第59話 陽だまりのアトリエと、三つの願い
夜明け前の青い静寂が、まだ王都アウレリアの石畳を濡らしている頃。路地裏の一角だけが、まるで呼吸するかのように、温かい光を灯していた。石窯で焼かれる小麦の甘く香ばしい匂い。それは、パン屋「アトリエ・フィオナ」が、また新しい一日を始める合図だった。
「ん……よし」
フィオナは、焼きあがったばかりのパン・ド・カンパーニュの美しい焼き色に満足げに頷くと、そっと布の上に並べた。かつてヴェストリアの運命を左右したその手は、今、ここに帰るべき場所を見つけ、日々のパンを焼く喜びに満たされている。
“国を救った伝説のパン職人”、“笑顔の聖女”。 世間が彼女に与えた大仰な二つ名は、時折、客たちの囁き声となって彼女の耳に届く。そのたびに、胸の奥がちくりと痛んだ。私が望んだのは、そんな大それたものではない。ただ、この陽だまりのような小さな店で、誰かの「美味しい」という一言のために、粉と向き合う静かな時間。それだけがあれば、もう何もいらなかった。
カラン、と。 その日、店のドアベルが、朝一番の客を告げるにはあまりに性急で、快活な音を立てた。
飛び込んできたのは、まるで砂漠の太陽そのものを運び込んできたかのような、快活な少年だった。日に焼けた肌、瞳は好奇心に満ちた黒曜石のように輝き、その身からは乾いた異国の香辛料の匂いがした。 「見つけた! やっと見つけたぜ! ここが、あのフィオナのパン屋なんだな!」
少年が興奮冷めやらぬうちに、今度は丁寧な、しかし少し緊張したノックの音が響く。入ってきたのは、旅装束こそ質素だが、その立ち居振る舞いに育ちの良さが隠しきれない、真面目そうな顔立ちの青年だった。 「……失礼。こちらで、フィオna・フォン・シルフィード殿がパンを焼かれていると伺い、参上した次第であります」
そして、二人の大きな影に隠れるように、もう一人。ドアの隙間に半分だけ体を覗かせ、怯えた小動物のような瞳で店内を窺っている少女がいた。その小さな手は、森の香りがする薬草の束を、祈るように強く握りしめている。 「あ、あの……」
あっけに取られるフィオナと、カウンターで目を丸くするエリィの前で、まるで示し合わせたかのように、三人の若者は同時に深々と頭を下げた。
「「「俺を、弟子にしてください!」」」
静かな朝のパン屋は、一瞬にして、三つの異なる文化から発せられる熱気に満たされた。
砂漠から来たという少年、アシュラフは言った。 「俺の故郷じゃ、水よりアンタのパンの噂の方が有名だ! 飢えと争いしかなかった砂漠で、アンタのパンは希望の味がしたんだ! 俺も、そんなパンを焼きたい!」
元王族だと身分を隠す青年、セオドアは言った。 「私は、完璧なレシピこそが至高だと信じておりました。しかし、あなたのパンを口にした時、知ったのです。温かさのない完璧など、空っぽの器に過ぎないと。どうか、その『心』の焼き方を、私にご教授願いたい」
そして、森の少女リリナが、震える声で、それでも真っ直ぐな瞳で言った。 「私のパンは……いつも、自信がなくて、人を笑顔にできませんでした。でも、あなたのパンは……『あなたは、ここにいていいんだよ』って……そう、言ってくれた気がしたんです……」
三者三様の、魂からの叫び。彼らは皆、フィオ- ナのパンに人生を救われ、今度は自らがその光を灯す側になりたいと、遥々この路地裏までやってきたのだ。
だが、フィオナは、そのあまりに純粋な願いに、ただおびえることしかできなかった。 「私に、師匠なんて務まるはずがないわ……」 人に教えることの責任。そのあまりの重さに、彼女は思わず後ずさる。 (私なんて……まだ、うまく笑うことさえ、できないのに。この子たちの輝くような夢を、私が背負えるはずがない) 公爵令嬢だった頃の無力な自分が、亡霊のように心をよぎった。
その時だった。店の奥から、のっそりと大男が現れた。いつものように朝食のパンをねだりに来た、用心棒のルーカスだ。彼は、店のただならぬ雰囲気を一瞥すると、ため息混じりにフィオnaの頭を大きな手でガシガシと撫でた。
「てめえは、まだそんなこと言ってんのか」 ぶっきらぼうな、しかし誰よりも優しい声だった。 「ヴェストリアで、一人で戦ったとでも思ってんのかよ。お前の隣には、いつも俺たちがいただろ。こいつらにとっても、そうだ。お前は一人で師匠になるんじゃねえ。俺たちが、マルセルが、そこのチビ助が、みんなで、こいつらの面倒を見るんだよ」 「そうよ、フィオナ!」エリィも、力強く頷く。「それにね、この子たちの目、キラキラしてる! まるで、旅に出る前のフィオナみたい!」
仲間たちの言葉に、フィオナははっとした。 目の前にいる三人の若者。砂漠の少年、王宮の青年、森の少女。 それは、かつて自分が旅した道のりそのものではないか。自分が悩み、苦しみ、そして乗り越えてきた壁が、今、形を変えて目の前にある。 (……そうか。教えることは、もう一度、学ぶことなのかもしれない) 私が彼らにパンを教えるのではない。きっと、この子たちが、私に、師匠になる方法を教えてくれるのだ。
フィオナは、覚悟を決めた。 彼女は、三人の前に進み出ると、エプロンについた小麦粉をそっと払い、深呼吸を一つした。そして、まだ少しだけぎこちない、けれど、今までで一番温かい笑顔で、言った。 「……ようこそ、アトリエ・フィオナへ。パン作りは、とても大変よ。それでも、ついてこれますか?」
三人の瞳が、驚きと、そして堰を切ったような喜びに、ぱっと輝いた。
「「「はいっ、師匠!!」」」
まだ明けやらぬ王都の空に、三つの元気な声が響き渡る。 陽だまりのアトリエで、焼きたてのパンの香りと、三つの小さな夢、そして、戸惑いながらも一歩を踏み出した新米師匠を乗せた、賑やかで温かい毎日が、今、静かに始まろうとしていた。




