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笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~  作者: 虹湖
伝説のパン屋になりましたが、路地裏でのんびり弟子を育てます! ― 焼きたての幸せと、三人の小さな夢 ―
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第62話 黒い噂と、震えるハーブ

 アシュラフとセオドアが互いを認め合って以来、「アトリエ・フィオナ」の厨房は、まるで新しい酵母が生まれたかのように活気に満ちていた。感覚派と理論派の衝突は、時に火花を散らしながらも、日々新しいアイデアのパンを生み出す、心地よい刺激へと変わっていた。


 そんなある日、フィオナは三人目の弟子、リリナに新しいパンの開発を任せた。 「リリナ。あなたのその素晴らしい植物の知識を、パンに活かしてみて。あなたが焼くパン、先生、食べてみたいな」


 その言葉に、リリナは顔を真っ赤にしながらも、瞳を輝かせた。彼女は故郷の森で学んだ知識を総動員し、心を落ち着かせるカモミールと、優しい香りのリンデンフラワーを練り込んだ、小さくて可愛らしいハーブパンを焼き上げた。


「……で、できました……!『森のおひるねパン』です……!」 初めて自分の意志で作ったパンを、彼女は震える手で皆に差し出した。 「うまっ! なんか、すげー落ち着く味だぜ、これ!」 アシュラフが大きな口で頬張る。 「ふむ。ハーブの香りが小麦の風味を殺していない。見事なバランス感覚だ、リリナ君」 セオドアも感心したように頷いた。


 そのパンは、店の常連客にも「優しい味ね」「なんだか眠くなってきちゃったわ」と大好評だった。リリナは、カウンターの陰からその光景を覗き見ては、胸の奥がぽっと温かくなるのを感じていた。 (私にも……焼けるんだ。人を、笑顔にするパンが……) 小さな自信が、彼女の心に芽生え始めた、その矢先だった。


 街に、不穏な空気が流れ始めたのは。 最初は、ほんの些細な変化だった。いつも来るはずの常連客が、一人、また一人と姿を見せなくなった。店の前を通り過ぎる人々が、ひそひそと何かを囁き合い、好奇と、そして少しの侮蔑が混じった視線を向けてくる。


「おい、聞いたか? あの『アトリエ・フィオナ』のパン、森の毒薬草が入ってるって噂だぜ」 「ああ、あの薬草に詳しそうな、暗い顔の娘がいるだろ? あいつが何か混ぜてるに違いねえ」


 その日、リリナは、パンを買いに来た客のそんな会話を、偶然聞いてしまった。 血の気が、さあっと引いていく。世界から、音が消えた。自分のせいで、尊敬する師匠の、大切なこの場所に、泥を塗ってしまった。 「……っ!」 彼女は、持っていたパンの籠を落とすのも構わず、店の奥へと逃げ込んだ。


 厨房は、重い沈黙に包まれていた。 「誰だ、そんなデタラメ言ってる奴は! 俺が今すぐ探し出して、殴り飛ばしてやる!」 アシュラフが、怒りに拳を震わせる。 「落ち着け、アシュラフ君。暴力では、噂をさらに広げるだけだ」セオドアが冷静に諭す。「まずは噂の発信源を特定し、証拠をもって対処するのが最善策だ。おそらく、美食家同盟の残党だろう」 「でも、リリナちゃん……」エリィが、固く閉ざされたリリナの部屋のドアを見つめ、涙ぐんだ。「あんなに嬉しそうだったのに……かわいそう……」 ルーカスは何も言わず、ただ店の入り口に立ち、これまで以上に鋭い視線で、外の通りを睨みつけていた。


 その夜。フィオナは、温かいミルクの入ったカップを手に、リリナの部屋のドアをそっとノックした。 返事はない。フィオナは静かにドアを開けると、ベッドの隅で膝を抱え、小さな塊のようになっているリリナの姿を見つけた。


「……リリナ」 フィオナは、ベッドのそばに腰を下ろした。 「私がまだ、公爵令嬢だった頃の話をしてもいいかしら」 彼女は、遠い目をして語り始めた。感情を殺し、うまく笑えなくなったこと。パンを焼く喜びだけが、唯一の救いだったこと。そして、自分の笑顔が、パンを買いに来た子供を怖がらせてしまった日の、胸が張り裂けそうなほどの痛み。 「あの時、私は思ったわ。私なんて、パンを焼く資格すらないんだって。誰かを笑顔にするどころか、傷つけてしまうだけだって」


 リリナが、顔を上げた。その瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。 「……私と……同じ……」 「ええ。だから、あなたの今の気持ちが、痛いほど分かるの」 フィオナは、リリナの冷たい手を、自らの温かい両手で優しく包み込んだ。 「でもね、リリナ。旅をして、たくさんの人と出会って、一つだけ分かったことがあるの」 彼女は、リリナの瞳を真っ直ぐに見つめた。 「失敗も、悲しい噂も、流した涙も……きっと、全部が“美味しいパン”になるための、最高のスパイスなのよ。それらを乗り越えたパン職人の手だけが、本当に人の心を温めるパンを焼けるんだって、先生は信じてる」


 フィオナの言葉は、魔法のように、リリナの凍てついた心にゆっくりと染み渡っていった。 (……スパイス……。私のこの、苦しい気持ちも……?)


 翌朝。リリナは、まだ少し赤い目をしながらも、厨房に立っていた。 「師匠。私……私の知識を、逃げるためじゃなくて、みんなを笑顔にするために、使いたいです」 彼女は、そう言うと、自らの薬草箱から、様々な色のハーブを取り出し始めた。カモミールの黄色、ローズヒップの赤、ペパーミントの緑。 「これは……?」 「心を癒やす、ハーブティーです」 リリナは、初めて、誰の真似でもない、自分自身の意志に満ちた顔をしていた。 「どんなに酷い噂も、この温かい香りの前では、きっと力をなくすはずです。私のパンを信じてくれる人に、私の精一杯の『ありがとう』を届けたいんです」


 その日から、アトリエ・フィオナの店先で、小さなハーブティーの試飲会が始まった。 「さあさあ、どうぞ! こちら、うちのリリナ特製の、心と体が元気になる魔法のハーブティーですよー!」 エリィの明るい声に誘われ、最初は遠巻きに見ていた人々も、その素晴らしい香りに足を止める。 一口飲んだ客の顔が、驚きと安らぎで、ふわりと緩んだ。 「まあ……なんて良い香りなの……」 「ああ、なんだか、ささくれてた心が洗われるようだ……」


 リリナは、震える手でカップを差し出しながら、一人一人に必死で説明した。 「そ、そのハーブは、肩の力を抜く効果が……こちらは、悲しい気持ちを、少しだけ軽くしてくれます……」


 そのひたむきな姿と、嘘のないハーブティーの美味しさが、人々の心の氷を少しずつ溶かしていく。黒い噂は、温かい湯気の中に、いつの間にか消えていた。 リリナは、自分の手でカップを受け取り、「ありがとう」と微笑んでくれる客の顔を、涙で滲む目で、でも、しっかりと見つめていた。 彼女が、自分の力で、初めて誰かを笑顔にできた、その温かい瞬間だった。

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