第56話 私たちのパンと夜明け前の攻防
美食家同盟の妨害は、フィオナの決意を砕くどころか、彼女の魂に眠っていた職人としての炎に、むしろ油を注ぐ結果となった。王宮の厨房の片隅。与えられたのは、最新の魔導オーブンとは比べ物にならない古びた石窯と、ありふれた中級品の小麦粉だけ。
(……絶望ではない。これは、試されている)
フィオナの心は、不思議なほど静かだった。
(公爵令嬢でもなく、誰かの庇護を受けるのでもない。ただ一人のパン職人として、私の持てる全ての技術と、旅で得た全ての経験が、今、この瞬間のためにある)
彼女は、仲間たちに向き直った。
「マルセルさん、お願いがあります。王宮の古い書物の中に、小麦以外のもの……例えば、森で採れる木の実や、忘れられた草の種を粉にして、パンの風味を豊かにするような、古代の製法は載っていませんか?」
「面白い視点だね!」マルセルの学究心に火が灯る。「権威を重んじる宮廷料理では廃れてしまったが、民間伝承や古い儀式の記録になら、きっとあるはずだ。よし、王宮の書庫は僕に任せてくれ!」
「エリィ。私たちは、この旅の間ずっと使い続けてきた、あの『霧の谷の酵母』を使いましょう。あの子は、どんな厳しい環境でも力強く生きて、最高の味を生み出してくれる、私たちの小さな相棒だから」
「うん!」エリィは力強く頷いた。「あの子なら、王宮の気取った酵母なんかに、絶対負けないもん!」
こうして、『チーム・フィオナ』の静かな反撃が始まった。
マルセルは王宮の巨大な書庫に籠り、埃をかぶった古文書の山と格闘した。そして数日後、ついに一つの記述を発見する。「古の王家が豊穣の儀式で用いたという『聖なる樫の実』の粉は、パンに豊かで気品のあるナッツのような香りを与える」と。
エリィは、その持ち前のコミュニケーション能力を最大限に発揮した。厨房の使用時間を一日数時間しか与えようとしない意地悪な料理人たちに対し、彼女は臆さなかった。
「フィオナは、カリム王子殿下が直々にお招きした、大切なお客様ですよ! その方をこんな風にお扱いして、もし王子のお耳に入ったら、あなたたち、それでも王宮に仕える人間としての誇りがあるのですか!?」
彼女の一喝と、カリム王子の名を巧みに使った交渉術で、見事に深夜から夜明けまでの厨房使用許可を勝ち取った。さらに、王宮内のカリム王子派の侍女たちとすっかり仲良くなり、彼女たちの協力で、王家の森にひっそりと生える『聖なる樫』の木の場所まで突き止めてみせた。
そしてルーカスは、厨房の入り口で、まるで番犬のように仁王立ちを続けていた。食材に異物を混入させようとする者、作業を妨害しようとする者。そういった輩を、彼はただ黙って、その鋼のような眼光で睨みつけるだけで追い払った。
「……失せな」
低い声で、彼は一度だけ呟いた。
「ここは、あいつの神聖な仕事場だ。てめえらみてえなのが、汚していい場所じゃねえ」
その背中には、不器用だが、絶対的な守護の意志が宿っていた。
晩餐会を二日後に控えた深夜。フィオナが樫の実の粉を丁寧に生地に練り込んでいると、ぬっと背後に人の気配がした。宮廷料理長、オーギュストだった。完璧に糊付けされた純白のコックコートは、小麦粉で頬を汚しながら懸命に働くフィオナの姿を、まるで嘲笑うかのようだった。
「ほう、これが噂の『奇跡のパン』とやらですか。なんともまあ、貧相な……」
オーギュストは、フィオナの手元を侮蔑的に一瞥した。
「最高級のトリュフも、熟成されたフォアグラも使わぬ、ただの粉の塊。そのような庶民の餌で、我々美食家同盟が長年かけて築き上げた、この国の美食の殿堂に対抗できるとでも、本気でお思いかな?」
フィオナは、捏ねる手を止めずに、穏やかに顔を上げた。
「私のパンは、何かと競うために焼かれるのではありません、オーギュスト様」
その声は、静かだが、石窯の炎のように揺るぎなかった。
「ただ、食べる人の心に……冷たい部屋にいるのなら、温かい灯りをともすために。悲しみに暮れているのなら、そっと寄り添うために。ただ、そのためにあるのです」
「……戯言を」
オーギュストは吐き捨てたが、フィオナのあまりに真っ直ぐな瞳に、ほんの一瞬だけ、自らの信念が揺らぐのを感じて、狼狽を隠すように背を向けた。
その様子を、厨房の入り口の柱の陰から、二人の男が見ていた。
カリム王子は、フィオナを助けようと駆けつけた。権力を使えば、最高の食材も、最高の厨房も、彼女に与えることができた。しかし、彼は声をかけることができなかった。仲間たちに支えられ、逆境の中で、むしろ活き活きと、誇り高く戦う彼女の姿に、心を奪われていた。
(私は彼女に、安全な金色の鳥かごを与えようとしていたのかもしれない。だが、彼女は……嵐の中でこそ、最も美しく羽ばたく鳥なのだな)
彼が抱いた独占欲にも似た感情は、いつしか深い尊敬の念へと変わっていた。
ルーカスもまた、その光景を見ていた。王子が、フィオ-
ナを慈しむような目で見つめている。その事実に、胸の奥がチリりと痛んだ。
(俺は……結局、あいつに何もしてやれねえ。王子のように地位もねえ。マルセルのように知識もねえ。ただ、ここで見張ってるだけだ)
だが、パンに向かうフィオナの真剣な横顔を見ていると、そんな黒い嫉妬心さえも、どうでもいいことのように思えてくる。
(……いや、それでいい。俺は、あいつが、あんな顔で笑ってパンを焼ける場所を守れれば……それで、いいのかもしれねえな)
彼の不器用な想いは、より純粋な祈りへと、静かに昇華していった。
そして、晩餐会前夜。
ついに、フィオナたちのパンが焼きあがった。
それは、王宮のどんな豪華な料理とも違う、素朴で、少し不格好で、しかし力強い生命力に満ちた、大きな丸いパンだった。その表面には、ザルバードのデーツの欠片が、シウラの雪の下から見つけたハーブが、ポルト・マーレの岩塩が、まるで夜空に輝く星々のように、美しく散りばめられていた。
仲間たちが、まだ温かい湯気の立つパンを、静かに囲んだ。
「……できたね、フィオナ」エリィが、感極まった声で言った。
「ああ」マルセルが、眼鏡の奥の目を細める。「我々の旅の、その全てがここにある」
「……美味そうじゃねえか」ルーカスが、ぶっきらぼうに、だが最高の賛辞を口にした。
フィオナは、愛おしそうにそのパンにそっと触れた。
「はい。私たちのパンが、できました」
彼女は、窓の外にそびえ立つ王宮の尖塔を見上げた。明日、この小さなパンが、この国を支配する巨大な権力に、静かな戦いを挑む。その瞳には、夜明け前の空のような、澄み切った決意が宿っていた。




