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笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~  作者: 虹湖
伝説のパン職人と、麦畑の守り神 ~陽だまりのアトリエと、古代酵母の約束~
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第70話 陽だまりの指定席と、過去の悪夢

 ホズネが家族に加わってから、アトリエ・フィオナの日常は、不思議なリズムで回り始めた。


「おはよう、ホズネ。今日のパン生地の様子は、どうかしら?」 フィオナが朝一番に厨房に立つと、ホズネは「きゅう」と一つ鳴いて、小さな体を器用にテーブルによじ登らせる。そして、発酵中のパン生地の鉢に鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぎ、満足げに尻尾を一振りする。それが、ホズネの日課だった。


 その黄金色の尻尾(麦の穂)からこぼれる「陽光の酵母」は、フィオナのパンを別次元のものへと変えていた。 「フィオナ! 大変! この前の腰痛持ちの兵隊さんが、パンを食べたらスタスタ歩いて帰っちゃったって! 奇跡のパン屋って、もう大騒ぎよ!」 エリィが興奮気味に報告するが、フィオナの表情は晴れなかった。 (奇跡なんかじゃない。これは、ホズネが私たちに分けてくれた、大切な命なのに……) 名声が広がるにつれ、フィオナは、かつてヴェストリアで感じたものとは質の違う、重い責任を感じていた。


 その日の午後。 店は「奇跡のパン」を求める人々でごった返していた。人垣をかき分けるように、ひときわ派手な身なりの商人が、強引にカウンターの前に進み出た。 「おい、女主人! お前の店に、黄金のキツネがいるというのは本当か!」 男の濁った目が、厨房の奥、フィオ... ナの足元で丸くなっているホズネを捉える。 「そいつが、このパンの秘密なんだろう! 開店前から並ぶのは面倒だ。金ならいくらでも出す。そのキツネごと、俺に売れ!」


 その言葉が響いた瞬間、店の空気が凍り付いた。 ルーカスが、地を這うような低い声で一歩前に出た。 「……おい、オッサン。今、何つった?」 「ひっ……」


 だが、ルーカスが威圧するより早く、ホズネが動いた。 「フゥーーーーッ!!」 それまで子猫のように大人しかったホズネが、全身の黄金の毛(それはもう、しおれた穂ではなく、艶やかな毛並みだった)を逆立て、牙を剥き出しにして、男に向かって激しく威嚇したのだ。その琥珀色の瞳には、昨日までの穏やかな光はなく、燃え盛るような怒りと、そして――それを上回るほどの、深い「恐怖」が宿っていた。


「な、なんだ、ただのキツネのくせに……!」 商人は、その凄まじい気迫に押されて尻餅をつくと、這う這うの体で逃げていった。


「……ホズネ?」 フィオナが、震える小さな体をそっと抱き上げると、ホズネは彼女のエプロンに顔を埋め、小刻みに震え続けていた。 (違う……怒っているだけじゃない。この子は、怯えているんだ……) フィオナは、自分にだけ向けられる、そのか弱い信頼の重みに、胸が締め付けられるのを感じた。あの商人の「金で買う」「独占する」という、剥き出しの貪欲さが、ホズネの心の深い傷に触れてしまったのだと、直感した。


 その夜。 フィオナは、疲れ切ったように自分のベッドの足元で眠るホズネの、柔らかな背中を撫でながら、浅い眠りに落ちた。


 夢を見た。


 最初は、知らない村の夢だった。 黄金色の麦畑が広がる、貧しいが平和な村。しかし、日照りが続き、人々は飢え、倒れていく。 そこに、若く、まだ無邪気なホズネが現れる。人々を救いたい。その一心で、自らの尻尾から「陽光の酵母」を振りまいた。 奇跡が起きた。痩せた土地から、わずかな粉で、豊かなパンが焼けた。人々は救われ、ホズネを「守り神」と崇めた。


 ――そこまでは、温かい夢だった。


 しかし、一人の男が、ホズネに近づいた。 『ありがとう、神様。だが、どうせなら、もっと。我々だけのものに……』 男の目が、あの商人のように濁っている。 男は、ホズネを捕らえようと、網を投げた。 『やめろ!』 ホズネを庇おうとした、一人の少女が突き飛ばされる。 もみ合いになる村人たち。「独占」しようとする者と、「分け合おう」とする者。 その争いの中で、松明が倒れ、乾燥した麦畑に火がついた。


 火は、一瞬にして村を包んだ。 助けを求める人々の悲鳴。 自分が救おうとしたはずの村が、人間の「貪欲」によって、目の前で地獄に変わっていく。 『ごめんなさい、ごめんなさい……!』 ホズNEは、何も救えなかった。 人々を救うはずだったその力は、結果として、争いと破滅しかもたらさなかった。 ホズネは、炎に焼かれる村を背に、泣きながら、ただ、逃げた。 もう二度と、人間を信じないと、心に固く誓って――。


「……っ、はあっ……!」


 フィオナは、息苦しさに跳ね起きた。 自分の頬が、涙でぐっしょりと濡れていることに気づく。あれは、ただの夢じゃない。ホズNEの記憶だ。彼が、何百年も抱えてきた、絶望と罪の意識。 ベッドの足元を見ると、ホズNEが、いつの間にか目を覚まし、じっとフィオ… ナを見つめていた。その琥珀色の瞳は、夢の中で見た、あの日の悲しみと同じ色をしていた。 彼は、フィオナがその記憶を見たことを、知っているのだ。


「……そうだったのね」 フィオナの声は、涙で震えていた。 「あなたは、ただ敵から逃げてきたんじゃなかった。……私たち人間に、裏切られることから、ずっと、ずっと逃げてきたのね」 ホズNEは、答えない。ただ、その瞳が、悲しそうに揺れた。 フィオIONAは、ベッドから降りると、小さな守り神の前に、そっと膝をついた。


「……怖い思いを、したのね。ずっと、一人で」 彼女は、ゆっくりと手を差し伸べた。 「私は、あなたを独占したりしない。あなたの力を、金儲けになんて使わない」 ホズネの体が、こわばる。 「……でも、それでも、私を信じてくれとは言わないわ」 フィオナは、その手を、ホズネの頭ではなく、その隣の床に、そっと置いた。 「ただ、ここに居て。ここは、あなたの『家』だから。あなたが傷ついて、誰も信じられなくなった時に、ただ、安心して眠れる……あなたの、居場所だから」


 ホズネは、フィオナの差し出された手を、じっと見つめていた。 長い、長い沈黙。 やがて、彼は、おそるおそる、といった様子で一歩を踏み出した。 そして、フィオナの膝の上に、小さな頭をこてん、と乗せた。 それは、何百年という孤独な時を経て、彼が、再び「人間」という存在を信じ、その温もりに身を委ねた、奇跡の瞬間だった。 フィオナは、その小さな、しかし何よりも重い信頼の重みを、涙をこらえながら、そっと抱きしめた。

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