第61話 太陽の生地と、教科書のパン
フィオナの課題は、翌日から早速、実行に移された。初日の師匠は、砂漠の少年アシュラフ。生徒は、元王族の青年セオドア。その組み合わせは、水と油というより、砂と精密機械のように、そもそも交わることすら難しいように思われた。
「いいか、セオドア! まずは太陽の声を聴くんだ!」 アシュラフは、鉢に入った小麦粉に両手を差し込み、うっとりと目を閉じた。 「……すまないが、アシュラフ君。太陽は音波を発しない。君の言う『声』とは、比喩表現か? それとも、温度や湿度といった環境要因を指す、君たちの一族に伝わる隠語かな?」 セオドアは、真顔で手にしたメモ帳にペンを走らせる。
アシュラフは、がっくりと肩を落とした。 「違う! そうじゃねえ! もっとこう、フィーリングで……感じるんだよ! 今日は太陽が笑ってるから、生地も元気になる。だから水は、風が歌うくらいに少しだけ多めに……」 「待ってくれ。風の歌、とは風速何メートルを指す? それによって水分量は0.5cc単位で調整する必要がある」 「ああもうっ! うるせえ! いいから黙って俺の真似をしろってんだ!」
アシュラフが感覚で捏ねる生地は、まるで生き物のように彼の手に吸い付き、みるみるうちに艶やかな弾力を帯びていく。しかし、セオドアが同じように真似をしようとしても、その手つきはぎこちなく、生地はただベタつくだけで、一向にまとまる気配がない。彼の頭の中は、「なぜだ?」「どの工程に誤差が生じている?」という疑問符で埋め尽くされ、パン作りそのものを楽しむ余裕など、どこにもなかった。
翌日、攻守は交代した。今度の師匠はセオドア。アシュラフは、うんざりした顔で彼の前に立っていた。
「では、始める。まず室温24.5度、湿度55パーセントを確認。ボウルの温度を人肌に温め、小麦粉は三度に分けてふるいにかける。水は指定の温度から一度でもずれたらやり直しだ。いいね?」 セオドアが、教科書を読み上げるように手順を説明する。 「げっ……パン焼くのに、なんでこんな面倒くせえことしなきゃなんねえんだよ。パンが息苦しくて可哀想だぜ」 アシュラフは、腕を組んで不満を漏らした。 「可哀想? 違うな。これは、パンに対する最大限の敬意だ」 セオドアは、ぴしゃりと言い放った。 「なぜこの温度なのか、なぜこの手順なのか。その一つ一つに、パンを最高の状態で焼き上げるための、先人たちが積み重ねてきた知恵と理由がある。それを無視するのは、パン職人を名乗る資格がない」
その言葉に、アシュラフは初めて、セオドアの理論の奥にあるものを垣間見た気がした。それは、ただの規則ではない。パンという存在に対する、揺るぎない愛情と、それを最高の形で届けたいという、職人としての誇り。アシュラフが「心」と呼ぶものが、形を変えてそこにも存在していることに、彼は気づき始めた。
一方のセオドアも、不満を言いながらも、アシュラフが生地に触れる時の表情から、目が離せなくなっていた。アシュラフは、生地を捏ねる時、本当に楽しそうに笑うのだ。まるで、久々に会った親友と語り合うかのように、生地の弾力や香りを確かめ、時には「よーし、いい子だ」などと声をかける。 (……対話、か) 自分がいつの間にか忘れていた、パンという生き物との対話。その重要性を、アシュラフの自由奔放な姿が、皮肉にもセオドアに思い出させていた。
課題の最終日。互いに少しだけ相手を認め始めた頃、事件は起こった。 セオドアの理論通りに進めていた王宮パンの生地が、その日の気まぐれな陽気のせいで、予想以上の速さで一次発酵を進めてしまったのだ。 「なっ……! いけない、過発酵だ! これでは、きめ細かく気品のあるパンにはならない……! 万事休すだ……!」 セオドアが、血の気の引いた顔で狼狽する。レシピという絶対の地図を失い、彼は完全に道に迷ってしまった。
その時、アシュラフが、その膨れすぎた生地の香りをくんくんと嗅ぐと、ニヤリと笑った。 「万事休す、なもんかよ。こいつは今、『もっと自由にさせてくれ!』って叫んでるぜ!」 彼は、戸棚から故郷のドライフルーツとナッツを掴み出すと、過発酵の生地に素早く混ぜ込み始めた。 「おい、何を……! レシピにないものを入れたら、もう王宮パンでは……!」 「理屈通りに行かねえ時もあるんだよ! こういう元気すぎる生地にはな、フルーツの甘みとナッツの歯ごたえをぶつけてやるんだ。そしたら、喧嘩しながら、もっと美味くなる!」
アシュラフのその野生の勘に、今度はセオドアが目を見開いた。 (……そうか! 過発酵で生まれた強いアルコール臭を、ドライフルーツの芳醇な香りが中和する! そして、緩んだ生地の骨格を、ナッツの硬さが補強する! 君の発想は……理論的にも、正しい!) 「アシュラフ君! その配合なら、焼き時間を通常より3分短く、温度を5度高く設定するんだ! そうすれば、フルーツの糖分が焦げることなく、最高の焼き色になるはずだ!」
初めて、二人の声が、一つのパンのために重なった。 感覚が道を切り拓き、理論がその道を舗装する。
やがて、窯から取り出されたパンは、彼らが作ろうとしていたものとは全く違う、けれど、抗いがたいほど魅力的な香りを放っていた。表面は王宮パンのように艶やかで気品があり、一口食べれば、砂漠の太陽をたっぷり浴びたフルーツの自由な甘みが、口いっぱいに広がった。
厨房のテーブルで、フィオナが、そのパンをひとかけら、ゆっくりと味わった。そして、顔を上げると、固唾を飲んで見守る二人の弟子に、静かに微笑みかけた。
「完璧な王宮パンではありませんね。自由奔放な砂漠パンでもない。……ええ、とても美味しいです。これが、あなたたち二人が、初めて一緒に焼いたパンなのですね」
その言葉に、アシュラフとセオドアは互いに顔を見合わせ、照れくさそうに、だが誇らしげに笑った。厨房の隅で、リリナがほっとしたように胸をなでおろす。
陽だまりのアトリエに、初めて「チーム」としての温かいパンの香りが満ちた、その瞬間だった。




