第55話 金色の鳥かごと王子の告白
ヴェストリア王宮は、一行がこれまで旅してきたどの街とも異質だった。案内された客室は、大理石の床が磨き上げられ、天蓋付きの豪奢なベッドが置かれ、窓の外には幾何学的に完璧な美しさを持つ庭園が広がっていた。
「きゃーっ! すごい! お姫様のお部屋みたい! フィオナ、見て見て、この大きな鏡! 私が五人くらい映っちゃう!」
エリィは、子供のようにはしゃぎ回り、ふかふかの絨毯の上でくるくると踊ってみせた。
「この書斎……素晴らしい」マルセルは、壁一面を埋め尽くす書棚に目を輝かせる。「王国の王立図書館にもない古文書があるかもしれない。これで美食家同盟の成り立ちについても、深く調査ができそうだ」
だが、誰もがその華やかさに心を躍らせたわけではなかった。
「……チッ、金の匂いしかしねえな」
ルーカスは、行き場のない大剣を壁に立てかけ、落ち着かなげに部屋をうろついた。
「装飾過多で、どうにも居心地が悪い。俺は馬小屋で雑魚寝してる方が、よっぽどマシだぜ」
彼にとって、この完璧すぎる空間は、自分の居場所ではないという疎外感を際立たせるだけだった。
フィオナは、窓辺に立ち、完璧に刈り込まれた庭園を見つめていた。
(……昔、住んでいた公爵家の屋敷の庭と、よく似ている……)
その記憶が、彼女の心を冷たくさせた。美しく、どこにも逃げ道のない、まるで金色の鳥かごのような庭。感情を殺し、ただ微笑む人形であることを求められた、あの息苦しい日々が蘇る。
やがて、一行はカリム王子の待つ謁見の間へと通された。王子は、噂に違わぬ優雅な物腰だったが、その涼やかな瞳の奥には、強い意志と、この国を憂う深い苦悩の色が滲んでいた。
「ようこそ、フィオナ殿。そして、勇敢なる仲間たちよ」
王子の声は、穏やかだがよく通った。
「君たちの噂は、砂漠の熱風よりも、雪原の吹雪よりも早く、私の元へと届いていた」
「もったいないお言葉です、王子殿下。私たちは、ただ行く先々でパンを焼いていただけですから」
フィオナが恭しく頭を下げると、王子は微笑んで首を振った。
「その『ただのパン』が、どれほど人の心を動かすか。私は、ザルバードからの報告で、この目で見たかのように知っている。……だからこそ、君たちに頼みたいことがあるのだ。数日後に開かれる『平和の晩餐会』で、君のパンを披露してほしい」
「平和の晩餐会、ですか?」とマルセルが問う。
カリム王子は、苦々しげに表情を歪めた。
「名ばかりの平和、だ。今の宮廷は美食家同盟の『食は力なり』という思想に染まり、富と権威をひけらかすことこそが正義だと信じる者たちが実権を握っている。晩餐会では、彼らが推す宮廷料理長の、贅の限りを尽くした料理がずらりと並ぶだろう。私は、その豪華な料理の隣に、君の『分け合うためのパン』を置きたいのだ。どちらが、真に人の心を豊かにするのか……凝り固まった諸侯たちに、その舌で、その心で、感じてほしい」
謁見の後、一行は宮廷の長い廊下を歩いていた。そこで、いかにも位の高そうな貴族たちと鉢合わせになった。
「おやおや、これが噂の『パン屋姫』御一行か。どうにも、路地裏の泥の匂いがするようだ」
「晩餐会でパンなどを出すとは、カリム王子も酔狂なことだ。我々王侯貴族の肥えた舌を、満足させられるとでもお思いかな?」
粘つくような嘲笑に、ルーカスのこめかみに青筋が浮かぶ。
「てめえら……!」
「やめて、ルーカス」
フィオナが、その逞しい腕をそっと掴んだ。「……行きましょう」
だが、そんな彼らの心を癒すかのように、庭園ではカリム王子が待っていた。
「すまない、嫌な思いをさせたね。だが、私は信じている。君の真っ直ぐな信念は、彼らの浅はかな嘲笑よりも、ずっと強い」
王子は、フィオナの前に歩み寄ると、その手を優しく両手で包み込んだ。
「フィオナ殿。私は、君のパンだけではない。そのパンを生み出す、君自身のその強さと、深い優しさに惹かれているのだ。もし……もし、君のような女性が、この国の王妃となってくれるのなら……この国は、きっと、本当に変われる」
「お、王子殿下……!」
突然の、あまりに熱烈な告白に、フィオナは驚きと戸惑いで顔を真っ赤に染めた。
「私には、そのような資格は……とても……」
物陰からその光景を見ていたルーカスの心臓を、氷の矢が貫いた。
王子の熱のこもった眼差し。戸惑いながらも、決して拒絶はしないフィオナの表情。
(俺は……結局、ただの護衛か? こいつが王子だから、フィオナは……。俺の居場所は、フィオナの隣にはねえのか……?)
自分の無力さを突きつけられたような、焼け付くような痛みが胸に広がった。
その夜、フィオナは晩餐会で出すパンの構想を練っていた。旅の集大成として、王国の小麦と、異国で出会ったスパイスや果実を融合させた、最高のパンを作る。そのためには、王宮が誇る最高級の『陽光小麦』が不可欠だった。
だが、彼女が王宮の巨大な食料庫へ向かうと、管理人は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「ああ、フィオナ殿か。まことに申し訳ないが、最高級の『陽光小麦』は、宮廷料理長が全て確保されてしまってねえ。なんでも、手違いで、他の在庫がどこかへ行ってしまったようだ」
「手違いなわけないじゃない! 絶対、わざとよ、こんなの!」
エリィが隣で食って掛かるが、フィオナは静かに引き下がるしかなかった。
客室に戻ると、ルーカスが荒々しくテーブルを叩いた。
「だから言ったんだ! こんな陰湿な連中がうろつく場所、俺たちには向いてねえ! いっそ、こんなクソみてえな晩餐会、ぶち壊して……」
「……いいえ」
ルーカスの言葉を遮ったのは、静かだが、鋼のように強いフィオナの声だった。
彼女は、俯いていた顔を上げた。その青い瞳には、涙ではなく、青い闘志の炎が燃えていた。
「最高の小麦がないのなら、私がこの手で、最高のパンにすればいいだけの話です」
彼女は、ザルバードの砂も、シウラの雪も、ポルト・マーレの荒波も、乗り越えてきたのだ。
「こんなことで、私たちの旅を、終わらせるわけにはいきません」
フィオナは、仲間たち一人一人の顔を、力強く見回した。
「皆さん、もう一度、力を貸してください。私の、私たちの旅の全てを込めた、最高のパンを……この王宮で、焼き上げてみせます!」
その不屈の決意に、仲間たちの心も、再び強く、一つになった。
本当の戦いの火蓋が、今、切って落とされた。




