表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/43

第7話 涙パンの味と、頑固者の弟子入り許可(仮)

「フィオナ……もしかして……」

 ルーカスが息を呑む。マルセルも、いつもは冷静沈着なその顔に、珍しく期待の色を浮かべてフィオナを見つめている。

 フィオナは、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、それでも精一杯、ぎこちないながらも誇らしげに微笑んでみせた。

「ええ……見て。私の、初めてのパンよ。た、食べられるはず……だと思うわ」

 最後の一言で途端に自信なさげになるのが、いかにもフィオナらしかった。


 ルーカスは、恐る恐るというより、もはやこれまで数々の「フィオナ製・謎の物体X」を口にしてきた歴戦の勇者のような面持ちで、差し出されたパンの一片を手に取った。

「よし、フィオナ。万が一のことがあったら、私の墓には君の……いや、やっぱり普通のパンを供えてくれ」

「不謹慎なこと言わないでちょうだい!」

 フィオナが頬を膨らませる横で、マルセルは恭しくパンを受け取ると、まずはその香りを確かめ、次に断面の気泡を真剣な眼差しで検分し、そして、ほんの少しだけ口に含んだ。

 その瞬間、マルセルの眉がピクリと動き、目がカッと見開かれた。

「こ、これは……!お嬢様っ!」

 普段の彼からは想像もつかないほど大きな声だった。

「お、美味しいですぞ!素朴ながら、小麦の味がしっかりとしていて、噛めば噛むほど甘みが……!こ、これが本当にお嬢様おひとりで?!」

 マルセルのあまりの興奮ぶりに、フィオナもルーカスも目を丸くする。

 ルーカスも、マルセルのただならぬ様子に促されるように、恐る恐るパンを口に運んだ。そして、数秒間、咀嚼する動きが止まった。

「……ん?……あれ?……うまい……ぞ?」

 まるで信じられない奇跡を目の当たりにしたかのように、ルーカスは自分の舌が正常に機能しているか確認するかのように、もう一口、さらにもう一口とパンを食べ進める。

「フィオナ!やったじゃないか!これは正真正銘、パンだ! しかも、結構イケる!」

 これまでの失敗作(別名:凶器、あるいは実験廃棄物)とのギャップに、ルーカスは感動のあまりフィオナの肩をバンバン叩いた。

「い、痛いじゃない、ルーカス!」

 それでも、フィオナの顔には満面の笑みが――いや、笑顔というよりは、嬉しさと照れくささで顔全体がくしゃっとなったような、彼女なりの最大級の喜びの表情が浮かんでいた。


 そのパンの半分は、あっという間に三人の胃袋に消えた。残りの半分を、フィオナは大切そうに新しい布で包む。

「これを、ブランシュールさんのところに……」

「ああ、それがいい! あの頑固オヤジの度肝を抜いてやれ!」

 ルーカスは自分のことのように興奮している。


 かくして、フィオナは人生初の「自信作(?)」を手に、ルーカスと共にレオンのパン屋「ブランシュール」へと向かった。店の扉を開けるフィオナの手は、期待と不安で微かに震えていた。

 相変わらず仏頂面のレオンは、小麦粉まみれのエプロンで手を拭きながら、じろりと二人を一瞥する。

「……あん? また来たのか、嬢ちゃん。と、そっちの坊主も。何の用だ? 冷やかしなら帰んな」

「ブ、ブランシュールさん! これを、見ていただきたくて!」

 フィオナは、布包みを解き、まだほんのり温かいパンをレオンの前に差し出した。

 レオンは、訝しげな目でその不格好なパンを見下ろした。そして、鼻をひくつかせて匂いを嗅ぎ、次にパンを手に取って重さを確かめ、おもむろにそれを二つに割った。

 その瞬間、レオンの眉がピクリと動いたのを、フィオナは見逃さなかった。

 彼は何も言わずに、パンの一片を口に放り込む。そして、長い長い時間をかけて、じっくりとそれを味わうように咀嚼した。その間、フィオナとルーカスは固唾を飲んで彼の反応を見守る。


「……ふん」

 やがて、レオンはパンを飲み込むと、ぶっきらぼうに言った。

「……まあ、カラスのエサくらいにはなるかもしれんな」

「カラスの!?」

 フィオナはショックで叫びそうになる。ルーカスも「おい、オヤジ!」と詰め寄ろうとした。

 だが、レオンはそれを手で制すると、もう一口パンを食べ、そして、ボソリと付け加えた。

「……いや、待て。うちのカラスはグルメだから、これじゃ文句を言うかもしれん。……だがまあ、腹は壊さんだろう。薪窯の無駄遣いも、少しはマシになったみてえだな」

 それは、彼なりの最大限の賛辞なのだろうか。フィオナには判断がつかなかった。

 しかし、レオンはパンから目を離さずに続ける。

「……こいつは、てめえ一人で焼いたのか?」

「は、はい! もちろんです!」

「ふん。ま、奇跡ってのはたまには起こるもんだ。だがな、嬢ちゃん。パン屋ってのは、奇跡を一日に何百回も起こし続けなきゃならねえんだ。それができるか?」

 厳しい言葉。だが、その声には、ほんの僅かだが、からかいと…そして、興味のようなものが滲んでいる気がした。


 フィオナは、ぐっと唇を引き結び、まっすぐにレオンを見つめた。

「やってみせます。私、本気ですから」

 その時、店の奥からレオンの細君らしき、ふくよかで人の良さそうな女性が顔を出した。

「あらあら、おじいさん。若い方がこんなに一生懸命なのに、そんな意地悪ばかり言って。ねえ、お嬢さん、良かったらうちの残り物だけど、スープでも飲んでいかない?」

「お、おい!余計なことを言うな!」

 レオンが慌てて細君を制する。そのやり取りに、フィオナとルーカスは思わず顔を見合わせて吹き出しそうになった。頑固職人の意外な一面だ。


 しばらくの沈黙の後、レオンは大きなため息をつき、そして、まるで仕方がないというように言った。

「……まあ、いいだろう。明日から、店の掃除と薪割りだ。それが満足にできなきゃ、パン窯には一生触らせんからな。覚悟しとけよ、お嬢様」

「え……?」

 フィオナは目を丸くする。

「それって……つまり……」

「勘違いするな。弟子にすると決めたわけじゃねえ。ただ、うちの薪が最近質が悪くてな。力仕事のできる若いのが一人くらいいても、罰は当たらんだろうと思ってな。それだけだ」

 そう言って、レオンはそっぽを向いてしまった。耳が少し赤いように見えるのは、気のせいだろうか。


 フィオナの胸に、じわじわと喜びが込み上げてきた。それは、涙色のパンを焼き上げた時とはまた違う、温かくて、くすぐったいような感情だった。

「はいっ!ありがとうございます、ブランシュール親方!」

 勢い余ってそう呼ぶと、レオンは「誰が親方だ!」と顔を真っ赤にして怒鳴ったが、その声にはもういつものような刺々しさはない。


 こうして、フィオナ・ヴィルヘルムの、パン職人への道は、頑固で口の悪い(でも、もしかしたら少しだけ優しいのかもしれない)師匠(仮)のもとで、ようやく本当のスタートラインに立ったのだった。

 もちろん、その道のりは掃除と薪割りから始まるのだが。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ