第53話 海が溶け合う味と王都への招待状
長い汽笛の音が、まるで世界の時間が再び動き出した合図のように、港に響き渡った。
バルトロとレオーネは、互いに視線を合わせることもなく、ただ目の前のパンを見つめている。やがて、二人はまるで示し合わせたかのように、それぞれの指でパンのひとかけらをちぎり、ゆっくりと、疑うように口へと運んだ。
まず、レオーネの眉が驚きにぴくりと動いた。
(……なんだ、これは……)
最初に舌が捉えたのは、間違いなく自分のオイルサーディンが持つ、洗練されたハーブの香りと凝縮された旨味だった。これこそが自分の才能の証だと信じてきた、革新の味。だが、その直後、まるで大海原のうねりのように、今まで古いと切り捨ててきた、深く、力強く、そしてどこか懐かしい海の味が追いかけてくる。バルトロたちが守ってきた、伝統のブイヤベースの味だ。自分の革新が、伝統という揺るぎない土台の上でこそ、これほどまでに輝くことを、彼の味覚が、理屈を超えて直接脳に教え込んでいた。それは、利用されていたという屈辱を、それ以上の大きな感動が包み込んでいくような、衝撃的な体験だった。
一方、バルトロは、固く目を閉じて、その味を噛みしめていた。
(……この味は……)
口の中に広がるのは、自分の人生そのものである、荒々しくも滋味深い伝統の味。だが、それを殺すどころか、まるで美しい衣を着せるように、洗練されたオイルのコクと香りが優しく引き立てている。変化とは、自分の誇りを奪う敵ではなかった。自分たちが命懸けで守ってきたこの海の恵みを、さらに遠くの、まだ見ぬ誰かへと運ぶための、力強い翼になり得るのかもしれない。長年、心を支配してきた意地が、春の海の氷のように、ゆっくりと溶けていくのを感じていた。
長い、長い沈黙。二人はただ、パンを咀嚼する。
やがて、レオーネが絞り出すような声で呟いた。
「……俺のサーディンが……こんな、こんな味になるなんて……」
「……このソースの味を引き立てる油……」バルトロが、目を開けずに応える。「悪くねえ……いや……見事だ」
二人が、初めて互いの仕事を認め合う言葉を、ぎこちなく口にした。その瞬間、レオーネは顔を上げ、フィオナを射るような目で見つめた。
「フィオナさん、もう一度聞く。本当に、俺は……あの男に利用されていただけなのか?」
「残念ながら」
マルセルが、音もなく彼の隣に立ち、帳簿の決定的な部分を指し示した。そこには、レオーネの事業から美食家同盟へと、不自然な利益が流れる仕組みが、冷たい数字で記されていた。
真実という名のナイフが、レオーネのプライドを深く切り裂く。彼の内面で、屈辱が燃えるような怒りへと変わっていった。
(俺の夢を……俺の力でこの街を豊かにするという、俺自身の夢を、食い物にしようとした奴らを……絶対に許さない……!)
バルトロもまた、静かに拳を握りしめていた。自分の意地が、もう少しでこの海を愛する者同士を争わせ、街そのものをよそ者の手に渡すところだった。その悔恨が、海の男らしい、静かだが底なしの怒りへと変わる。
(よそ者に、俺たちの海を好きにはさせん。絶対にだ)
レオーネは、意を決したように立ち上がった。
「バルトロさん。……俺は、あんたに謝らなければならないことが山ほどある。だが、その前に、まずこの街に湧いたウジ虫を、徹底的に掃除するのが先だ」
「……フン」バルトロも立ち上がり、レオーネの隣に並び立つ。「たまには、お前もマトモなことを言うじゃねえか。よし、その喧嘩、俺たちも買ってやる」
翌日、ポルト・マーレは団結した。
レオーネは商人組合を、バルトロは全ての漁師たちをまとめ上げ、例のコンサルタントを白日の下に引きずり出した。マルセルが突きつけた不正の証拠に、男は顔面蒼白になる。
「な、何の真似だ! これは双方合意の上の、正当な投資契約だぞ!」
「あんたに操られる駒でいるのは、もう終わりだ」レオーネが、契約書を男の目の前で破り捨てた。「この街は、俺たちが、俺たちのやり方で豊かにする!」
「さっさと消えな」バルトロが、海の男たちと共に退路を断つ。「二度と、このポルト・マーレの土を踏むな。次に踏んだ時は、海の底に沈めてやる」
「聞こえただろ?」ルーカスが、巨大な手で男の肩を掴む。「穏便に済ませてやるだけ、ありがたいと思えや」
コンサルタントは、街中の人々の冷たい視線に晒されながら、すごすごと逃げ去っていった。
その夜、港では盛大な祝宴が開かれた。漁師の伝統料理と商人の新しい商品が、同じテーブルに誇らしげに並んでいる。フィオナは、バルトロとレオーネに、あのフォカッチャのレシピを丁寧に教えていた。
「このパンは、もう私のパンではありません」彼女は微笑んだ。「バルトロさんの守ってきた海と、レオーネさんの拓く未来が一つになった、このポルト・マーレのパンです。どうか、これからは皆さんの手で、このパンを育てていってください」
「嬢ちゃん……」バルトロが、深い皺の刻まれた目元を緩ませる。「あんたには、頭が上がらねえよ」
「フィオナさん、ありがとう」レオーネが、心からの尊敬の念を込めて言った。「俺は、目が覚めた」
そして、旅立ちの朝。見送りに来たバルトロとレオーネが、「ブイヤベースソースの瓶詰めも商品にするべきだ」「いや、それにはオイルサーディンの改良が先だ」と、もう未来に向けた楽しそうな口論を交わしている。
その和やかな光景を破って、一頭の早馬が砂塵を上げて駆け込んできた。騎手が持つのは、ヴェストリア王家の紋章が入った、一通の招待状だった。
「フィオナ様御一行に、我が主、カリム王子殿下からの伝言です! 『先の功績に報いるため、皆様を我が国の王都へ、国賓としてお招きいたします』とのこと!」
国賓、という言葉の重い響き。
(王子様が……国賓として……? 私は、ただのパン屋なのに……)
フィオナの胸を、戸惑いと、路地裏のパン屋とはあまりにかけ離れた世界への、漠然とした不安がよぎった。
ルーカスは、そんなフィオナの表情の変化を敏感に察知していた。
(王子……だと? あいつは、フィオナをどこか遠い場所に連れていくつもりなんじゃねえのか……?)
彼女を守りたいという強い気持ちと、手の届かない存在になってしまうのではないかという焦りが、彼の表情を硬くさせる。
「国賓ですって! すごいじゃない、フィオナ!」
エリィの無邪気な歓声だけが、二人の間に流れる複雑な空気を取り払うかのように、港町の青い空に響き渡った。
フィオナは、手の中の豪華な招待状と、仲間たちの顔を、複雑な想いで見回すのだった。




