第79話 陽だまりの攻防と、母の灼熱
グレイが正体を現してから数日。アトリエ・フィオナは、嵐の前の静けさに包まれていた。ルーカスは店の周囲に見えない罠を張り巡らせ、マルセルは「根源の探求者」に関するあらゆる文献を読み漁り、エリィも不安を隠して、いつも以上に明るくアルトと遊んでいた。
その均衡は、王都が最も活気づく、昼下がりの市場で破られた。
「火事だーっ! 穀物倉庫から火が出たぞ!」
遠くから響く鐘の音と、人々の叫び声。 「くそっ、このタイミングでか!」 ルーカスは舌打ちし、大剣を掴んだ。 「マルセル! 俺は市場へ行く! お前はエリィと店を頼む! フィオナ、アルトとホズネを連れて、絶対に厨房から出るな!」 「ええ、分かっているわ! あなたも、気をつけて!」 ルーカスが、風のように路地を駆け抜けていく。
だが、ルーカスが穀物倉庫(そこは陽動の偽火だった)に到達した頃、アトリエ・フィオナの店の表のドアが、静かに、しかし鍵を無力化して開かれた。 立っていたのは、あの画家だった。彼の後ろには、感情のない目をした「探求者」の仲間が二人、控えている。
「……っ!」 エリィが、アルトを庇うようにカウンターの前に立ちはだかる。 「な、何する気よ! ルーカスは、もうすぐ帰ってくるんだから!」 「分かっているさ、エリィさん。だからこそ、その前に、全てを終わらせる」 グレイは、もはや何の仮面も被っていなかった。その瞳にあるのは、我が子を失った父親の絶望と、目的のためなら全てを犠牲にするという、冷たい狂気だけだった。
「――アルト君。おいで。君の力で、私の娘を……いいや、世界中の『失われた命』を、救うんだ」 グレイが、アルトに向かって、そっと手を差し伸べる。 「いやっ! パパ! ママ!」 アルトが、怯えてフィオナにしがみつく。
厨房の奥。フィオナは、アルトを背後に隠し、静かに石窯と向き合っていた。パン生地を焼くための、灼熱の炎が、彼女の横顔を赤く照らしている。 「……エリィ。アルトを連れて、ホズネと一緒に、奥の貯蔵庫へ逃げて」 「で、でも、フィオナは!?」 「いいから、早く!!」
フィオナは、ゆっくりと振り返った。その手には、麺棒ではない。パンを窯から出し入れするための、長くて重い、灼熱に焼けた鉄板が握られていた。 彼女は、それをまるで大剣のように構えると、グレイの前に、静かに立ちはだかった。 その瞳は、もはや聖女のものではない。我が子を守るためならば、神にさえ牙を剥く、母獣のそれだった。
「グレイさん。あなたは、私に言いましたね。『一度失われたものは、二度と戻らない』と」 フィオナの声は、氷のように冷たく、それでいて、窯の炎のように揺るぎなかった。 「……この道具は、命を育てるためのものです。パンを焼き、人を笑顔にするための、私の誇りです」 彼女は、灼熱の鉄板の先端を、グレイの喉元へと突きつけた。 「けれど――」 「私の家族を守るためなら、私は、この誇りを捨てることを、迷いはしません」
「……素晴らしい」 グレイは、目の前の灼熱を前にしても、一歩も引かなかった。 「その覚悟こそが、君が『母』である証拠だ。だが、その愛は、あまりに小さい! 君は、自分の子一人を守るために、世界を救う可能性を、ここで焼き尽くす気か!?」 「世界など、知らない!」 フィオナが叫んだ。「この子がいない世界など、私にとっては、意味がない!!」
二人の意志が激突した、その瞬間。 「――それ以上、俺の嫁と息子に、汚え手を近づけんじゃねえぞ」
アトリエの裏口のドアが、内側から蹴破られた。 息一つ切らしていない、ルーカスだった。 「……ルーカス!? なぜ……火事は……!」 「ああ? あんな手際の良すぎる小火騒ぎ、お前らを誘き出すための陽動に決まってんだろ」 ルーカスは、大剣の切っ先をグレイの背中に向けた。 「悪いが、俺は、お前らみたいな頭でっかちの学者様と違ってな。家族の匂いには、敏感なんだよ」
「……きゅううううっ!」 ホズネが、フィオナの足元から飛び出し、ルーカスの隣に並び立つ! 黄金の毛を逆立て、その瞳は、グレイを真っ直ぐに射抜いている。 (もう、二度と!) (あの日のように、目の前で、守るべき命を、奪わせはしない!) 守り神の瞳に、過去への後悔と、今度こそ守り抜くという、決死の涙が光った。
「……なるほど。これが、君たちの『家族』か」 グレイは、前をルーカスに、後ろをフィオナに塞がれ、ゆっくりと両手を上げた。 「私の負けだ。好きにするといい」 だが、彼がそう言った瞬間、彼の仲間の一人が、懐から取り出した錬金術の装置を起動させた! 装置から放たれた不可視の音波が、ホズネだけを直撃する。 「きゅ……がっ……!?」 ホズネが、苦しみにその場に倒れ、動けなくなった。
「ホズネ!」 フィオナが叫ぶ。 「動くな!」ルーカスが、グレイの首筋に剣を押し当てる。
捕縛される直前、グレイは、天を仰ぎ、心の底から叫んだ。 それは、彼が何年も胸に溜めてきた、魂の絶叫だった。
「なぜだ!? なぜ、私の娘は死ななければならなかった!?」 「理不尽に奪われた命は、どうすればよかったんだ!? 救う方法が目の前にあるのに、それを見過ごせというのか!」 「お前たちだけが! その陽だまりの中で、幸せで、いいわけがないだろう!!」
その悲痛な叫びに、フィオナも、ルーカスも、返す言葉が見つからなかった。 戦いの全ての音が、止まった。
静まり返ったアトリエに、小さな、震える声が響いた。 フィオナの腕の中で、アルトが、敵であるグレイを、じっと見つめていた。
「……かなしい、って……」 「……?」 「あのね、ママ」 アルトは、涙をいっぱいに溜めた瞳で、グレイを指さした。
「あのおじちゃん、こころが、まっくろで……ずっと、ずっと……ないてる」




