第75話 あなたが帰る家と、陽だまりの約束
嵐の夜が明け、アトリエ・フィオナには、信じられないほど穏やかな朝の光が差し込んでいた。 割れた窓ガラス、ひっくり返ったテーブル、そして厨房の床に散らばる錬金術の残骸。その全てが、昨夜の死闘の激しさを物語っている。
だが、その中心で。 仲間たちは、疲労困憊の極みにありながらも、確かに笑っていた。 「……終わった、のね」 エリィが、床に座り込んだまま、夢見るように呟いた。 「ああ。夜明けだ」 マルセルが、割れた眼鏡を拭いながら、静かに頷いた。
「師匠! ご無事で……!」 セオドアが、安堵に膝から崩れ落ちそうになるのを、アシュラフが「よっと!」と支える。 「ちくしょう、大暴れし足りなかったぜ!」 ルーカスは、大剣にこびりついた腐食液を忌々しげに拭いながらも、その視線は、ずっと厨房の片隅に向けられていた。
そこには、フィオナが座り込んでいた。 彼女の腕の中では、小さな黄金色の守り神、ホズネが、すうすうと、安らかな寝息を立てている。 昨夜の戦いで最後の力を使い果たした「陽光の酵母」のパンは、もう光を発してはいなかったが、その代わりに、雨上がりの大地のような、深く、優しい香りを放っていた。 ホズネは、その「感謝」の香りに包まれ、何百年という孤独な時の中で、初めて、何の警戒も、何の悪夢も見ることなく、ただの「子供」として眠っていた。 フィオナは、その温かい重みを胸に感じながら、とめどなく溢れる涙を、ただ静かに流していた。
数日後。アトリエ・フィオナは、仲間たちと、駆けつけた常連客たちの手によって、元の姿を取り戻しつつあった。 王宮からは、ライアス王太子(フィオナの兄)の名で、多額の見舞金と、王都の水脈を汚した「黒いフラスコ」の残党を、国家反逆罪として指名手配する布告が出された。
その日の午後、マルセルの元を、一人の男が訪ねてきた。 「……これをお願いしたい」 それは、昨夜の戦場で涙を流した、あの若い科学者だった。彼は、ヴァレリウスの元から離反し、自首しに来たのだ。 彼が差し出したのは、「黒いフラスコ」の研究資料の全て。そこには、ホズネを弱らせた「廃液」の完全な浄化法と、彼らが開発してしまった「死の酵母」を無力化するデータが、びっしりと記されていた。 「なぜ、これを我々に?」マルセルが問う。 男は、アトリエで焼かれる日々のパンの香りを、愛おしそうに吸い込むと、静かに言った。 「……我々は、飢えを救う方法を、間違えていた。世界に必要なのは、管理された力ではなく……あのパンのような、温かい光だったんだ」 彼は、自分の罪を償うとだけ言い残し、王宮の衛兵に連れられていった。
その日の夕暮れ。 すっかり元気を取り戻したホズネと、フィオナは、二人きりでアトリエの屋根の上に座っていた。眼下には、日常を取り戻した王都の街並みが、夕焼けに染まっている。
ホズネが、フィオナの膝に、そっと頭を乗せた。そして、琥珀色の瞳で、彼女をじっと見つめた。 言葉はない。だが、その瞳から、鮮明なイメージが、フィオナの心に流れ込んでくる。
(ミナを、マモルため、ワタシは、コノトチに、ネヅク) (ワタシのいのちと、コノトチのスイミャクを、エイキュウに、ユウゴウさせる) (ソウスレバ、ムギは、ニドとカレない。ミンナ、シアワセ)
フィオナは、息を呑んだ。それは、ホズネの、あまりに切実な「自己犠牲」の提案だった。 「……あなたは、この土地の『人柱』になる、というのね」 ホズネは、静かに頷いた。それが、彼が何百年もかけて見つけ出した、唯一の「答え」だった。
(ダケド) ホズネは、続けた。 (ソウスレバ、ワタシは、モウ、ジユウにノをカケられない) (このカラダは、キえて、カゼと、ツチと、ミズになる) (……フィオナ。ワタシは……) その瞳が、悲しそうに揺れた。
フィオナは、その小さな守り神を、衝動的に、ぎゅっと抱きしめた。 「……いやよ」 彼女の声は、震えていた。 「そんなの、絶対にいや」 「きゅ……?」 (デモ、ソウスレバ、ミンナ……)
「みんな、幸せになんかならないわ!」 フィオナは、涙声で叫んだ。 「あなたが犠牲になって手に入れた豊かさなんて、いらない! 小麦が枯れたら、またみんなで知恵を絞るわ! 嵐が来たら、またみんなで戦う! それでいいの!」 彼女は、ホズネの琥珀色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。 「あなたは、もう『守り神』なんかじゃなくていいのよ、ホズネ」 「あなたは、このアトリエ・フィオナの……私の、大切な『家族』なの」
フィオナは、そっとホズネの体を離すと、いつものように、優しい師匠の顔に戻って、微笑んだ。 「だから、約束して。どこへ遊びに行ってもいいわ。森へ帰りたくなったら、帰ってもいい。でも、必ず、ここに帰ってきて」 彼女は、自分の胸を、とんと叩いた。 「あなたが、いつ、どんなに傷ついて帰ってきても、安心して眠れる『家』を……私が、毎朝、この場所で、焼き続けて待っているから」
「……きゅう……」 ホズネの瞳から、一筋、金色の光る涙がこぼれ落ちた。 何百年という孤独。裏切られた過去。全てが、その一粒の涙と共に浄化されていく。 ホズネは、フィオナの頬に、自らの柔らかい頬を、力強く、何度もこすりつけた。 それは、「ただいま」と「ありがとう」と「大好き」が、全部一緒になった、世界で一番温かい返事だった。
翌朝。 アトリエ・フィオナには、いつものパンの香りが戻っていた。 「師匠! 俺たち、もう一度、故郷に帰ることにします!」 アシュラフが、晴れやかな顔でフィオナに告げた。 「あの科学者が残したデータがあれば、俺たちの故郷の飢えも、救えるかもしれねえ!」 「はい!」セオドアも頷く。「我々がこのアトリエで学んだのは、パンの技術だけではない。『分け合う』という、師匠の心の焼き方です。それを、今度こそ我々の手で!」
フィオナは、もう止めなかった。 「……ええ。行ってらっしゃい。立派なパン職人になって」 「「「はいっ、師匠!!」」」 弟子たちは、希望を胸に、再びそれぞれの未来へと旅立っていった。
その日の午後。 厨房では、フィオナが、陽光の酵母を使わない、いつものシンプルな丸パンを捏ねている。 店の入り口では、ルーカスが、壊れたホズネの寝床の代わりに、金色の毛並みに似合う、上等な樫の木で、新しい、もっと立派な「家」を、トンテンカンと作っていた。
「……ルーカス」 「……なんだよ」 「その寝床、もう少し、大きく作ってもらえませんか?」 「はあ? あのチビには、これでもデカすぎるくれえだろ」 「……だって」 フィオナは、小麦粉で汚れた頬を赤らめながら、小さな声で言った。 「……いつか、この家に、家族が、増えるかもしれないでしょう?」
トン、と。ルーカスの金槌が、止まった。 彼は、ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げると、真っ赤になった顔で、フィオナを睨みつけた。 「……てめえ……そういうことは、もっと、こう……」
その二人の、不器用で、ぎこちないやり取りを。 屋根の上、一番暖かい陽だまりの指定席で。 小さな麦畑の守り神、ホズネが、尻尾(麦の穂)をぱたぱたと揺らしながら、幸せそうに、欠伸をしながら、見守っていた。




