第69話 陽だまりのキツネと、黄金の胞子
嵐が嘘のように過ぎ去った翌朝、アトリエ・フィオナの厨房は、いつもと全く違う騒々しさで幕を開けた。
「きゃああああっ! 何この子! キツネ!? しかも、毛が金色で、尻尾が麦の穂みたいになってる! かっ、可愛いーーーっ!!」
早朝一番に出勤してきたエリィが、厨房の片隅、フィオナが用意した柔らかな毛布の上で丸くなっている小さな獣を見つけ、甲高い歓声を上げた。 「しっ、エリィ! 静かに。まだ弱っているのだから」 フィオナが人差し指を口に当てるが、エリィの興奮は収まらない。 「だって、フィオナ! どこで拾ったの!? まるで物語に出てくる聖獣みたい!」
そこへ、ルーカスとマルセルも、ただならぬ気配を察して顔を出した。 「朝から騒々しいな、お前ら……って、なんだそりゃ」 ルーカスは、毛布の上の存在を一瞥し、眉をひそめた。 「……キツネ、か? いや、待て」 マルセルが、眼鏡の位置を直しながら、その獣にゆっくりと近づいた。 「フィオナ、この獣……昨夜の嵐で?」 「はい。店の裏で倒れていたのを……」
マルセルは、獣のしおれた麦穂のような尻尾を、指で触れる寸前で止め、まじまじと観察した。 「……間違いない。古文書でしか見たことがないが、これは『豊穣の使者』。土地の穀物と酵母の生命力を司る、古の守り神そのものだ」 「はあ? 守り神だぁ?」 ルーカスが、心底信じられないといった顔で鼻を鳴らした。 「こんな、手のひらサイズのチビが、か? どう見ても、ただの栄養失調のキツネだろ」
「栄養失調じゃないの!」エリィがルーカスの脇腹を肘で突いた。「この子、フィオナのパンしか食べなかったんだから! ねっ!」 「ええ……。昨夜、私が焼いたパンを水に浸して与えたら、少しだけ……」 フィオナがそう言うと、獣は、まるでその言葉が分かったかのように、ゆっくりと目を開けた。そして、毛布からか細い足で這い出すと、まっすぐにフィオナの足元へ歩み寄り、昨日と同じように、その額を彼女の靴にすり寄せた。
「うわあ……! フィオナにだけ、こんなに懐いてる!」 「……フン。腹が減ってるだけだろ。それよりフィオナ、そんな得体の知れないもんを店に置くのは衛生的にどうなんだ。客に見られたら騒ぎになるぞ」 ルーカスはぶっきらぼうにそう言ったが、その視線は、獣の乾いた毛並みと、その下に隠れた細い体躯に向けられていた。
「この子、名前なんていうの?」 「え? 名前……?」 「決めた! 『ホズネ』よ! 麦の『穂』と、キ『ツネ』で、ホズネ! 可愛いでしょ!」 エリィが手を叩くと、獣――ホズネは、まるで自分の名を理解したかのように、小さく「きゅう」と鳴いた。
その日から、アトリエ・フィオナに、不思議な家族が加わった。 ホズネは、フィオナの焼くパンを少しずつ食べることで、日に日に元気を取り戻していった。しおれていた毛並みには艶が戻り始め、枯れていた麦の穂の尻尾も、心なしか黄金色に色づいてきたように見える。
ルーカスは「邪魔だ」と言いながらも、厨房の隅に、ホズネが雨風をしのげる小さな木製の寝床を、夜な夜な叩いて作っていた。 マルセルは「極めて貴重な生態サンプルだ」と呟きながら、ホズネの食べ残したパン屑を研究室に持ち帰り、古代の発酵理論と照らし合わせるのに夢中だった。 エリィは「ホズネちゃん、今日はどっちのリボンがいい?」と、全く興味を示さないホズネに、楽しそうに話しかけ続けていた。
そして、フィオナは、戸惑いながらも、自分にだけ絶対の信頼を寄せる小さな命の重みを、確かに感じていた。 (守らなければ……) その小さな決意が、彼女のパンの味を、さらに深く、優しく変えていた。
奇跡が起きたのは、ホズネが来てから七日目の朝だった。 いつものように、フィオナがパン生地を捏ねていると、すっかり元気になったホズネが、テーブルの上によじ登ってきた。そして、フィオナが捏ねる生地の鉢を覗き込むと、何かを確かめるように香りを嗅ぎ、満足げに頷いた。
次の瞬間。 ホズネは、自らの黄金色の尻尾(麦の穂)を、パン生地の上で、ぱさりと一振りした。
「あっ……!」 フィオナが息を呑む。 ホズネの尻尾から、まるで金色の砂塵のような、キラキラと輝く微細な胞子が、数粒、パン生地の上へとこぼれ落ちたのだ。 ホズネは、それを見届けると、「きゅう」と一つ鳴き、満足そうにフィオナの肩に飛び乗った。
「……陽光の、酵母……」 マルセルが書庫で呟いていた、古代の言葉が、フィオナの脳裏をよぎる。 フィオナは、ゴクリと唾を飲み込むと、その金色の胞子が練り込まれた生地を、いつも以上に丁寧に発酵させ、石窯で焼き上げた。
焼きあがったパンは、いつもと同じ、ただの丸パンだった。 しかし、そのパンが窯から出た瞬間、厨房を満たした香りが、違った。 それは、ただ香ばしいだけではない。まるで、凝縮された太陽そのものを嗅いでいるかのような、力強く、そして、生命力に満ち溢れた、圧倒的な芳香だった。
ちょうどその時、持病の咳に悩まされ、すっかり痩せてしまった常連の老婆が、店を訪れた。 「フィオナちゃん……いつものパン、あるかい……? 最近、どうにも食欲がなくてねえ……」 「……はい。今、焼きあがったばかりのものが。よろしければ、少し、召し上がっていかれませんか?」 フィオナは、あの「黄金のパン」をひとかけらちぎり、老婆に差し出した。
老婆は、そのパンをゆっくりと口に運んだ。 そして、目を見開いた。 「まあ……! なんだい、これは……? 体の芯から、ぽかぽかと、力が湧いてくるようだ……。止まっていた咳まで、なんだか……楽に……」 老婆は、パンを食べ終わる頃には、この数ヶ月で一番良い顔色になって、笑顔で店を後にしていった。
その様子を、カウンターの陰から見ていたエリィが、興奮した様子でフィオナに駆け寄った。 「フィオナ! 今の、見た!? まるで、魔法のパンじゃない!」
「魔法、なんかじゃないわ」 フィオナは、自分の肩の上で誇らしげに尻尾を揺らすホズネに、そっと触れた。 「これは、ホズネが私たちにくれた、恩返しなのよ。……『陽光の酵母』とでも、呼ぶべきかしら」
その日を境に、「アトリエ・フィオナ」のパンは、病を癒やし、活力を与える「奇跡のパン」として、再び王都中の噂の中心になっていく。 だが、その強い光は、同時に、王都の暗い片隅に潜む、最も危険な影をも、呼び覚ますことになろうとは、まだ誰も知る由もなかった。




