第73話 清浄な水と、希望のパン生地
「……面白い」
「黒いフラスコ」の首領、Dr.ヴァレリウスは、集結したフィオナの仲間たちを見渡し、その冷たい口元に初めて愉悦の笑みを浮かべた。 「ネズミが、一匹残らず罠にかかりに来たか。感傷的な絆が、我々の科学的合理性に勝てるとでも?」 彼は、ホズネを掴んだ助手の肩に手を置いた。 「目的は達した。撤退する。彼らを『掃除』しろ」
ヴァレリウスの命令と共に、黒装束の錬金術師たちが、一斉に得体の知れないフラスコを構えた!
「させるかあっ!」 一番槍はルーカスだった。彼は床を蹴り、大剣の切っ先でヴァレリウスを牽制する。 「セオドア、リリナ! 敵の錬金術を封じろ! アシュラフ、俺と突っ込むぞ! エリィはフィオナと窯を守れ!」 ルーカスが、瞬時に戦場を掌握し、的確な指示を飛ばす。
「言われなくとも!」アシュラフが、砂漠の戦士のように身軽に跳躍し、短剣で敵の腕を狙う。 「軽率だ、アシュラフ君!」セオドアが、彼の前に立ちふさがり、細剣で敵の投げた「腐食液」のフラスコを弾き返した。「敵は未知の薬品を使う! まずはパターンを読むんだ!」 「うわっ、あぶねえ! サンキュー、セオドア!」
「皆さん、息を止めて!」 リリナが叫ぶ。敵の一人が、紫色の煙幕を焚いたのだ。 「これは……『眠り苔』の胞子! 私の森の薬草が、中和します!」 リリナは懐から乾燥させたハーブの束を取り出すと、それを窯の火で炙り、対抗する強烈な覚醒の香りを放った。紫の煙と白の香りがぶつかり合い、一時的に無力化される。
厨房は、剣戟の音、ガラスの割れる音、そして互いの怒声が飛び交う、壮絶な戦場と化した。
「フィオナ……フィオナ……!」 エリィは、その戦いの中心で、ただ一人、うずくまっているフィオナの腕を必死に揺さぶっていた。 「みんなが、戦ってるのよ! 私たちも、何か……!」
フィオナは、動けなかった。 (私のせいだ。私が、ホズネを……。私が、みんなを、この戦いに巻き込んだ……) 彼女の視線の先で、ヴァレリウスの助手に掴まれたホズネが、ぐったりと首を垂れている。その琥珀色の瞳から、光が消えかけていた。
(……パンを、焼かなければ) 絶望の底で、その衝動だけが、フィオナを突き動かした。 (ホズネが、帰る場所の火を、灯さなければ) 彼女は、ふらつきながら立ち上がると、昼間捏ねた、あの絶望的なパン生地――毒された水の生地――に手を伸ばした。
「師匠! だめです!」 敵の攻撃をいなしながら、セオドアが叫んだ。 「その水で捏ねた生地では、パンは焼けない! それこそ、ホズネの命をさらに縮めることに……!」 「でも……っ! 水が……!」
その時だった。 「師匠の水なら、ここにあるぜ!!」
アシュラフが、敵の懐から飛び退きながら、背負っていた大きな水筒をフィオナに向かって放り投げた。 「なっ……!」 フィオナは、慌ててそれを受け止める。ずっしりと重い、清浄な水の感触。
「俺たち、師匠のパンの味が急に『絶望』の味になったから、おかしいと思って、すぐに引き返してきたんだ!」 アシュラフは、ニヤリと笑った。 「途中の『聖なる泉』で、こいつを汲めるだけ汲んできた! 師匠なら、きっと水もやられてるに違いねえって、俺の勘が言ってたのさ!」 「そして、私が水質を鑑定済みです」セオドアが、冷静に言葉を継ぐ。「道中、リリナが泉の周囲の植物を調べ、この水がホズネ殿の力を阻害しない、最高の『清浄な水』であることを保証します!」 「はい……!」リリナも頷いた。「このお水なら、きっと、ホズネちゃんを元気にできます!」
フィオナの瞳に、再び光が宿った。 (……みんな……!) 彼女は、毒された生地をためらいなく床に叩きつけると、新しい鉢に、弟子たちが命懸けで運んできた「清浄な水」を注ぎ込んだ。
「馬鹿な……」 ヴァレリウスが、その光景を信じられないといった目で見ていた。 「この状況で、パンを焼く……だと? 合理性が、まるでない。それは、ただの儀式だ。祈祷だ。非科学的な、原始の行いだ!」
「違います!!」 フィオナが、叫び返した。その手は、水と粉を、凄まじい速さで混ぜ合わせている。 「これは、儀式じゃない……ただの、パンです!」 彼女は、ヴァレリウスを真っ直ぐに見据えた。 「でも、ただのパンじゃない! 仲間が命懸けで運んでくれた水と、この土地の恵みと、そして……!」 フィオナは、ヴァレリウスに捕らえられたホズネに向かって叫んだ。 「ホズネ! あなたの力を貸して! あなたを独占するためじゃない! あなたの家族たちと、一緒に生きるための、私たちのパンを焼くために!!」
その叫びが、届いた。 ぐったりとしていたホズネが、最後の力を振り絞り、その琥珀色の瞳をカッと見開いた。 「……きゅううううううっ!!」 甲高い雄叫びと共に、ホズネの体が眩い黄金色に輝く! しおれていた尻尾(麦の穂)が、逆立つように開き、そこから、一粒の、凝縮された「陽光の酵母」の塊が、光の矢となって飛んだ。
それは、ヴァレリウスの助手の腕をすり抜け、まっすぐに、フィオナが捏ねるパン生地の鉢の中へと、吸い込まれていった。
「なっ……!?」 ヴァレリウスが息を呑む。 生地は、まるで命を吹き込まれたかのように、鉢の中で、温かい光を放ちながら、歌うように膨らみ始めた。
「ルーカス! みんな! あと少しだけ……時間を稼いで!!」 「言われるまでもねえ!」 ルーカスが、大剣を構え直す。 「野郎ども! 師匠のパンが焼けるまで、こいつらを一歩も通すんじゃねえぞ!!」 「「「応!!」」」 弟子たちの声が、一つになった。
アトリエ・フィオナの存亡と、小さな守り神の命運を懸けた、焼きたてのパンの香りが、戦場の真ん中で、今、立ち上ろうとしていた。




