっと手を差し伸べた。 「私たちは、この場所で、パンを焼き続ける。失われた命のために泣き、そして、今ここにある命のために、笑う。あなたのその、真っ黒になってしまった悲しみを……私たち家族に、一緒に背負わせてくださいませんか」
「……何を……言って、いるんだ……?」 グレイは、信じられないといった目でフィオナを見た。自分は、彼女の息子を奪おうとした、許されざる敵なのだ。
フィオナは、答えなかった。 ただ、静かに立ち上がると、アルトの手を引いた。 「……アルト。パンを、作りましょう」 「……ぱん?」 「ええ。あなたの『だいすき』を、全部詰め込んだ、家族のパンを」
フィオナは、拘束され、呆然と座り込むグレイと、その仲間たちを、厨房の片隅に残したまま、パン作りを始めた。 それは、あまりに異様な光景だった。 戦いの直後、壊れた厨房で。勝者と敗者が、同じ空間で、パンの焼ける香りを待っている。
フィオナが、鉢に粉を入れる。 「これは、ルーカスの故郷の、力強い黒麦」 ホズネが、目を覚ました。そして、よろめきながらも鉢に近づき、その尻尾から、再生したばかりの、温かい黄金の胞子を落とした。 「これは、ホズネの、命の光」 そして、アルトが、その小さな両手を、生地に差し入れた。 「これは、アルトの、温かい手」
アルトが、一生懸命に生地を捏ねる。その楽しそうな笑い声に、ホズネの毛並みが、再び輝きを取り戻していく。 生地は、まるでこの家族の幸せそのものを吸い込むかのように、ふっくらと、生命力に満ちて膨らんでいった。
やがて、パンが焼きあがった。 素朴で、少し不格好で、しかし、陽だまりの全ての匂いを凝縮したような、温かい「家族のパン」。
アルトは、そのパンを嬉しそうに抱きしめると、真っ先に、フィオナでもルーカスでもない人物の元へ、よちよちと走っていった。 グレイの前だった。
「……!」 グレイが、息を呑む。 アルトは、そのパンを、自分の顔ほどの大きさにちぎると、グレイの膝に、ぽん、と乗せた。 「おじちゃん、どーぞ」 「……なぜ……」 グレイの声が、震える。 「……なぜ、私に……? 私は、君を……あんなに、酷い目に……」
アルトは、不思議そうに首をかしげた。そして、あの日のように、グレイの心の奥を、じっと見つめて言った。 「だって、おじちゃん。もう、ないてないから」 「……」 「おなか、すいたでしょ? いっしょに、たべよ?」
グレイの目から、再び涙が溢れた。だが、それは、もう黒い絶望の涙ではなかった。 何十年ぶりかに、人から差し出された、無条件の「温もり」。失ったはずの、家族の食卓。 彼は、震える手で、そのパンを、ゆっくりと口に運んだ。 味が、した。 温かくて、優しくて、どうしようもなく、しょっぱい、味がした。
「……ああ……。ああ……」 彼は、子供のように、声を上げて泣き続けた。
数日後。 マルセルの計らいと、ライアス王太子の特例措置により、グレイたちは「黒いフラスコ」の研究資料の全てを引き渡すことを条件に、「処刑」ではなく、王立アカデミーの管理下で、「生命を“救う”ため」の研究に生涯を捧げることとなった。
アトリエ・フィオナには、いつもの日常が戻っていた。 夕暮れ。 屋根の上、一番暖かい陽だまりの指定席。 ルーカスに肩車されたアルトが、自分で焼いた不格好なパンを、ホズネに差し出している。 「ホズネ! どーぞ!」 「きゅう!」
ホズネは、そのパンを嬉しそうに受け取ると、アルトの小さな頭を、自らの黄金の毛並みで、そっと撫でた。 その琥珀色の瞳は、もう何も恐れてはいなかった。 (大丈夫。今度こそ) (この陽だまりを、この温かい手を、私が、未来永劫、守り抜く)
その光景を、フィオナが、エプロンを拭いながら、幸せそうに見上げている。 「ルーカス! アルト! ホズネ! ご飯ですよー!」
路地裏から始まった物語は、また、路地裏へと帰っていく。 だが、その陽だまりは、昨日よりも少しだけ強く、優しく、世界を照らしていた。




