表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~  作者: 虹湖
笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、異国のパンで世界を繋ぎます! ~路地裏から広がる平和のレシピ~
52/96

第52話 一つの食卓と二つの真実

 翌朝のポルト・マーレは、いつにも増して活気に満ちていた。フィオナは夜明けと共に市場へ向かい、まっすぐに二人の男の元を訪れた。


 まずは、網の手入れをするバルトロの前に立つ。

「バルトロさん。おはようございます。お願いがあります。あなたの獲った、この港で一番の魚介を、少しだけ私に分けていただけませんか?」

 老漁師は、胡散臭そうな目でフィオナを一瞥した。

「フン、パン屋の嬢ちゃんか。俺の魚は、レオーネが売ってるような安物じゃねえぞ。一体、何に使うってんだ」

「はい」とフィオナは深く頭を下げた。「この街の未来のための、パンを焼きます」


 次に、開店準備中のレオーネの店を訪れた。

「レオーネさん。あなたの誇るオイルサーディンを、一つ譲っていただけますか?」

 レオーネは、値踏みするような視線をフィオナに向けた。

「ほう、お目が高い。光栄ですね。ですが、俺の商品は安くないですよ。まさか、あの頭の固い漁師たちに振る舞うなんて言わないでしょうね?」

「いいえ」フィオナは静かに答えた。「これもまた、この街の未来のための、パンです」


 フィオナがそれぞれの誇りを譲り受け、厨房で格闘している間、仲間たちは説得のために動いていた。


 ルーカスとエリィは、波止場で黙々と網を繕うバルトロに近づいた。

「よう、頑固ジジイ。いつまで意地張ってんだよ。ちっと俺たちに顔を貸せや」

 ルーカスがわざと挑発するように言う。

「まさかとは思うが、パン屋の嬢ちゃんの誘いを断るほど、肝っ玉が小せえわけじゃねえだろうな?」

「なんだと、この口の利き方も知らん若造が!」

 バルトロが怒鳴り返した、その時だった。

「バルトロさん……」

 エリィが、心から悲しそうな顔で、彼の袖を引いた。

「奥さんたち、みんな泣いてましたよ。『主人の誇りは痛いほど分かるけど、このままじゃ子供たちに満足にご飯も食べさせてあげられない』って……。『ただ、家族みんなで笑って暮らしたいだけなのに』って……」

「……っ!」

 家族という言葉に、バルトロはぐっと言葉を詰まらせ、険しい顔で海の彼方を睨みつけた。


 一方、マルセルはレオーネの瀟洒な事務所の扉を叩いていた。

「レオーネさん、単刀直入に申し上げます。あなたの事業を裏で支えている、あの優秀なコンサルタント……彼の本当の素性をご存知ですか?」

「何が言いたいんです。彼は俺の才能を見抜いてくれた、恩人ですよ」

 レオーネが不快そうに眉をひそめる。

「彼の金の流れを追ったところ、美食家同盟の口座に行き着きました。あなたは、ご自身の才覚でこの事業を成功させたと信じているでしょう。しかし、彼らにとっては、あなたはただ利用しやすい駒に過ぎないとしたら? あなたの成功は、本当にあなたのものですか?」

「……馬鹿なことを」

 レオーネの声が、わずかに揺れる。

「馬鹿なことかどうか、ご自身の目で確かめに来てはいかがです? 今夜、港の広場で。真実が、焼きたてのパンと共にお待ちしていますよ」

 マルセルはそう言い残し、彼の揺れるプライドに、静かな楔を打ち込んだ。


 その夜。陽が落ちた港の広場に、ぽつんと一つのテーブルが置かれていた。遠くから聞こえる潮騒と酒場の陽気な音楽が、この場の重苦しい沈黙を一層際立たせる。

 テーブルの両端に座ったバルトロとレオーネは、互いに腕を組み、憎々しげな顔で睨み合ったまま、一言も発しようとしない。


「……何の真似だ、レオーネ。てめえのような若造と飯なんぞ、喉を通るか」

「それはこちらのセリフですよ、バルトロさん。はっきり言って、時間の無駄だ。俺は忙しいんでね」

「まあまあ、そう殺気立つなよ。主役の登場だぜ」

 ルーカスが、楽しそうに二人の間に割って入った。


 その声に合わせるように、フィオナが大きな木製の皿に乗せた、湯気の立つパンを運んできた。

 それは、今まで誰も見たことのないパンだった。

 ふっくらと焼きあがったフォカッチャの上には、真っ赤なブイヤベースソースが惜しげもなく塗られ、その上に、銀色に輝くオイルサーディンが美しく並べられている。散りばめられた緑鮮やかなハーブと岩塩が、まるで豊かな海そのものを凝縮した絵画のようだった。香ばしい小麦の香りと、濃厚な魚介の匂いが、二人の男の鼻腔をくすぐる。

 バルトロもレオーネも、思わず言葉を忘れ、そのパンに見入っていた。


 フィオナは、パンをテーブルの中央に静かに置いた。

「このパンには、お二人の誇りが乗っています」

 その声に、二人ははっと我に返る。

「バルトロさん、この赤いソースは、あなたが命懸けで獲った魚介で作った、伝統のブイヤベースを丁寧に煮詰めたものです。そしてレオーネさん、この輝くイワシは、あなたの未来を拓くオイルサーディンです」

 フィオナは、二人の目を真っ直ぐに見つめた。

「伝統も、革新も、どちらもこのポルト・マーレの海を愛する心から生まれた、大切な宝物のはずです。争うのではなく、一つのパンの上でなら、手を取り合えるのではないかと、私は思いました」


 その時、マルセルが静かに一歩前に出た。

「そして、その宝を丸ごと奪い去ろうとしている者たちがいます。レオーネさん、あなたに資金を提供した例のコンサルタントこそが、美食家同盟の手先です。彼らの真の目的は、あなた方漁師と商人たちを徹底的に対立させ、疲弊しきったこの港の利権を、根こそぎ乗っ取ることにあるのです」

「そうだぜ、バルトロのジジイ」とルーカスが続く。「あんたの仲間の漁師も言ってたぜ。『最近のレオーネは、どこの馬の骨とも知れねえ胡散臭い奴にそそのかされてる』ってな!」


 突きつけられた真実に、レオーネの顔から自信の色が急速に消えていく。

「……なんだと……? 俺は……俺の成功は、ただ利用されていただけだとでも言うのか……?」

 バルトロも、驚きに目を見開いたまま、レオーネとパンを交互に見ていた。

「……どういうことだ……。俺たちの喧嘩は、全部……」


 自分たちの誇りが乗せられたパン。

 そして、自分たちの対立が、仕組まれたものであったという、あまりに衝撃的な事実。

 二人の視線が、目の前のパンの上で交錯する。


 フィオナは、そのパンを指し示した。

「さあ、どうぞ。冷めないうちに。これが、この街の本当の味です」


 バルトロとレオーネが、まるで引き寄せられるかのように、ためらいがちにパンへと手を伸ばそうとする。その指先が、パンに触れるか触れないかという、張り詰めた静寂の中で、港に長い汽笛が鳴り響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ